真実の愛で結ばれたはずの二人が、今日もどうにも噛み合いません
「ヴィオレッタ。私は、真実の愛を見つけた」
王宮の大広間で、楽団の音が途中で止まった。
ペトラは、壁際で主人の肩掛けを抱えたまま、首を伸ばした。
人垣の隙間から、王太子クラウス殿下の金色の頭が見える。その正面に、婚約者のヴィオレッタ・ローゼンベルク公爵令嬢。そして殿下の半歩うしろに、ペトラのお嬢様、フィオナ・ハーゼ伯爵令嬢が立っていた。
立たされていた、と言ったほうが近い。
お嬢様は、扇を両手で握りしめていた。顔が白い。
「君との婚約を、解消させてほしい」
ざわめきが、波のように広がった。
また真実の愛か、と誰かが小声で言った。ペトラも、同じことを思った。この国の社交界では、二、三年に一度は誰かが真実の愛を見つける。
ヴィオレッタ様は、扇を閉じた。
泣くのか、怒るのか。広間じゅうが息をつめた。
「承知いたしました」
それだけだった。
ヴィオレッタ様は、完璧な角度で膝を折った。顔を上げるとき、一瞬だけ、殿下の肩越しにお嬢様を見た。
ペトラには、それが何の目なのか分からなかった。恨みの目にしては、短すぎた。
ヴィオレッタ様が広間を出ていくと、楽団が慌てて次の曲を始めた。
殿下は、晴れ晴れとした顔でお嬢様の手を取った。
お嬢様は、扇を握ったまま、ぎこちなく笑った。
ペトラは、もっと喜んでいいのに、と思った。お嬢様は昔から、嬉しいときほど顔が固くなる。
控えの間に下がると、よその家の侍女たちが、もうその話をしていた。
「おかわいそうに、ヴィオレッタ様。十年よ、十年」
「殿下の書類まで、全部見ていらしたって聞いたわ」
「それで、ぽっと出の伯爵令嬢に――」
一人がペトラに気づいて、口をつぐんだ。
ペトラは、お嬢様の肩掛けを抱え直して、何も聞かなかったふりをした。
ぽっと出、と言われるほど、お嬢様は何かをしたわけではない。
ペトラの知るかぎり、お嬢様は、殿下に一度も自分から近づいたことがなかった。それでも、外から見れば、そう見えるのだろう。
◇
フィオナお嬢様が王太子殿下と出会ったのは、去年の秋、王立図書館の閲覧室だった。
お嬢様は、北部の水利の古い記録を読んでいた。殿下は、昼寝をする場所を探していた。
殿下がお嬢様の隣の席で寝息を立て始め、お嬢様が「寝るなら長椅子でどうぞ」と言ったのが、最初の会話だったらしい。
それから、どうなったのかを、ペトラは詳しく知らない。
知っているのは、お嬢様がその冬から、夜中に何度も手紙を書き直すようになったことだけだ。
◇
正式な婚約の翌日、殿下は朝から伯爵家の別邸に来た。
手に、古い革表紙の本を一冊持っていた。
「王宮の書庫で見つけた。北部の水利の、百年前の記録だ。君、ああいうのが好きだろう」
お嬢様は、本を受け取って、表紙を撫でた。
撫でたまま、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
「読んだら、何が書いてあったか教えてくれ。私は三頁で寝たから」
殿下は、笑った。
お嬢様も、口元をゆるめた。ペトラは、その本が三日でぼろぼろになるまで読まれることを知っている。
「フィオナ。明日の午後は、庭を歩こう。南の薔薇園がちょうど見頃だ」
殿下は、上機嫌だった。
お茶を運んできたペトラにまで、「やあ」と手を振った。
「明日の午後は、王妃陛下の講義がございます」
「そうか。では明後日は観劇でもどうだ。新しい喜劇がかかっている」
「明後日は、外交史です」
「来週は? 遠乗りもいいな。北の湖まで――」
「来週は、地方行政について学びます」
殿下は、紅茶の杯を持ったまま、止まった。
「……朝食は? 一緒に」
「朝は六時から、礼法の先生がいらっしゃいます」
「六時」
「はい」
お嬢様は、手帳を開いて確かめながら、真面目に答えていた。
