第一章 黒き咆哮~ブラックハウリング~
第一章 黒き咆哮~ブラックハウリング~
(1)
メイシアは、吹く風に頬を打たれ、我に返った。
叩きつけるような風が冷たい。長い髪を風に遊ばせながら、彼女は眼下で繰り広げられる光景を、まるで別世界の出来事のように眺めていた。
彼女のすぐ前で、地面は途切れ、そのまま垂直の崖となり、高いそこからは街が一望できる。街は周囲を山で囲まれ、その窪地の中に密集するようにあった。
街の名は、テュリエフ。
そして今、メイシアの目の前で、テュリエフはその最後を激しく迎えていた。突然の鉄砲水によって、通りという通りは即席の河川となり、高波に教会の尖塔がさらわれる。街は崩れ去り、すべてが文字通り、水泡に帰してしまった。
空はあいにくの曇天で、渦巻く灰色の雲が、彼女を押しつぶすように暗くのしかかっていた。
テュリエフ水没。
その報は、あまりの唐突さと規模の大きさに、近隣の住人はにわかに信じられなかった。聞いた者も聞かされた者も、まるで冗談のようだと互いに言い合い、首を傾げる始末。
地理的な問題と、生存者の少なさが、正しい情報の伝達を妨げている部分もあったが、もうひとつ、ある噂が、事の真偽を曖昧にしていた。
そして---テュリエフから一番近い場所に位置する街の目抜き通りでは、昼過ぎの今、騒動のまっただ中にあった。
彼は行き交う人の波をどうにかすり抜けつつも、どこかそれうを楽しんでいる風でもある。全身を覆う黒マントの端から、露店の前で売り買いしている者達を眺め、そうこうしている間に、誰かに突き飛ばされたりぶつかったりと、どうにも頼りない動きだ。
「何度言えばわかるのよっ!」
彼の耳にも、女の声は届いた。
しかし彼は、ちらりと声の方向に頭を向けたが……結局、人の波に流されてしまう。
「竜よ、竜がやったのよ!」
その叫びに、彼は初めて顔を上げ、周囲を見渡す。目抜き通りの市場に集まる買い物客、そして何かの野次馬に巻き込まれ、身動きがとれなくなっている事に気付く。
しかし彼は、今度は逆に、騒ぎの中心へと向かって行った。
その光景は、女が一方的に不利だと誰もが思っていた。しかしその同情心も、自分に矛先が向いていないからこそ発揮できるもの。
「だいたい、いきなり人を突き飛ばしといて謝りもしないでっ!」
女---まだ少女の域を脱していない、若い娘は、自分を取り囲んでいる数人のごろつき達にひるみもせず、逆にくってかかる。
「しかも、あたしの顔を見た途端に〈ホラ吹き〉ですって!? あたしがいつ、嘘なんてついたっていうのっ!!」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、男の一人が娘の顔を近づける。昼間から酒を飲んでいるらしく、顔は赤く、酒の匂いがぷんぷんただよっている。
「へっ。今も言ったじゃねぇか、街は竜にやられたってな」
「本当よ。あたしはこの目で見たんだから!」
娘の叫びに、男達は互いに顔を見合わせると、げらげらと下品な笑声を上げる。
「んだよ。そんな適当な話、誰が信じるんだってよ! 他の奴等だってそうさ!」
なぁ、と周囲に群がっていた者達に大仰な動作で示すと、野次馬は途端に顔をそらし、そそくさと立ち去る者も多い。
だが、どこかで彼女を嘲るような声も、確かに聞こえた。
それに男は満足そうに口を歪め、娘に向き直る。
「お嬢ちゃんも、素直に今この場で謝っとけよ。私の話は嘘です、ごめんなさいってなぁ」
途端に、群衆からどっと笑声があがる。
メイシアは、ただ唇をかみしめ、うつむいて細い肩を震わせる。
---なによ。
行き場のない怒りは、ともすれば憎悪に変わりそうになる。
---あんた達、何にも見てないくせに、知らないくせにっ!
