第九話 渡辺双花の日常
手のひらに、血の匂いが残っている。
洗ったはずなのに。
朝のシャワーで、石鹸を二回使って、爪の間まで丁寧に擦ったのに。
鼻の奥に、鉄の気配がこびりついて離れない。
──気のせいだ。
そう思うことにした。
いつものことだから。
鏡の前で手のひらを見る。白い。傷もない。綺麗な手だと、誰かに言われたことがある。
顔も身体も、人形みたい。
「本当に全部、空っぽ」
私は匂いごと飲み込んで、制服に袖を通した。
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国立御剣第六高等学校。
鬼、妖の駆除、制御を担う国の中枢機関。
『御剣局』
御剣局の教育機関は全国に六校ある。
東京の第一高等学校、京都の第二高等学校がランクS評価。
三重の第三高等学校がA。
宮城の第四、島根の第五がB。
そして──私が通う東京・八王子の第六高等学校が、ランクC。
最底辺だ。
他の学校の生徒からは、「六でなし」なんて呼ばれている。
実績は低迷し、近年は廃校の噂まで囁かれていた。
高尾山の麓にある年季の入った校舎を私は見上げ、大きく息を吸い込む。
鬱々とした気持ちを体の奥に押し込めた。
教室に入ると、いつもの空気が纏わりつく。
生徒たちはそれぞれのグループに分かれて雑談をしていて、私が扉を開けた瞬間、何人かがこちらを見た。
「おはよー、ふーちゃん」
「ふたばちゃん、今日も可愛いねぇ」
「ちょっと、朝から口説くのやめなよ」
笑う。
笑顔を作る。
「おはよう!」「ありがとう」「やだもう!」
口が勝手に動く。心はどこか遠い場所にある。
「ねぇ双花、今日の放課後、教室の掃除当番なんだけど、代わってもらえない?」
断ればいい。
自分の当番じゃないのだから。
「うん、いいよ」
声が出ていた。
相手の顔が、ぱっと明るくなる。
──ああ、必要とされている。
その感覚だけが、私をここに繋ぎ止めている。
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三限目。妖術・呪術基礎。
教壇に立つのは、私たちのクラス担任でもある、この学校で最も異質な存在──玉藻綺羅羅先生。
見た目は二十代後半。
長い白金の髪に、どこか妖艶な空気。
美人なのは間違いないが、瞳の奥に何か得体の知れないものが潜んでいる。
一部の生徒たちからは「玉ちゃん先生」と呼ばれている。
本人は嫌がっていないようだが、その笑顔の温度が、いつも少しだけずれている気がした。
「はい、それじゃあ今日は海外の鬼──いわゆる吸血鬼について、やるわよぉ」
先生は扇子をぱちんと開き、黒板にチョークを走らせた。
「日本の鬼と海外の鬼。どちらも人間が変質した存在。でも、成り立ちが違うの」
チョークが止まる。
「日本の堕鬼は、精神の崩壊から生まれる。感情が限界を超えて、壊れた果てに」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
理由は、わからない。
「対して、海外の鬼。『吸血鬼』は血の感染。噛まれれば堕ちる。シンプルでしょう?」
先生は振り返り、教室を見渡す。
「じゃあ質問。なぜ日本には吸血鬼がいないの?」
沈黙。
「……天照の結界があるから、ですか」
手を挙げたのは、私だった。
声に出してしまったことを、少し後悔する。目立つのは、あまり好きじゃない。
「正解。よく勉強してるわね、渡辺さん」
先生がにっこりと笑う。
茶色い瞳が、一瞬だけ金色の不思議な光を帯びた気がした。
「三種の神器『八咫鏡』を核とした結界が、日本列島を覆っている。日本の太陽光には浄化の魔力が含まれていて、吸血鬼にとってこの国の地を踏むことは、死を意味するの」
先生は扇子で口元を隠す。
「──ただし」
声のトーンが、僅かに下がった。
「近年、例外的な侵入事例が報告されているわ。結界は万能じゃない。穴は、どこにでもある」
教室が静まる。
そこに、場違いな声が割り込んだ。
「せんせぇ〜、吸血鬼の話より、先生自身の話が聞きてぇんだけど」
後ろの席から、だらしない声。