冷たく言っているわけではない。お嬢様は、聞かれたことに正確に答えているだけだ。
殿下は、杯を置いた。
「……そうか」
それから、お嬢様の手帳を覗き込んだ。
細かい字で、びっしり埋まっていた。
「これは、いつまで続くんだ?」
「王妃教育でございますから。たぶん、ずっと」
殿下は、何か言いかけて、やめた。
帰りぎわ、殿下付きの侍従マティアスが、廊下でペトラに会釈した。
三十過ぎの、背の高い男だ。殿下が十二のときから仕えているという。
「殿下、随分と楽しみにされていたのですがね」
「お嬢様も、楽しみにしていないわけではないのですが」
「そうなんですか」
「……たぶん」
マティアスは、口の端で笑って、殿下の後を追っていった。
◇
三日後の朝、六時。
お嬢様が礼法の講義を受けている小広間の扉が開いて、殿下が入ってきた。
片手に、焼きたての丸パンが二つ入った籠を持っていた。
「朝食を、一緒にと思って」
礼法の老婦人が、眼鏡の奥で目を細めた。
「殿下。ただいま講義中でございます」
「邪魔はしない。後ろで食べている」
殿下は、本当に部屋の後ろの椅子に座って、パンをかじり始めた。
お嬢様は、扇の開き方の練習をしながら、ちらちらと後ろを見ていた。扇を三回、落とした。
「フィオナ様。集中なさいませ」
「申し訳ありません」
「殿下も」
老婦人は、殿下のほうへ向き直った。
「パンを召し上がるときは、ひと口ずつちぎってくださいまし。かじるのは、厩番のすることでございます」
「……私も講義を受けている扱いなのか?」
「この部屋にいらっしゃる以上は」
殿下は、パンをちぎって食べた。
講義が終わる七時まで、殿下は背筋を伸ばして座らされていた。
お嬢様の分のパンは、籠の中で冷めていた。
お嬢様はそれを、次の講義へ向かう廊下で、歩きながら食べた。ちぎって。
◇
王宮に部屋を賜ると、お嬢様の一日はさらに詰まった。
王妃教育は、学ぶことだけではなかった。
王太子妃になる者は、王家の行事や慈善事業の差配も少しずつ引き受けていく。ヴィオレッタ様が抜けた穴が、まとめてお嬢様の机に積まれた。
初日の夕方、机の上の書類は、ペトラの肩の高さまであった。
ペトラは、これは三日は眠れないな、と覚悟した。
お嬢様は、書類の山を一度ぜんぶ床に下ろして、仕分け始めた。
「これは侍従長へ。式典の席次は、去年の担当の方が一番詳しいはずです」
「こちらは財務官へ。孤児院への寄付の帳簿です。数字の確認をお願いして」
「これは陛下のご裁可が要ります。私が見るのは、その前の段階まで」
「この件は、担当官から三案を出させてください。期限は来週の火曜で」
ペトラが走り回って配り終えると、机の上には、書類が三束だけ残っていた。
「……これだけですか」
「私が判断するのは、ここからですので」
お嬢様は、その三束を、夜までかけて読んだ。
ペトラは、その晩、ちゃんと眠れた。
◇
三日目の午後三時、殿下がお嬢様の部屋に来た。
「フィオナ。お茶にしよう。厨房に、木苺のタルトを焼かせた」
お嬢様は、書類から顔を上げた。
「十五分でしたら」
「十五分」
「四時から、慈善院の院長との面会がございますので」
殿下は、考えた。
「……では、午後くらい、空けられないのか? 一日でいい」
「空けられます」
「なら――」
「その代わり、明日の外交史を今日やります」
「……そういう意味じゃない」
お嬢様は、きょとんとした。
どういう意味なのか、本当に分からない顔だった。
その日のお茶は、十五分で終わった。
お嬢様は、木苺のタルトを半分残した。四時の面会の資料を、タルトの皿の横で読んでいたからだ。
殿下が出ていったあと、ペトラは残りのタルトを下げながら言った。
「お嬢様。殿下は、たぶん、お茶が飲みたかったんじゃないと思います」
「お茶会でしたよ」
「お嬢様と、お茶が飲みたかったんだと思います」
「飲みました」