そして理性の堤防から溢れた感情は、どす黒く渦巻き、喉から今にも叫びとなって溢れそうになる。
「待って下さい。少し、言い過ぎだと思いませんか?」
罵りの声を上げようとしたメイシアを止めたのは、穏やかな男の声だった。
声のした方に顔を向けると、人垣から不器用そうな動きで黒マントの人物が出て来るところだった。
「……だれ?」
声からして、男だろう。
枯れ枝のような長い杖を持った、魔導師風の格好をした優男。メイシアを囲んでいる男達に負けていないのは、身長くらいのものだろう。
「どちらに非があるのかは、私にはわかりません。それでも、女子一人に男が四人というのは、少々不公平でしょう。どうかここはお互い引きませんか?」
「へっ、嫌だっていったら、どうすんだよぉ」
黒マントは、その返答が意外だったのか、数秒考え込むように沈黙するが、
「では、こうします」
言って、杖を振り上げる。
少女を囲む男達に、緊張の色が走る。
彼らも、黒マントの正体に気付いているのだろう。
---魔術師。
杖のひとふり、呪文の声ひとつで地を割り、炎を巻き起こす。
古き者--竜を友とし、彼らの魔法を〈術〉として昇華し、使いこなす者。
だがその栄光も、既に過去のもの。
ここしばらくは、才能ある者の減少に伴い、需要そのものも減ったのか、今では存在自体が稀少となり、魔法技術も衰退する傾向にある。
今、世間で眼にするのは、街頭で、手品のように蛍火や小さな火を起こして小銭を稼ぐ芸人まがいの者程度だ。しかし、実際、ここより遠く離れた地では、未だに最盛期のままの魔術を扱う集団も存在しているという話もある。
男達が--例え噂話にしか聞いた事がないとしても--その秘められているはずの能力に、一瞬、すくんだとしても無理はない。
そして、黒マントは、掲げた杖を持ち---
「どうかやめてください」
いきなり土下座した。
「---はぁ……?」
「あなた方の間に、いったいどのような行き違いが生じ、今のような事態に陥ったのか、私には皆目見当もつきません。が、しかし、暴力という短絡的な手段に訴える事は、将来、お互いの信頼関係の復活に禍根を残す事になりかねません。ここはひとつ、度量の深いところを見せて……」
黒マントは、杖から炎を出す事も、目の前の男達をカエルに変える事もせず、ひたすら低姿勢で謝り倒し始める。
さすがに意外だったのか、男達は、数瞬あっけにとられていた様子だったが、すぐ我に返ると彼にもあらん限りの罵声を浴びせる。
しかし黒マントの男は---フードをかぶっている為、顔は見えなかったが---表面上はまったく平然とした様子でさらに色々と、人生の出会いと別れについて語ってみせたりする。
それが逆に男達の神経を逆なでしてしまう。
「面白れぇ。あんたが代わりになってくれるってか?」
一人が乱暴に黒マントを引きずり寄せ、胸ぐらを掴み上げる。
と、不意に黒マントのフードが、不自然にふくらみ、動き出す。男はそのふくらみに気付き、殴ろうと振り上げていた腕を止め、首を傾げる。
フードの中から、ひょこりと何かが顔を出した。
「うっ、なんだよ、それは!」
男は黒マントを突き飛ばすようにして大きく飛び退る。反動で倒れてしまった彼だが、尻餅を着いた途端、フードが肩に落ちてしまう。
灰色に薄汚れた髪を無造作に伸ばし、前髪は目元を覆い隠すほどで、どんな顔をしているのか今ひとつわからない。
そしてフードの中にいた何かはというと、彼の肩口で、文字通り羽根を伸ばしていた。
大きさは猫ほどで、黒く鈍い輝きを持つ鱗の生えた身体に、逆三角形の頭部。背には膜の張った羽根が一対広がっている。
「……竜だ」
一体、誰のつぶやきだったのか。
大きさから見て、大型のトカゲのような生き物だが、羽根のあるそれは赤い眼を男達に向ける。
「りゅ、竜だっ!」
黒マントは座り込んだまま、慌てふためく男達と、肩口に乗っている生き物を見比べ、ようやく合点がいったのか、
ブラックハウリング
「あぁ、この子は〈黒き咆哮〉です」
「---黒き咆哮?」
数多い伝説の中、もっともたるものが竜に関わる物語。その中でも〈黒き咆哮〉は、姿持つ竜として、有名な存在だ。
栄光と破滅を与える、人間以上の英知と生命力を併せ持つ存在。
姿を見せる事は滅多にない。しかしその恐ろしさだけは、人心に深く根付いていた。
黒竜が、吼える。
それだけで男達は震え上がり、まだ余裕のある者は、捨てぜりふを吐きながら……全員逃げ出した。
「あの、怪我とかないですか?」
逃げた男達の行方を目で追っていたメイシアだったが、その声に振り返る。見ると、黒マントがこちらに近づいて来る。最初に現れたときと一緒で、全く慌てた素振りもない。
「……別に、平気よ」
ややそっけない態度が出てしまったが、黒マントは気にした風もなく、そうですかと、といって笑った。
メイシアは、その笑みにかすかに苛立ちを覚える。
心配してくれているのだろうが、悲しいかな、今の彼女は頭でそれを理解できても、好意を素直に受け止めるだけの余裕がない。
「ありがと、じゃあね」
愛想なく背を向け、メイシアは黒マントに背を向けた。
彼はというと、人並みに消えて行く後ろ姿を眺めながら、別段気を悪くした様子もなく、ただぼんたやりと立っていた。
しばらくそのままの状態だったのだが、やがてまた戻ってきた人並みに背中を突き飛ばされ、ようやく我に返る。
「さて、どうしましょうか。クロツくん」
肩に乗っている黒竜に向かって話しかけたが、竜の方は、勝手にしろとばかりにぷいとそっぽを向いてしまった。
(2)
街を横断するように、その川は流れていた。
テュリエフはこの川の上流に位置していたが、あの鉄砲水の被害はこの街に届く事はなく、後に聞いた話では、当時も普段と全く変わらない様相を見せていたという。
メイシアは、橋の下に膝を抱えて座っていた。
周囲には濃い闇が落ち、聞こえるのは川を流れる水の音と、ゆるやかな風がそこら辺の雑草をなでるざわめきだけだった。
彼女はあれからずっとここにいた。
別に、こんな橋の下に住んでいるわけではない。