男子生徒──名前は覚えていない。覚える気もない。
いつも先生にちょっかいを出す、あの手合いだ。
「先生って、妖なんでしょ? 式神にできんの?」
周囲が、一瞬凍る。
「いやぁ、マジで。先生を自分の式神にしてさぁ、いろいろ命令したいわけよ」
下卑た笑いが、数人から漏れた。
『式神』
御剣局における鬼や妖の使役制度。
強力な鬼を捕縛し、支給されているデバイスの「式」の術理で脳に直接干渉し、強制的な主従契約を結ぶ。
言ってしまえば──奴隷だ。
それを、教師に向かって言う。
私の中で、何かが軋んだ。
だが先生は、慌てもしなかった。
「あらぁ、式神にしたいの? 私を?」
扇子を閉じる。
先生の表情が、すっと変わった。
皮の下から、何かが剥がれるように──顔の輪郭が揺らぐ。
一瞬だけ、人間の顔ではないものが覗いた。
瞳が金色に光り、口元が裂けるように広がる。
獣の牙。
獣の目。
凶悪な狼のような狐の顔。
教室の温度が、凍り付くように下がった。
「──できるもんなら、やってみなさいな」
低い声。
先生の声なのに、獣の音が重なって聞こえる。
男子生徒の顔から、血の気が引いた。
椅子を蹴って後ずさり、机にぶつかる。
情けない顔。
さっきまでの下品な笑みが、嘘のように消えている。
先生は何事もなかったかのように、高そうな鏡付きのメイクポーチで化粧を直す。
鏡にライトが、付いているのだろうか。
先生の瞳に白い光が反射していると思ったら、すぐに元の綺麗な顔に戻った。
「冗談よぉ〜。怖がらせちゃった? ごめんね〜」
にっこり。
だが、目は笑っていない。
「きっしょ」
「ないわ〜」
「マジきっも」
周囲の女子たちが、うんざりしたように男子生徒に向かって漏らす。
だけど、女子たちが、先生に向ける視線も冷たかった。
あの男子が悪いのは明白なのに、軽蔑の目は男子だけでなく、先生にも向けられている。
妖だから。
人間じゃないから。
この学校に、先生の味方は少ない。
私は、それが少しだけ──悲しかった。
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昼休み。
「双花、一緒にお昼食べよ〜」
「あ、ふーちゃん、これ借りてたノート返すね」
人が集まってくる。
それ自体は、嬉しいことだと思う。
思うようにしている。
「あ、渡辺さん。今度の週末、よかったら──」
男子の一人がもごもごと口を動かす。
デートの誘いだ。たぶん。
断ればいい。
興味がないのだから。
「……えっと、考えておくね」
断れなかった。
いつものことだ。
──断ったら、嫌われる。
必要なくなる。
一人になる。
頭ではわかっている。
断ったくらいで人は離れない。
わかっているのに、身体が拒否する。
優しくしていれば、見捨てられない。
役に立っていれば、捨てられない。
それが嘘だと知っている。
知っていても、やめられない。
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ホームルーム。
玉藻先生が、硬い表情で教壇に立った。
「はーい、静かにしなさい。大事な話よ。最近、この辺りで殺人事件が多発している」
教室がざわつく。
「被害者はいずれも成人男性。犯行手口が残忍で、鬼の仕業とも人間の仕業とも判断がつかない。御剣局の調査が入っているみたいだけど、まだ犯人は特定できてないみたいね」
胸の奥が、微かに跳ねた。
手のひらが、じわりと汗ばむ。
「特に女子は一人で帰らないように。孤児寮や一人暮らしの者は、必ず複数で行動すること。いいわね!」
孤児。
一人暮らし。
その両方に該当する私を、玉藻先生がちらりと見た気がした。
迎えに来る人は、私にはいない。
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放課後。
掃除当番を終え、鞄を持って廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「渡辺さん」
振り返ると、玉藻先生が職員室の入り口に立っていた。