ペトラは、皿を持ったまま、何から言えばいいか考えた。
考えているうちに、四時になった。
◇
ひと月ほど経ったころ、殿下がまた来た。
今度は、書類の束を抱えていた。
「フィオナ、明日の枢密院の会議資料なんだが。まとめておいてもらえるか?」
お嬢様は、書類の表紙を見た。
「担当官から、概要はすでに届いております」
「なら、それを――」
「殿下がお読みになるものです」
殿下は、瞬きをした。
「それ、君がやるものじゃないの?」
「殿下がご出席になる会議ですので」
「いや、だが、前のヴィオレッタは、こういうのは全部まとめて、要点だけ一枚に――」
殿下の後ろで、マティアスが咳払いをした。
殿下は、気づかずに続けた。
「――前の日の夜には届けてくれていたんだ。だから私は、それを読めばよかった」
お嬢様は、書類の束を、殿下の手に戻した。
「私の担当では、ございませんので」
殿下は、書類を持って、しばらく立っていた。
それから、何も言わずに出ていった。
マティアスは、ペトラにだけ聞こえるくらいの声で、「失礼」と言って後を追った。
あとで、マティアスから聞いた。
廊下に出たところで、マティアスは殿下を呼び止めたらしい。
「殿下」
「なんだ」
「以前の婚約者様と、現在の婚約者様を比べるのは、おやめになった方がよろしいかと」
「仕事の話だぞ?」
「何の話でもです」
殿下は、不満そうな顔をした。
「殿下も、今のご婚約者様から、昔の男と比べられたら、お嫌でしょう」
「……昔の男がいるのか?」
「いません。たとえです」
「……嫌だな」
「同じでございます」
殿下は、その晩、自分の部屋で会議資料を読んだそうだ。
夜中の二時まで灯りがついていた、とマティアスは言った。
「全部、読まれたんですか」
「三分の一くらいで寝ておられました。資料を枕にして」
マティアスは、言いながら、どこか嬉しそうだった。
翌週、殿下は夜の九時に、お嬢様の部屋の扉を叩いた。
資料を一枚、持っていた。
「フィオナ。この『按分』というのは、何だ」
「割り振りのことです。予算を、それぞれの領地の人口に応じて分けることです」
「人口に応じて」
「はい」
「……で、この表の、この数字は」
「それは、その表の三頁前に説明がございます」
殿下は、資料をめくった。
三頁前を読んだ。読んで、顔をしかめた。
「……書いてあるな」
「はい」
お嬢様は、それ以上、何も言わなかった。
自分の書類に戻った。
殿下は、扉のところで資料を読みながら、しばらく立っていた。
それから、「おやすみ」と言って帰っていった。資料からは、最後まで目を上げなかった。
「お嬢様。今の、まとめて差し上げたら早かったんじゃ」
「早いですね」
「……」
「でも、殿下の会議ですので」
お嬢様は、ペンを走らせながら言った。
ペンの音が、いつもより強かった。
◇
季節が変わっても、二人の予定はほとんど重ならなかった。
殿下は、毎日のようにお嬢様の部屋に顔を出した。
お嬢様は、毎日のように「十五分でしたら」と言った。
ある日の夕方、ペトラは書類を綴じながら言った。
「お嬢様。殿下と、ゆっくりお茶でもなさってはいかがです?」
「昨日も一緒でした」
「同じ宮殿にいただけでしょう」
お嬢様は、手を止めた。
「……違いますか?」
「かなり」
お嬢様は、首を傾げた。
それから、また書類に目を戻した。
同じ日の夜、ペトラは洗濯場へ行く途中の廊下で、マティアスと行き合った。
マティアスは、殿下の脱いだ上着を腕にかけていた。上着の袖に、インクの染みがあった。
「殿下、最近ご自分で書類をお書きになるので。袖口が毎日これです」
「お嬢様も、袖口が毎日これです」
二人で、しばらく黙って上着を見ていた。
「殿下のお気持ちも、分かるんですよ」
マティアスが言った。
「好きな方と婚約されて、これから毎日一緒に過ごせると思っておられた。それが、十五分です」