テュリエフが水没した後、数人の生存者と共にこの街にたどり着いた後、失業者や浮浪児の世話をする救護所に身を寄せ、今もまた、日雇いの仕事をしながら、そこで寝泊まりしていた。
それでも、他人ばかりの中ではさすがに息苦しく感じ、その度に彼女はこんな風に誰の目も届かない場所に行っては時間をつぶしていた。
本当はすぐにでも救護所を出て長期的に働ける、できれば住み込みの仕事に就きたかった。
しかし現実は、そう上手くいかず。日雇いの仕事を見つけては、小銭を稼いでいるだけで、それが終わればまた、救護所で窮屈に眠る。そんな毎日の繰り返し。
メイシアは膝を抱え、ため息と共に呟く。
「……なんで、もっとがんばって大きい街に行かなかったんだろ……」
理由は簡単。
テュリエフから、一番近かったから。
着の身着のまま、ただ逃げるだけしかできなかったあの時、とてもじゃないが、長期に旅をする余裕などなく、そして今も、そんなことが許される経済状況ではない。
かといって、この街で今以上に割の良い仕事はそう簡単には見つからないだろう。
メイシアは、昼間の出来事を思い返す。
これでまた、彼女に対するよからぬ噂は広まり、更に職探しが難しくなる。
思考が泥の沼をさまよい始め、そのままずぶすぶと沈み込みかけた頃……
---少し遠くで、叫び声がした。
絹を裂くような……ではなく、うわずっていたが男の声だ。
メイシアが顔を上げると、声の聞こえた方向に、小さな灯りが揺れていた。
声は、どうやらそこから発せられたらしい。
そうこうしているうちに、光は少しずつこちらに近づいてくる様子だ。
メイシアは、わずかに腰を浮かし、逃げるかどうか逡巡する。
しかし、結局彼女は元いた位置に座り直した。
色々と疲れて面倒くさかったこともあったが、あの声と同時に聞こえた音から察するに、あの光の主は、足を滑らせて土手から滑り落ちたのだろう。
そんな抜けた事をする相手が、自分に危害を加える度胸があるとは到底思えない。
まぁ、よからぬ想像は巡ったが、そうなったときは全力で逃げるのみ、だ。
自分もずいぶん大胆になったなぁ、と感心したりあきれたりしている間に、光はすぐ側までやって来ていた。
「あ、あの---」
光に照らし出された声の主は、どうやら物取りの類ではないらしい。
だが予想外の人物に、メイシアは思わずふてくされていた顔に驚愕の色を浮かべる。
「あんた、昼間の……」
黒マントの魔導師が、薄汚れた姿でそこに立っていた。肩に乗った黒竜が、赤く輝く目をこちらに向けている。
昼間も持っていた杖の先には、白い光が灯っている。
あっけにとられていたが、すぐにメイシアは、不機嫌そうに眉根にしわを寄せる。
「何しに来たのよ。まさか、あたしを探しに来た、なんて言うんじゃないでしょうね?」
そのまさかとばかりに、彼は機嫌良さそうに笑って首を縦に振る。
「苦労しました。やっと見つけましたよ。見つけたと思ったら、そこの土手から滑り落ちてしまいました」
彼はやって来た方角を指で示す。まだ身体に土や、葉っぱが付着している。
そのつかみ所のない態度に、メイシアは更にいらだたしさが募る。
「---で、何の用なわけ?」
メイシアは警戒心も露わに尋ねる。
「用というか、ちょっと、あなた聞きたいお話がありまして。あなたが昼間に言っていた、水竜の件ですよ」
え、とメイシアは黒マントの言葉に顔を上げる。
「水竜……。あんた、何でそんな事を、それに、あたしは水竜だなんて一言もいってないわ」
メイシアは、先程までとは違う感情を込めて、黒マントを見据える。
「あんた、何か知っているわけ?」
「それを確かめようとしているのです」
黒マントは屈託なく笑うと、腰をかがめて橋の下に入って来る。メイシアが大して広くもない橋の下で身体をずらして場所を空けると、黒マントは適当に間を開けて座った。
熱のない光が、二人の姿をぼんやりと照らし出す。
「まずは、名乗らないといけませんね。私はシオ。この子はクロツです」
黒マント--シオは、自分と、次に黒竜を指さす。
メイシアも、とりあえず名乗る。
そして、彼女は自分の見た事を語り出した。
(3)
彼女は膝を抱えて座り込み、崖の向こうに広がる景色をぼんやりと眺めていた。
眼下に美しい町並みを一望できるそこは、メイシアお気に入りの場所だ。
主要な街道からも外れている為、地元の人間すらも滅多に寄りつかない、そんな場所。
彼女はその日の朝に、勤め先を辞めていた。なんて事はない、ちょっとした考えの相違が元で、店主と口論になり、お互い興奮していた為、メイシアは一方的に「こんな所、辞めてやる!」と叫び、売り言葉に買い言葉で、店主も彼女を追い出した。
その足でここまで来ると、彼女は晴れた空を眺め、昼頃まで何もせず、ただ座り込んでいた。
さすがにその頃には、落ち着きを取り戻し、さて、これからどうしよう、やはり謝って戻った方が良いだろうか、と同じ事をぐるぐる考えていた。
しかし……
答えは出ているはずなのに、どうしてもあと一歩が出ない。
メイシアは、自分の優柔不断さに情けなくなりながら、後ろに倒れ込み、乾いた草の上に横たわる。
ぽっかりと、抜けるように青い空。
悩んでいる事が、馬鹿らしくなりそうなほど、穏やかな天気だ。
(やっぱり、戻ろう……)
うん、それがいい。
自分の中で、そう結論づける。
(……でも、やっぱりちょっと怖いから、もう少しだけ、ね)
なにが、どうもう少しなのか。
とにかく彼女は問題を先送りにして、昼寝を始めた。
どれくらい眠っていたのだろう。
吹く風の冷たさに、彼女は目を覚ました。
その目に映る空は、重く、厚い雲がたれ込め、訳もなく人を不安に陥れる、そんな色をしていた。
眼で雲の行方を追っていたメイシアは、ふと、耳慣れない音を聞いて起き上がる。
「なに……?」
腹の底に響くようなそれは、少しずつ大きくなって行く。
大量の馬車が近づいてくるような音だったが、すぐに違うと気付く。
音は街の方から聞こえる。そして、彼女のいる崖の上にまで、かすかな振動が伝わってきた。
メイシアは、崖の縁まで這って行くと、音の正体を確かめようと身を乗り出す。