扇子を手に、どこか気怠げな表情。
「ちょっと、いいかしら」
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職員室の隅。
先生は自分のデスクに腰掛け、私にパイプ椅子を勧めた。
「最近、どう?」
唐突だった。
「え……どう、とは」
「しっかり食べてる? たっぷり寝てる? 困ってることない?」
先生の声は軽い。いつもの調子だ。
でも、目がこちらをじっと見ている。
測るような目。品定めとは違う。もっと──心配に近い、何か。
「大丈夫です。ちゃんと食べてますし、寝てます」
「そう。ならいいんだけど」
先生は扇子をぱちぱちと開閉しながら、少し間を置いた。
「殺人事件の話、聞いたでしょう?」
「はい」
「あなた、一人暮らしよね。孤児で、……渡辺家の援助もない」
渡辺家。
名門の分家の血を引きながら、正式には抹消された私の血筋。
両親を失った後、外国の血が混ざって生まれた私を、渡辺本家は引き取らなかった。
誰かの役に立ちたいと思い、お母さんと同じ、御剣局の隊員を目指したけど。
入試試験では、才能はあると言われた。
対鬼適性値は異常に高いとも。
でも、堕鬼を──斬れなかった。
結局、最底辺の第六に放り込まれてしまった。
私は、何がしたいのか、自分の弱さに苦しくなる。
「身を守る術はあるけど、夜道は別よ。一人の帰り道に何があるかわからない」
先生は、椅子から立ち上がった。
「だから、送りをつけるわ」
「送り?」
「うちの生徒よ。墨に頼んであるから」
「墨……?」
聞き覚えのない名前だった。
同じクラスのはずなのに。
いや、同じ学校の生徒なのかすら、わからない。
「墨って……誰ですか?」
先生は、少しだけ呆れたように笑った。
「どうせ教室の隅にいるわよ。行けばわかるから」
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教室に戻ると、もう誰もいなかった。
窓からの西日が、橙色に空間を染めている。
机の上に積もった埃が、光の中で踊っていた。
放課後の教室は、こんなにも静かだったのか。
──いや。
いた。
窓際の、一番奥の席。
夕日に横顔を晒すように、外を見ている人がいた。
黒い髪。
透き通るような、白い肌。
どこまでも純粋な、黒い瞳。
光と影の境目に座るその姿は、まるで絵画のように動かない。
──こんな綺麗な人。
同じクラスに、いたかしら。
記憶を探る。
朝の教室。授業中。昼休み。
確かにこの席には誰かがいたはずだ。出席簿にも名前があったはず。
なのに、顔が思い出せない。名前が浮かばない。
靄がかかったような、奇妙な違和感。
私は、その違和感ごと飲み込んで、近づいた。
「あの……墨くん?」
少年が、ゆっくりと振り返る。
黒い瞳と目が合った瞬間、背筋に何かが走った。
怖いのとは違う。
冷たいのとも違う。
深い。
底が見えないほど、深い。
影を覗き込んだような感覚。
少年の視線が、一瞬だけ──私の手のひらに止まった。
朝、血の匂いがした。
洗っても取れなかった、あの手。
気のせいだ。
気のせいのはず。
でも、彼の目が、まるで見抜いているかのように──
「……ああ、送れって言われてる。行くか」
感情のない声だった。
椅子から立ち上がる動作に、無駄がない。
背は高い。痩せている。制服が少し大きく見える。
「あ、うん。……よろしくね」
少年は頷くだけで、鞄を持って歩き出す。
振り返りもしない。
私はその背中を追いながら、不思議な気持ちになっていた。
存在感がない。
声も、足音も、纏う空気さえも、薄い。
一緒にいるのに、隣を歩いているのに、ふと意識を逸らすと、そこに誰もいなかったような錯覚に陥る。
なのに。
あの黒い瞳の奥に、何かが沈んでいるのを、私は見逃さなかった。
押し込めて、
蓋をして、
底の底に沈めた、何か。
──私と、同じ匂いがする。
夕焼けの廊下を、二つの影が並んで歩く。
一つは確かに存在し、もう一つは世界から半分だけ切り取られたように、薄い。
それでも、二つの影は、同じ方向を向いていた。