「お嬢様のお気持ちも、分かるんですよ」
ペトラは言った。
「お嬢様は、殿下の隣に立つんだから、ちゃんとしなきゃって、そればっかりで。あの方、殿下のことになると、本当に手を抜けないんです」
「なんで、本人たちには分からないんでしょうね」
「分かってたら、私たち、こんな時間に廊下で立ち話してません」
マティアスは笑った。
ペトラも笑った。笑ってから、自分も半分くらいしか分かっていない気がした。
◇
殿下が、ついに遠乗りに誘った。
「北の湖まで。一日でいい。馬で行けば昼には着く」
「承知しました」
お嬢様は、即答した。
殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
お嬢様は、手帳を開いた。
「三週間後の木曜でしたら。北の牧場の視察と合わせられます。帰りに、湖畔の村の水車の修繕状況も見られますので」
「……視察」
「ついでですので」
殿下は、手帳と、お嬢様の顔を見比べた。
「フィオナ。私は、湖が見たいんじゃなくて」
「湖も見られます」
「そうじゃなくて」
殿下は、言いかけて、髪をかき回した。
言葉が出てこない顔だった。
お嬢様は、手帳を持ったまま、殿下が何か言うのを待っていた。
待っていたけれど、殿下は結局、「……三週間後の木曜だな」と言って帰っていった。
ペトラは、その背中を見送りながら、殿下に同情した。
それから、手帳に「木曜・遠乗り(視察)」と書き込むお嬢様の横顔を見て、お嬢様にも同情した。
どちらの肩を持てばいいのか、ペトラにもよく分からなかった。
三週間後の木曜日は、よく晴れた。
北の牧場で、お嬢様は牧場主から羊の頭数と冬越しの干し草の量を聞き取り、手帳に書いた。殿下は、柵にもたれて、それを見ていた。
湖畔の村では、お嬢様は水車小屋に入って、修繕した歯車を職人と一緒に見上げた。殿下は、小屋の外で待っていた。
湖に着いたのは、日が傾き始めたころだった。
殿下は、湖のほとりの倒木に腰かけた。
マティアスとペトラは、離れたところで馬の世話をした。
お嬢様は、まだ手帳に何か書いていた。
「フィオナ」
殿下が、呼んだ。
「はい」
「……座らないか」
お嬢様は、手帳から顔を上げた。
殿下と、倒木と、湖を見た。
それから、手帳を閉じて、殿下の隣に座った。
二人は、何も話さなかった。
湖の上を、鳥が二羽、低く飛んでいった。
ペトラは、馬の鬣を梳きながら、横目でそれを見ていた。
十分くらいだったと思う。
「そろそろ戻りませんと、日が暮れます」
お嬢様が言って、立ち上がった。
殿下は、名残惜しそうに、それでも素直に立ち上がった。
帰りの馬車で、お嬢様は手帳を開かなかった。
膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。
「お嬢様。今日の視察のまとめ、今夜なさいますか」
「……明日にします」
ペトラは、思わずお嬢様の顔を見た。
お嬢様は、窓の外を見たままだった。
王宮に戻って、馬を厩舎に入れたあと、マティアスがぼそりと言った。
「十分でしたね」
「十分でも、お嬢様にしては長いほうです」
「殿下は、一日のつもりでおられたんですよ」
「お嬢様だって、丸一日、外に出られたんです。羊を数えていましたけど」
「羊は数えなくてよかったんじゃないかと、私は思いますが」
「水車も見ましたよ」
「水車も、見なくてよかったんじゃないかと」
ペトラは、むっとした。
「マティアスさんは、殿下の味方なんですね」
「侍従ですから。ペトラさんは、お嬢様の味方でしょう」
「侍女ですから」
二人は、厩舎の前で、しばらく黙った。
馬が一頭、鼻を鳴らした。
「……羊の数、殿下も後で聞いておられましたよ」
マティアスが、言った。
「お嬢様が手帳に書いていた数を、帰りの馬車で。『あの牧場、冬越せるのか』って」