そして、ひときわ音が大きくなった瞬間、街の中心部から水柱が上がった。
街の一区画を飲み込むほどの太さもあるそれは、周囲の建物のどれよりも高く水を噴き上げる。
噴出した水は、周囲の通りに勢いよく流れ込み、即席の川となる。そう思えば、また別の場所で水柱が上がり、次々と本数と水の勢いを増やし、渦を巻く。
元々、盆地にできた街だった為、水は流れる場もなく溜まり、すべてが瞬く間に水没していった。
水柱は、やがて隣り合うもの同士がひとつになり、それらがまた寄り添うように集まると、更に巨大化して、一本の巨大な柱となった。
そして水柱の頂上から、何かが飛び出し、彼方へ飛び去っていく。その正体は杳として知れなかったが、メイシアは水柱を尾のように引きながら空に昇っていったそれを、漠然と竜だと思ったのだ。
話し終えると、メイシアは深く息を吐く。
ちらと横目で隣人を見やると、なにやら真剣に考え込んでいる様子だ。
「……信じられる、こんな話?」
シオはその声に振り返ると、真摯な態度で頷く。
「間違いなくそれは竜。水を操るそれでしょうね」
「水竜、なわけ……?」
「はい。彼らにとって、川を増水させることなんで、造作もない事です」
「---っ!」
メイシアは、勢いをつけて立ち上がる。だが、橋板に頭を打ち付けそうになったので、仕方なしに少し前傾姿勢になる。そして、その勢いのまま、シオの襟首を掴んでつめよる。彼は、突然の行動に驚いた様子だったが、それだけで、手を出したり、声を荒げる様子もない。
「教えて。あんたは、何を知ってるの? テュリエフは、どうして水の底に沈んじゃったわけ!? 何か知ってるんでしょ、教えなさいよっ!!」
叫ぶうちに、感情が高ぶってきたのか、メイシアはシオの身体を乱暴に揺さぶっていた。
最初はなすがままだったシオだが、不意に、メイシアの手に、自分の手を重ねる。
「離して下さい」
静かな声音に、メイシアの頭に上った血も、一瞬ですとんと落ちた。彼女はようやく自分が何をしていたか気付くと、掴んでいた服を離した。メイシアは決まり悪げに小さく謝罪の言葉を呟くと、元いた位置に座り直す。
「……ごめん」
「かまいませんよ。---お話しを聞いた皆さんも、大体同じような反応でしたから」
シオは崩れた服を直しながら、それでもゆったり微笑んでみせた。
「みんなって……。もしかして、救護所に行ったわけ?」
「えぇ。しかし、あなた程くわしく状況を知っている方は誰もいませんでした。それに、皆さんがあなたに聞いた、とも教えて下さいましたし」
だから、私はあなたを探していた。
そう、とメイシアは息を吐くように小さく呟く。
そして、再びシオに詰め寄る。今度は手は出さなかった。
「だったら、あたしの質問に答えてよ。教えてあげたんだから、それくらい良いでしょ」
しかし、シオは頭を振る。
静かな。だがはっきりとした拒絶に、メイシアは思わず声を荒げる。
「どうして、どうして駄目なわけ!? 何でそんな風にもったいつけんのよっ!」
シオはゆっくりと顔を上げ、まるで子供をなだめるように、優しく笑う。
だが笑顔を一瞬にして消すと、青年は静かに言った。
「残念ですが、私はあなたに事のすべてを話す必要性を感じません。分かり切ったような事と思われるでしょうが、あなたは一刻も早くすべてを忘れ、普通の生活を取り戻して下さい」
メイシアは沈黙し、いつの間にか乗り出すような格好になっていた事に今更気付き、ぺたんとその場に座り込んだ。シオもまた、それ以上何も言わず、肩に乗った黒竜が、血のように赤い眼を彼女に向けていた。
「……普通って、なんなわけ?」
メイシアはぽつりと呟く。
対して、シオは沈黙を守ったまま。
「あたしの〈いつもの生活〉ってやつは、あの時に全部なくなったの。もう、戻らないの。そんなんことくらいはわかってるし、あんたの言う通り、早く立ち直った方が良いに決まってる。でも、でも……なんだか、身体のどこかに穴が空いちゃったみたいで、隙間が埋まらないの」
途切れ途切れになる言葉は、次第に喉の奥から絞り出すようになり、彼女自身にも聞き取りづらいほどかすれてしまっていた。
「結局、あたしは竜を見たって騒いで、誰かに相手してもらって、その隙間を埋めたかっただけかもね。---でも、あたし、嘘はついてない。確かに何かはいたの。鉄砲水でもなんでもなかったの!」
「……私は、あなたが嘘をついているとは思っていませんよ。それに、あなたの行為が間違っているとも言っていません」
「え……?」
「あなたの行為は、確かに徒に混乱を招いたかも知れません。それによって、あなた自身も傷ついた。しかしそれは、あなたの心が必要としたから。そうしなければ、あなたの言う隙間が埋まらなかったから。物を食べて眠るのと同じように、心が必要とした行為だと、私は思います」
シオの言葉に、メイシアは途端に我に返ったように顔を上げる。両手で何度も眼の周りをこすり、彼に向けた表情は、笑っていたが、少しだけ無理があった。
「何よ、それ。あたしが馬鹿騒ぎしていた事を、よくもまぁそこまで立派に正当化できるわね。単に、あたしは目立って関心を引きたかっただけかもよ」
「他者の関心を惹きたい。それも十分、人間の誰しもが持つ願望ですよ」
メイシアは、眉根を寄せる。
どうにも、話の趣旨がずれてきている事は理解できたのだが、上手く言葉が出ない。
結局、口をついて出たのは、あまりほめられたような言葉ではなかった。
「……あんたって変な奴よね」
もう少し、言い様はないのかと、メイシアは言った後に後悔した。
相手は、それに不快感を覚えた様子もなく、むしろ珍しい事を聞いたとばかりに楽しそうにしている。
「変、ですか?」
「そう、すっごくおかしい」
メイシアが生真面目に言い放った一言に、シオは笑った。
楽しそうに、そして、どこか安心できるような笑顔で。
メイシアは、同じ笑顔でも、こんなに種類があるのかと、妙に感心してしまう。
そして同時に、心にたまっていた鬱々としたものが、少しずつ溶け出していくような暖かい感触を覚えた。
本当、変な奴よね。
でも……なんで、こんなことしているの?
