EP17:ビーダーマイヤー・トリコロール、変死事件に巻き込まれた逃避令嬢 その2~貴族令嬢は革命家の風貌の若者に出会う~
グラーツ郊外にある狭い庭付きの一軒家の別荘で、鍵を開けて中に入ると、ヨハンナはまずオイルランプに火をつけ、室内を点検した。
父が中古の物件を購入し、数回は訪れたものの、一年近く誰も来ていないので、全体的に埃っぽい。
見かけは石造りで中はレンガと木でできた古めかしい建物は、ひっそりと呼吸している老人のようにみえた。
この別荘の便所は少し変わっていて、室内の小部屋の中に、穴の開いた木の箱がありそこに腰かけて穴から排泄物を下に落とす仕組みになっていた。
腰掛ける木箱を取り除くと、地面には外へ通じる凹字形の配管が土に埋められていて、木でできたそれは防水のため内側は漆喰で塗り固められていた。
外側から配管の端にある蓋を開け、そこから排泄物を汲みだすという便槽の仕組みになっていた。
ひと通り室内の点検を終え、異常がないことを確認したヨハンナは、自分用の寝室で安心して眠りにつくことができた。
翌朝、ヨハンナは目覚めると、食料や日用品が全く足りないことに気付き、さっそくグラーツの街へ買い物に出かけた。
ヨハンナの装いは、まだ寒さの厳しい三月に合わせた分厚いウールの外套と、その下にはタフタのドレス。
顔の周りを包み込むような形の帽子と皮手袋でしっかり防寒する。
市場でパンや野菜や卵を買い、手提げ籠にいれ、マッシュルーム(*1)やスパイスやキャンディは三角袋に包んでもらったものを入れ、最後に大好きなオレンジ(*2)を買って上にのせた。
ヨハンナが石畳の歩道を歩いていると、前方から、後ろをチラチラ振り返りながら急ぎ足で歩いてくる若い男性の姿が見えた。
『前方不注意そうな人!私のこと見えてる?』
と不安に思っていると、案の定、後ろを見ながら駆け出しそうな速さで歩いてきたその若者と、ヨハンナの手提げ籠がぶつかり、
「あっ!」
と思わず声が出てしまった。
食料がパンパンにつまった籠からオレンジが三つとも飛び出し、石畳の歩道に転がり落ちたのだった。
その若者の服装は、フロックコートにシャツ、ウェストコートを身に着け、トラウザーズをはき、高い立襟に幅広の布を首に巻くという上品な装いだった。
だが、そのどれもが、生地がくたびれてところどころ糸がほつれているような、長年着古したものだった。
キャスケット(*3)を被っているのを見て、紳士の服装をしているがこの若者は生粋の貴族ではない、とヨハンナは確信した。
ぶつかった若者は立ち止まり、ヨハンナを見て驚いたように眉を上げ
「あぁっ!!すみません。お嬢さん!
前をよく見てなくて!
急いでいたものですから!」
謝罪を述べつつ素早くしゃがみ込み、歩道に落ちたオレンジを次々と拾い上げた。
オレンジを手渡されるとき、目を合わせたヨハンナは顔をじっくりと見ることができた。
輝く漆黒の瞳に、漆黒のウェーブのかかった髪の毛はもみあげが伸び、前髪は目にかかるくらい長く、後ろは襟足近くまで無造作に伸びているが、だらしないという印象はない。
彫りの深い、眉毛の濃い目元や、がっしりとした顎、ごつごつした輪郭は、若い男性の内から溢れ出る活力とエネルギーを象徴しているようだった。
若者が後ろを確認するように振り返った先には、頭頂部に棘がついたピッケルハウベ風の黒い革製ヘルメットをかぶった国家憲兵の姿が見えた。
国家憲兵が警戒するような目つきでこちらを見つめたあと、背を向けたのを見て、若者はホッと安堵のため息を漏らし、愛想よく
「よろしければお詫びにあなたの家まで送らせてもらえませんか?
重そうな籠を持ってあげましょう!」
正直にいうと、一時間近くも歩いて帰らなければならないのに、腕が怠くなりそうなくらい籠パンパン!に買い物したことをヨハンナは後悔していたので、喜んでその申し出を受けた。
ヨハンナは重い荷物から解放され、足取りも軽く別荘の方向へ歩き出した。
「卵が入ってるから気を付けて!」
と注意された若者は、手渡された籠を揺らさないように慎重に持ち、
「僕はアルフォンス・ブルックナーと言うんだ。
グラーツ大学の法学部に通ってる学生です。
君の名前を聞いていい?」
ヨハンナは初対面の男性に、名前を教えることに少し抵抗があったが、大学生というのが本当なら、それほど悪い人でもなさそう!と警戒を緩め
「私はヨハンナといいます。
普段はウィーンで両親と暮らしてるんだけど、ちょっと気分転換にグラーツに滞在してるの!」
一緒に歩きながら、手提げ籠から白パンが覗くのを見たアルフォンスが
「あぁ!このパンはあそこのパン屋で買ったんだね?!
僕が食べ慣れてるのは黒パンだけど。
あそこは美味しいってグラーツ中で評判なんだ!」
楽しそうに話す。
ヨハンナはさっきのパン屋の様子を思い出した。
「そうそう!
焼けた小麦粉とイーストのいい匂いにつられて、ついつい買いすぎちゃった!
私も黒パンは好きよ!
あの酸っぱいくてずっしりした味が、どうしても食べたくなる時があるの!
そういえば、あのお店って店内にフランス国旗を飾ってたわよね?!
大丈夫なのかしら?
国家憲兵に見つかれば、革命を企んでるって、目を付けられそうなのに。」
アルフォンスは遠くを見るように目を細め、唇を噛み
「身を危険にさらしてでも、信念を貫かなければならない時があるんだ。」
静かに呟いた。
アルフォンスの張りつめた雰囲気に気圧され、ヨハンナは口をつぐんだ。
『もしかして、ブルックナーさんは革命派の運動家?
法学部の学生には多いって聞いたことがある。
さっきの国家憲兵も、もしかして反政府分子としてブルックナーさんを見張ってたの?!』
そう思うと、国家転覆を企てる悪人がすぐそばにいる!と怯える気持ちよりも、革命直後のフランス共和国がかつて目指したように、この社会を変革し『自由・平等・博愛』を実現してくれる、献身的な頼もしい人物がここにいる!と期待と興奮が膨らみ、胸が高鳴った。
心を躍らせながら、アルフォンスの横顔を見つめると、濃い眉や目元、引き結んだ唇、ごつごつした顎、は将来、固い意志で革命運動を成功させ、指導者として民衆を率いるのにふさわしい人物のそれに見えた。
(その3へつづく)
(*1)建物の地下の深いワインセラーや地下道(ケラーGewölbe)を利用して、冬でもマッシュルームを熱心に栽培していました。
(*2)19世紀後半になると鉄道網(南部鉄道など)が急速に発達し、ハプスブルク帝国の南部領土(現在のイタリア北部、スロベニア、クロアチアなど)や地中海沿岸から、新鮮な果物が冬〜春にかけてウィーンへ安価かつ大量に運ばれるようになりました。オレンジやレモンも運ばれたそうです。
(*3:ハンチングのような帽子)