「お嬢様、なんて答えました」
「『干し草が二週間分、足りません』と」
ペトラは、思わず笑った。
マティアスも、笑った。笑いながら、二人とも、どうして笑っているのかよく分かっていなかった。
◇
冬の初め、殿下が書類を抱えてやってきた。
「フィオナ。来週の外交使節の件だが」
「はい」
「どれを、私がやればいい?」
お嬢様が、顔を上げた。
ペトラも、思わず殿下を見た。
お嬢様は、書類を受け取って、三つに分けた。
「こちらは殿下が。使節の方々は、殿下と直接お話しになりたいはずですので」
「うん」
「こちらは、私が。晩餐の席次と献立です」
「うん」
「こちらは、外務官へ。通訳の手配ですので」
「分かった」
殿下は、自分の分の束を抱えて、帰っていった。
文句は、言わなかった。
扉が閉まってから、お嬢様は、しばらく扉を見ていた。
「……ペトラ。来週の木曜の午後、何が入っていましたか」
「慈善院の視察と、王妃陛下の講義です」
「講義だけ、翌週に動かせますか」
「動かせますが」
「お願いします」
何のためか、お嬢様は言わなかった。
ペトラも、聞かなかった。
その週、殿下は一度だけ、また口を滑らせた。
「前の――」
言いかけて、殿下は後ろのマティアスを見た。
マティアスは、何も言わずに殿下を見ていた。
「……いや、何でもない」
殿下は、咳払いをして、話を変えた。
お嬢様は、何の話か分からない顔をしていた。
◇
年が明けて、王宮の食卓にのぼるパンが、少し小さくなった。
「南のほうで、小麦の値が上がっているそうですね」
ペトラが言うと、お嬢様は書類から目を上げずに答えた。
「ヴィオレッタ様が暮らしていらっしゃる町では、パンが一割上がったそうです」
ペトラは、綴じ紐を持ったまま、止まった。
「……ヴィオレッタ様、南の町にいらっしゃるんですか」
「ええ」
「どうして、お嬢様がご存じなんです」
お嬢様は、ペンを止めた。
ほんの一瞬だった。
「聞きましたので」
「どなたに」
「色々な方に」
お嬢様は、それきり書類に戻った。
ペトラは、綴じ紐を結びながら考えた。
婚約破棄のあと、ヴィオレッタ様は公爵家を出られた、という噂は聞いていた。修道院に入られたとも、遠い親戚に預けられたとも。
どこに行かれたのか、正確に知っている人はいないはずだった。
結び目が、変な形になった。
その夜、お嬢様が言った。
「ペトラ。来週、一日だけ、お忍びで出かけたいのですが」
「どちらへ」
「南の町の、市場を見てみたいのです。小麦の値を、自分の目で」
ペトラは、お嬢様の顔を見た。
いつもどおりの、真面目な顔だった。
◇
南の町までは、馬車で半日かかった。
お嬢様は、地味な茶色の外套を着て、髪を一本に編んでいた。ペトラも、自分の一番古い服を着た。
市場で、お嬢様は本当に小麦の値段を三軒で聞いて、手帳に書きつけた。
それから、市場の外れのパン屋の前で、足を止めた。
店先で、太った女将が、ちょうど焼き上がった丸パンを棚に並べていた。
「いらっしゃい。今日のは、ちょっと小さいよ。小麦が高くてね」
「二階の方に、お会いしたいのですが」
お嬢様が言うと、女将は、ああ、と顔をほころばせた。
「ヴィオちゃんのお客さん? あの子、今日は朝から窯の手伝いしててね。また一個焦がしてたけど」
「……ヴィオちゃん」
ペトラは、思わず繰り返した。
女将は、気にせずに続けた。
「帳簿はね、あの子が来てから、一枚も間違わないの。ただ、パンを焼かせると、どうしてもね。ほら、階段そこ」
「ここの二階です」
お嬢様が、改めてペトラに言った。
何が、とペトラが聞く前に、お嬢様は店の脇の細い階段を上がっていった。
扉を叩くと、中から「開いてます」と声がした。
扉を開けた女は、前掛けをして、頬に粉をつけていた。
髪を、一本の三つ編みにしていた。
ペトラは、階段の上で、動けなくなった。
ヴィオレッタ・ローゼンベルク様だった。