「ねぇ、あんたも、もしかして街にいたわけ? だから、こんなことしてるの?」
街が水没した原因を探る理由。
もしかすると、自分と同じような境遇からのものでは?
しかしその予想は、あっさり裏切られた。
「いえ、違います。私があの場所に行ったのは、被害にあった後ですよ」
「そう、なんだ……」
「テュリエフは、整備された美しい街だったと聞き及んでいます」
「うん、きれいだった。でも、なんか宗教色が強くてね、あたしにはちょっとお堅くて、馴染めなかったけど。なんだっけ? イデア教とかいったっけ、そこに割と大きい教会があったの」
「イデア教、ですか」
「うん。テュリエフは、神に愛された街とまで言われてたわ。---結局、神様は助けに来てくれなかったけど」
メイシアは顔を上げ、つられてシオも同じようにしたが、そこには薄汚れた橋板しか見えない。それでも彼女には、違うものが映っているのだろう。
シオはゆっくりと彼女の横顔に視線を移し、そして橋板で頭を打たないように注意しながら立ち上がる。
「ちょっと、何処行くの。あたしはまだ何にも聞いてないのよ!」
慌てて身を乗り出してくるメイシアに、シオは軽く一礼する。
「申し訳ありませんが、私に話すつもりはありません。それでは、失礼いたします」
さっさと歩き出したシオを見て、メイシアは橋の下から飛び出して追いかける。当のシオは、彼女が追ってきている事に気付くと、あっさり足を止めて振り返った。
「……何で待ってんのよ」
「追って来られたので。走るのも、疲れるでしょう?」
そのどこかずれた物言いにこそ、メイシアは疲れてしまったが、彼女は気を取り直してシオに人差し指を突きつける。
「決めた。あたし、あんたについて行くわっ!」
「それは、やめておいた方が良いですよ」
「でも、もう決めたのっ! あたしが勝手にあんたの後をつけ回すからねっ!」
メイシアは自分でも驚くくらいの勢いでまくし立てると、じぃっとこのつかみ所のない魔導師を見据える。そして、今、自分の言った内容を、もう一度胸中で繰り返す。
実は、行ってしまう彼を見て、とっさに叫んだ事なので、本当に後先も何も考えていなかった。
「……困りましたね」
本当に困ったとばかりに、シオは頭をかき回す。
「でも、駄目ですから」
言って、シオは勢いよく走り出した。
今まで見せた事のない瞬発力に、メイシアは一瞬、あっけにとられてしまい、出遅れてしまう。
「あぁっ! このっ、待ちなさいっ!」
今度は、追いかけても立ち止まるような真似はしなかった。
しばらくは追いかけっこが続いたが、町中に入り込まれ、幾つか角を曲がるうちに、シオは黒マント姿を見失ってしまった。
(4)
翌朝。
メイシアはシオを探して街をかけずり回ってた。
とりあえず、宿屋に片っ端から足を運び、それらしい人物が泊まっていないか聞いて回る。しかしやはり胡散臭く思われるのか、成果は上がらなかった。
昼過ぎになって、一度救護所にも行ってみたが、今日は来ていないという返事だった。
「見つからないわね……」
今更ながら、人捜しの難しさを知るメイシアだった。
このまま適当にさまよっても到底見つかるとは思えない。探そうにも、他に人が集まりそうなところといえば、酒場か賭博場くらいだろう。
とても女一人で乗り込める場所ではない。
「特徴は、あると思うんだけどね……」
胡散臭い黒マント姿に、肩には黒い竜。
メイシアはぶつぶつ言いながら、人の多い通りを歩いていた。
だが、つい、人を見るのに夢中で、あまり前を確認していなかった。と、男がメイシアを突き飛ばす。
「ーーーった、何すんのよ!」
くってかかろうとしたが、逆に腕を強く掴まれてしまう。
「んだよぉ、痛いじゃねえかぁ」
男は典型的なごろつきという容貌で、不躾な視線でメイシアを見下ろす。
「うるさいわね、痛いのはこっちも同じよっ! さっさと手を離しなさいっ!」
全くひるまず言い返してきたメイシアに、男は一瞬あっけにとられたが、すぐに眦をつり上げ、更にメイシアの腕をひねり上げる。
「こぉんのアマぁ、ふざけんなぁ!」
「い、痛い痛いっ!」
(どーして最近、あたしはこんなのとしか当たらないのよっ!)