「あら」
ヴィオレッタ様は、お嬢様を見て、それからペトラを見た。
「お連れがいらっしゃるなら、先に言っておいてくださいな。カップが二つしかないんです」
「お久しぶりです、ヴィオレッタ様」
「その呼び方はやめてくださいって、前の手紙にも書きましたよね」
手紙。
ペトラは、お嬢様の横顔を見た。
お嬢様は、何でもない顔をしていた。
◇
部屋は狭かった。
窓がひとつ。寝台と、小さな卓と、椅子が二つ。
椅子の一つの背に、洗濯物が掛けっぱなしになっていた。卓の上には、黒く焦げたパンが一つ、皿に載っていた。
ヴィオレッタ様は、洗濯物を寝台に放り投げて、椅子を空けた。
ペトラには、木箱をひっくり返して出してくれた。
「どうぞ。座り心地は保証しません」
ペトラは、木箱に座った。
公爵令嬢が、木箱を出してくれた。何が起きているのか、まだよく分からなかった。
ヴィオレッタ様は、欠けたカップと、取っ手のないカップに、お茶を注いだ。三つ目は、自分用の小さな鍋だった。
お嬢様が、卓の上の焦げたパンを見た。
「……あなた、お料理をなさるのですか?」
「するようになりました」
「お得意です?」
ヴィオレッタ様は、焦げたパンを見た。
「見ての通りです」
お嬢様は、何か言いかけて、やめた。
ヴィオレッタ様は、鍋のお茶を一口すすった。
「それで。殿下とは?」
「愛しております」
お嬢様は、迷わずに言った。
ペトラは、取っ手のないカップを落としかけた。お嬢様がそれを口に出すのを、初めて聞いた。
「何よりです」
ヴィオレッタ様は、本当にそう思っている顔で頷いた。
「ただ……」
「ただ?」
「思っていたより、お仕事をなさいません」
「でしょうね」
ヴィオレッタ様は、あっさり言った。
「私が、十年かけてお世話してしまいましたから。半分は、私のせいです」
「半分ですか」
「残りの半分は、殿下のせいです。そこは譲りません」
お嬢様が、笑った。
ペトラは、お嬢様が声を立てて笑うのを、王宮に上がってから見た覚えがなかった。
「最近は、ご自分で会議資料をお読みになります。三分の一くらいで、お眠りになるそうですが」
「三分の一。すごいじゃありませんか。私の頃は、表紙で寝ていらっしゃいました」
◇
お茶が半分くらいになったころ、ヴィオレッタ様が窓の外を見ながら言った。
「覚えています? 婚約が解消される少し前、王宮の薔薇園で」
お嬢様は、カップを両手で持った。
「ヴィオレッタ様が、『殿下がお好きですか』と」
「あなた、真っ赤になって『はい』って」
「なっていません」
「なっていました」
ヴィオレッタ様は、鍋を卓に置いた。
「それで、私が言ったんです。『でしたら、遠慮なさらなくて結構です』って」
ペトラは、木箱の上で、背筋が冷たくなるのを感じた。
何の話をしているのか、だんだん分かってきた。分かりたくないような、分かりたいような気分だった。
「あれね」
ヴィオレッタ様は、窓の外を見たまま言った。
「半分は本心で、半分は、お願いでした」
お嬢様は、黙っていた。
「父は、私が修道院に行くと言ったら、三日口をききませんでした。平民になると言ったら、お医者様を呼ばれました」
ヴィオレッタ様は、軽い調子で言った。
「こちらからは、どうやっても解消できなかったんです。殿下のほうから言っていただくしか」
ペトラは、去年の夜会を思い出した。
承知いたしました、と言ったヴィオレッタ様の声。膝を折る完璧な角度。殿下の肩越しの、短い目。
「……でも、私は」
お嬢様が、カップを見下ろしたまま言った。
「殿下に何も申し上げていません。殿下が、ご自分で」
「ええ。知っています。殿下は、ご自分で、本当にあなたを好きになられた。私たちがしたのは、止めなかったことだけです」
ヴィオレッタ様は、黙った。
「少しは、腹も立ちましたよ」
「何にです?」
ヴィオレッタ様は、ようやく窓から目を戻した。
「あんなに嬉しそうな殿下の顔、私は一度も見たことがなかったので」
部屋が、静かになった。
お嬢様は、何も言わなかった。
ヴィオレッタ様も、それ以上は言わなかった。
それから、ヴィオレッタ様は、ふっと笑った。
「冗談です。半分は」
ペトラは、どちらの半分が冗談なのか、聞けなかった。
◇
「それより、最近パンが高くて」
ヴィオレッタ様が、焦げたパンを指でつついた。
「このパンだって、去年より小さいんですよ。焦げてるのは私のせいですけど」
「小麦の流通税については、ちょうど見直しを――」
お嬢様が、身を乗り出した。
「南からの輸送路に、関所が三つ重なっているんです。そのうち二つは、百年前の戦の名残で、本来もう要らないものでして。財務官に試算を出させていて、来月には――」
ヴィオレッタ様は、頬杖をついて、お嬢様を見ていた。
「……そういうところは、本当に変わりませんね」
「何がです?」
「何でもないです」
ヴィオレッタ様は、お茶の残りを飲んだ。
下のパン屋で帳簿をつけていること。夕方には、近所の子供たちに字を教えていること。洗濯は、思っていたよりずっと面倒なこと。冬は、この部屋の窓から隙間風が入ること。
そういうことを、ヴィオレッタ様は、ぽつぽつと話した。どれも、楽しそうでも、つらそうでもない声だった。
帰りぎわ、階段の上で、ヴィオレッタ様が言った。
「殿下には、パンを焦がしたことは内緒にしてください」
「それだけですか?」
お嬢様が聞いた。
「それだけです。あの方、絶対に笑うので」
ヴィオレッタ様は、扉を閉めた。
閉める前に、粉のついた手を、小さく振った。
◇
帰りの馬車で、お嬢様はずっと窓の外を見ていた。
ペトラは、膝の上で手を組んで、何度か口を開きかけた。
そのたびに、何を聞けばいいのか分からなくなって、閉じた。
町を出て、麦畑の間の道に入ったころ、ようやく言った。
「お嬢様」
「はい」
「……それだけで、よろしいのですか?」
「何がです?」
お嬢様は、窓の外を見たまま聞き返した。
ペトラは、答えなかった。
何を聞きたかったのか、自分でもうまく言えなかった。
しばらくして、お嬢様が言った。
「ペトラ」
「はい」
「来月の、木曜日の午後。何も入っていない日は、ありますか」
ペトラは、鞄から予定表を出して、めくった。
「……ございません」
「そうですか」
お嬢様は、それきり黙った。
麦畑の向こうに、夕日が沈みかけていた。
◇
春になった。
殿下は、今では、外交使節との面会を自分で段取りするようになった。
会議資料も、半分くらいまでは起きて読めるようになった、とマティアスは言った。
枢密院で、一度だけ、大臣の数字の間違いを自分で見つけたらしい。その晩、殿下は機嫌がよくて、マティアスに葡萄酒を一杯おごった。
お嬢様のほうは、相変わらず手帳がびっしり埋まっていた。
ある朝、殿下は書類を二つに分けて、お嬢様の机に置いた。
「これは、私の担当だろう。そちらは、君の方だ」
「はい」
お嬢様は、自分の分を受け取った。
殿下は、自分の分を抱えて、扉に向かいかけた。
それから、振り返った。
「フィオナ。今日の午後は?」
「空けました」
殿下が、止まった。
「……本当に?」
「本当に」
「では――」
「ただし」
お嬢様は、書類から顔を上げた。
「午前中のお仕事が、終わったらです」
殿下は、自分の腕の中の書類の束を見た。
かなり厚かった。
「……やってくる」
殿下は、本当に執務室へ戻っていった。
足音が、いつもより速かった。マティアスが、その後ろを小走りで追いかけていった。
ペトラは、扉が閉まるのを見てから、お嬢様を見た。
お嬢様が、ペトラを見た。
「何です?」
「いえ。何も」
ペトラは、お茶の支度をしに、厨房へ向かった。
木苺のタルトがあるかどうか、聞いてみるつもりだった。
(了)