別に、どこかの会った事もない貴族様に突然求婚されたいわけでもなかったが、こんな状況では苦情のひとつも言いたくなる。
「よぉ。そんななめた態度とるんならよう、ちょいと俺につきあってもらおうかぁ?」
「嫌にきまってんでしょ!」
メイシアは自由な方の腕を、男のみぞおちにでも喰らわせてやろうかと身構えたその時ーーー
「おいおい、兄ちゃんよ。女の子はもっと大事に扱ってやんな」
唐突に二人の間に中年の男が割って入る。
「んだよぉっ、やろうってのかぁ?」
「ん? 俺とケンカしようってのか。別にかまわんぞ」
相手を逆に挑発するような言動の男は、楽しそうに笑っている。年齢は、三十代後半から五十代までならどの辺りにも当てはまりそうだ。長身に、幅の広い身体。あの太い腕に突き飛ばされたら、メイシアなどひとたまりもないだろう。
だが口元の笑みとは対照的に、眼光は鋭い。
「けどよ。俺は平和主義者だからな。なるべくなら、やり合わずにすませたいところなんだが……」
格好も、この街の住人や、行商人とは考えにくい。埃をかぶった旅装で、流れの傭兵か軍隊崩れのようだ。
何より、男の背負った得物が危険な匂いをまき散らしている。
「それでもやりたいっていうなら、ちょっと待ちな」
男は背中の分厚いバスターソードに手をかけると、通常の人間なら持ち上げるのも困難なそれを、軽々とまでは行かないが、それでも平然とした顔で抜いて地面に突き立てた。
ずん、と腹に響く音がする。
「素手の人間に武器を使っちゃあいかんよなぁ。さぁ、こっちは準備できたぜ、どっからでもかかってきな」
豪快な笑みに、チンピラは何か叫ぼうとしたが、それも叶わずむなしく口をぱくぱくさせる。
「なぁ、どうした?」
男が一歩近づくと、チンピラはすっかり気迫負けしたのか、メイシアの手を離すとなにやらよくわからない捨て台詞を吐きながら、通りの向こうに消えていった。
恐らく、「覚えていろ」だのという、あまり個性のないセリフだったのだろう。
「やれやれ、根性の座ってない奴はこれだからな」
男はバスターソードを背負い直し、呆然とするメイシアに歩み寄る。
「平気か、嬢ちゃん」
男は少し髭の伸びた顔で、子供みたいに笑ってみせる。日焼けした精悍な顔つきだが、どこか懐かしさを感じさせる笑みだ。
「あ、その……。ありがとうございます」
その笑顔にすっかり毒気を抜かれたメイシアは、ぺこりと男に頭を下げる。
「嬢ちゃんみたいな女の子が、こんな通りを一人で歩いちゃあいけねえよ。この辺、ちょいと物騒な気配だぜ。誰か連れはいないのか?」
「はぁ……」
メイシアはどう返そうか悩む。
連れなんているわけがないし、そもそもこんな場所を歩く羽目になったのは、あの魔導士を探しての事。
「その、人を探していて……」
これだけ言うのが精一杯だった。
夕刻。
空がオレンジから薄桃色に染まり、ゆっくりと空の青が深くなっていく時分。
石造りの家々が長く、深い影を落とす。
露天商は早々に店じまいを始めるが、酒場などはむしろこれからが稼ぎ時になる。むしろすでに気の早い連中が酒盛りを始めているのか、ときおり盛大な笑い声が聞こえる。
そんな表通りの喧噪も、一本通りを違えただけで、雰囲気はがらりと変わってしまう。表の物音は聞こえても、人通りはまばらで物寂しい。
男が歩いていたのは、そんな場所だ。
通りに小さな露店を構える男だが、売っている物といえば、戦争で死んだ兵からはぎ取った武器や防具で、それらを磨いたり、手直しして出している、いわゆる盗品の類だ。
そんなばった物でも、今日はいつもより良く売れた。だからこれから酒場で一杯引っかけて、身体を温めてから盗品をしまっている穴蔵に戻ろうと考え、そして再度懐の重さを確かめるのだった。
「ーーーなぁ、遊ぼうよ」
長く伸びた影の先に、何者かが立つ。
可愛らしい声に、客取りに出て来た娼館の女かと思ったが、ぱっと見て少年だろう。男は無視して通り過ぎる。
「遊ぼうよ」
無邪気な声。ふわりとした足取りで、自分の脇をすり抜ける。
「なぁなぁ、こっち見てよ」
からかうような声に、男はうろん気な目を向ける。
しかしその目が驚きに見開かれた。
少年は、男の様子に笑みを浮かべ、手にした革製の金入れを振るう。
「なっ、こいつっ!」
男は顔にさっと朱が走る。いつスリ取られたのか、まったくわからなかった。
「ははっ。早く捕まえに来いよ!」
ーーーでないと、返してやらねえ。
少年は、けらけらと笑い、わざとらしく金入れを高く掲げて走り出す。
「このガキがぁっ!」
男は怒声を張り上げ、少年の後を追いかける。
ーーーあのガキ、捕まえたらただじゃおかねえ!
この町では、スリは鞭打ちと決まっている。
役場に突き出すには、かなり幼く、男も多少良心が痛む……わけはなかった。
そう、己の金を奪った相手に容赦する理由などどこにもない。
いつの間にか、大量の汗が頬を伝っていた。それを乱暴にぬぐってから、角のところで律儀に待っている少年に狙いを付ける。
まるで早く追いかけて来いといわんばかりの態度に、男は口中で唸るような怒声を上げる。
ーーー馬鹿にしやがって!
少年が、角の向こうに消える。
「待ちやがれぇっ!」
男がようやく角を曲がったときには、少年の姿はなかった。がらんとした路地があるだけだ。
「ここだよ」
自分の頭上で声がした。振り仰ぐと、窓と窓に渡してある物干し用のロープに片手でつかまっている。
そしてもう片方の手……右手には、短刀が握られている。
少年は男が自分に気づくと、にんまりと笑みを浮かべ、奇妙にゆっくりとした動作でロープを持った手を離す。
いや、男の眼にそう映っただけだろう。
少年は短刀を逆手に構え直し、そのまま男の直下に落ちる。
男はそれを焦りながらも何とかよけ、情けない悲鳴を上げながら地面にしりもちをついた。
短刀は、男から大きくそれ、影の頸部に……地面に突き刺さる。
次の瞬間、壁に血が飛び散った。
男は不可思議な顔をしながら、自分の首筋から壊れた蛇口のように溢れ出す鮮血を止める事も出来ず、その場に倒れた。
「ふふっ……」
少年は動かなくなった男に奇妙なほど落ち着いた笑みを向けると、地面に突き刺さった短刀を抜いた。
その短刀は、黒い刃をしていた。
男はイリューザと名乗った。
各地を巡り、時には傭兵まがいのまねごとをやって生計を立てているという。
「俺の産まれた所はよ、冬は馬鹿みたいに雪が降る。特産品も名物もなんにもないからな、こうして働きに出るしかないわけだ」
豪快に笑う彼に、メイシアは不思議な暖かさを感じた。
「うちには大量のガキどもがいるからな、稼ぎまくらないといかん」
そして、趣味と呼ぶにはどうかと思うが……実家では孤児を集めているらしい。
今は稼ぎを手に、実家に戻る最中だという。
「なんだ、嬢ちゃんも親なしかい。だったら俺の所に来い。贅沢はさせてやれんが、なかなか楽しいぞ」
「考えとくわ」
そんな会話をしているうちに、二人の周囲は異様なざわめきに包まれていた。
人が走り回り、通りの先では何ごとかを見極めようとする野次馬でごった返している。
「何かしら?」
「夫婦喧嘩にしては、ちょっとばかり大げさだな」
呑気に言葉を交わす二人の耳に、走ってくる男の声が耳に入る。
「人が……人が殺されてるぞ!」
途端、人の群れが更にざわめき、さらなる情報を得ようと動き出す。
「こいつは尋常じゃねえな」
イリューザは口の端をつり上げて、呟いた。
メイシアはそこで、人混みをすり抜けようとしている者に気づく。
野次馬より背が高く、そしてかぶっている黒ローブ……
彼女は、反射的に叫んでいた。
「あぁっいたっ! そこの黒ずくめ、止まりなさいっ!」
あまりの声量に、周囲の人間が何事かと彼女に注目する。そして問題の黒ローブもまた、びくりと肩を震わせ、集まった野次馬と同じ動きを始める。
黒ローブはそこで、声の発生源……メイシアに気づいたらしく、慌てた様子でフードを下ろす。
そこには彼女が散々探していた男の顔があった。
「な、あっ、メイシアさんっ?」
なんでここに、とシオはよほど驚いたのか、何とも情けなくばたばたしている。
しかしそんな態度が、周囲の人間には不審者として取られたらしく、何者かがこう叫んだ。
「おい、こいつが犯人だっ!」
そして、場は盛大に混乱した。
(5)
「……大まかな話は理解できました」
シオは、げっそりと疲れた様子で言った。
あの後、シオは興奮した野次馬に危うく袋だたきになる寸前まで追い詰められてしまったのだが、イリューザの助太刀でなんとか場を乗り切った。
そして混乱の収まらないその場から、三人と一頭は一目散に逃走した。
ようやく落ち着いたのが、町はずれにある酒場兼宿屋、そのテーブルの一角。
そこで三人は隅の席に座って互いに顔をつきあわせる。
メイシアは、自分の取った行動のうかつさに顔も上げられない。
「ご、ごめんね」
「いえ……」
シオは、更にみすぼらしくなった格好で、情けなく笑っている。
「それより、こちらは?」
彼が顔を向ける先には、イリューザの姿があった。しかも既に一人で酒盛りの体勢に入り、足下には空瓶が数本置いてあったりする。
メイシアはちらりと上機嫌の男を見上げると、一言。
「通りすがりのおじさん」
「おいおい、失礼だな。それより、あんたがこの嬢ちゃんの連れかい?」
今度はイリューザがシオに詰め寄る。しかも、酒瓶を握って。
さすがのシオも、若干引き気味である。
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、別れ話のもつれか?」
「もっと違うわよ。あたしはこの人に用事があったんだけど、妙に秘密主義でなんにも教えてくれないし、教えてもらえるまでついて行くって言ったら逃げられたの」
「おいおい、男が秘密抱えるなんて面白くもねえぞ。そういうのはこう、妙齢な女性がやるもんだ。もちろん、美女限定な」
「……とは言われましても、こちらにも事情がありますし、旅に若い娘さんを連れ歩くわけにはいきません」
「ふむ、ま、それもそうか」
イリューザは、神妙な顔で頷く。
「ちょっと、納得しないでよっ!」
しかしメイシアとしては、ここで話が男同士できれいにまとまっては非常に困る。思わず、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「あたしはなんとしてもこの怪しげな男について行くって決めたんだから、イリューザは邪魔しないでねっ!」
「……怪しげですか」
シオの突っ込みを、メイシアはひと睨みで黙らせると、さぁこれでどうだとばかりに男二人に向き直る。
しばしの沈黙。
そして、動いたのは……イリューザだった。
男はシオに向き直ると、ややまじめになった顔で言う。
「よし。俺はイリューザ、傭兵のまねごとをやってる」
「はぁ……。私はシオです」
「あんた、これからどこに行くんだ?」
「詳しくは言えませんが、北ですね」
「北か……」
そこでイリューザは、少し考え込むような素振りを見せると、すぐに妙案を思いついたとばかりににやりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「俺が嬢ちゃんの護衛をしてやる。だからお前、俺を雇え」
「は……?」
「なに……?」
この発言には、さすがのメイシアも驚愕する。しかし、驚いて口を挟めないでいる二人を置いて、イリューザはさっさと話を進めてしまう。
「なぁに、俺の故郷も北だ。帰り道だし、今は仕事帰りで懐もそれなりに潤っているからな、安くしとくぜ」
「あの、安くされても、私は傭兵を雇う必要はないのですが」
「心配するな。あんたの身の安全は自分でなんとかしろ。俺は嬢ちゃん専属の護衛になってやる」
「いえ、ですから……」
「そうと決まれば、この席だけは俺がおごってやるよ。おい、酒の追加だ! つまみもなっ!」
店内に、店主の威勢の良い返事が響く。
「…………」
シオは、ぽかんと間抜けな顔をして座っているしかできなかった。
「完全に言い負かされてるわね」
さすがに、メイシアも事の展開について行けなかった。
それでも、イリューザの言い分ももっともだ。
確かに、これで女一人旅の危険は回避されるだろう。
しかし、問題はこの黒ローブが首を縦に振らない限り、旅は難航するだろう。
そう思ったメイシアだが……
「わかりました、一緒に来て下さい」
シオは、諦めたように嘆息する。
あまりのことに、メイシアは自分の聞いた言葉が信じられず、思わず聞き返してしまう。
「本当? いいの?」
「あの人には、勝てそうにもありません。……ですが、同行を許可しただけであって、あなたには何も話すつもりはありません。それだけは変わりませんよ」
「今はそれで十分よ。機会なんて、一緒にいればいくらでもあるわっ!」
メイシアは小躍りする勢いで跳ね回る。
「おーい嬢ちゃん、酒の相手してくれ」
そして、酒瓶を片手にイリューザも上機嫌だ。
メイシアも機嫌良くイリューザに酌をし、ちゃっかり自分のカップにも酒をついで一気に飲み干し、またそれをイリューザがはやし立てる。
「シオもついでだ、飲めよ」
「はぁ……」
イリューザはシオの肩を、まるで十年来の友人のように気安くばんばん叩く。
「飲め飲めっ、なんか知らんが辛気くさい顔してるぞ!」
そういって、シオのカップに酒を流し込む。
「……まだ、お茶が残ってましたけど」
シオは茶と酒がブレンドされた飲み物を前に、さすがに驚いた顔をする。
なんとなく、メイシアはほっとした。
半ば勢いのままに、彼に同行すると宣言してしまったが、考えてみれば、無謀も良いところだ。
色々と問題は多いだろう。
……資金的な面は、考えるまでもなかったが。
それでもシオやイリューザの様子を見ていると、そんな心配も杞憂に思える。
いや、少なくとも、もうあの橋の下で一人過去に引きずられて思い悩むようなことはもうないだろう。
彼女も笑ってシオに絡む。肩の上に乗った黒竜が、勢いに負けてずり落ちそうになり、必死にシオの肩に爪を立ててぶら下がる。
「いいから飲みなさいよ、二杯目からはまともなお酒になるから。それに、腹の中に入っちゃったらみんな一緒よ」
メイシアも酒の勢いを借りてシオに絡む。
イリューザは更に酒の追加を頼み、注文を受ける主人もこの豪快な客を前に、愛想笑いを浮かべるしかない。
「そうですね」
シオは苦笑してカップに手をかけた。
そしてその騒ぎは、店の主人が酒の在庫が切れたという言葉で終わった。
夜も大分更けた頃の話だった。
シオは酔いつぶれたメイシアを二階の宿に運び、イリューザは……とても持ち上がらないでのそのままテーブルに残してきた。
そして、そのまま酒場から出ると、扉脇の壁に身体を預ける。
「……今日は色々な事がありましたね」
肩に乗っている黒竜は、のんきにあくびをし、シオの話を聞いている様子もない。
「メイシアさんに、イリューザさん。二人とも、とても良い人です。こんな気分を、楽しいというのでしょうね」
いくら話しかけても、黒竜は答えない。
そして独り言のむなしさに気づいたか、シオは苦笑する。
「ーーーあんたは腕の立つ魔導士か?」
不意にかけられた声に、シオは顔を上げる。
声をかけたのは、十二三の少年だった。薄汚れた姿、あまり育ちの良い子供でない事は、一目でわかる。だがくるくると良く動く瞳が興味深そうに彼を見上げていて、シオは思わず破顔する。
「なぁ、あんたは腕の立つ魔導士なのかよ」
同じ事を尋ねられ、シオはとりあえず首を傾げる。
「どうしてそんなことを聞くのです?」
「あんたは魔導士だろ? 黒い服だし、杖も持ってる。それに、黒い竜まで連れてるんだ、きっとものすごく有名な奴のはずだ」
「有名かどうかは知りませんが、私はシオ。この子はクロツです」
シオはクロツの喉をなでてやる。
「ふぅん聞いたことねぇなぁ……。まぁ俺も有名な魔導士の名前なんて知らねぇけど。とにかく、俺はあんたに仕事を頼みたいんだ。金はある。なぁ、良いだろ」
自分より腰より下の少年が、必死に服にすがりついてくる。
「事情がありそうですね。とにかく、お話を伺いましょう」