第八話 狐の悪巧み
掴まれた腕が、熱を持った。
逃げ場は、もうない。
勢いよく引き抜かれる。
影が霧散し、夜気が肌を打つ。
女の瞳は、金色で鮮やかだった。
「やっぱり、黒鬼」
そんな呟きが漏れる。
女の首元にある首輪のようなものが、低く唸り赤く輝き始める。
辺りに不自然な霧が立ち込めた。
後ろにいた鬼狩りの姿が、見えなくなるほどに濃くなっていく。
「……あら、逃げようとしないのね?」
「掴まれた時点で、もう……俺の負けだ」
「ずいぶん諦めの早い餓鬼ねぇ〜。大丈夫よぉ。叫ばなければ、殺さないから」
くすり、と笑う。
女の耳がぴくりと動き、豊かな尻尾が揺れる。
「……安心しなさい。私は鬼狩りじゃないもの」
俺はそっと、女を見る。
鬼狩りじゃない? たしかに、その耳と尻尾。
人ではないだろうが……。
「正確には──先生、かしら?」
そういうと、俺の腕を掴んだまま、女は軽く振り返る。
辺りは真っ白で、他の人間の気配は消えていた。
「ふふふ……それじゃあ、おねえさんと内緒のお話でもしましょうか」
声音は甘い。
だが、目が笑っていなかった。
女は俺の腕を放さないまま、しゃがみ込む。
視線の高さを合わせるように。
けれど、あくまで見下ろす角度。
「──覚醒鬼」
女は、鬼のような名前を言った。
「え……」
「知らないの? 自分が何なのか」
知らない。
そんな言葉、聞いたこともない。
俺は影に潜むことしかできない、臆病者だ。
覚醒だなんて。
『一皮剥けた鬼は強い』
親父の声が、蘇る。
「餓鬼のくせに、異能を持っている。しかもこの力……隠蔽じゃないわね」
女の金色の目が、ゆっくりと細まる。
「存在を薄くしているんじゃない。もっと厄介なやつ」
品定めをするように、俺の全身を舐め回す。
「この世界から、自分を切り取っているのかしら……」
切り取る。
その表現が、やけに正確に聞こえた。
「……あんた、何者だ」
「行儀が悪いガキね。質問は、“されるほう”がするものじゃないわよ」
扇子で俺の顎を持ち上げる。
癇に障ったらしい。
だけど、俺にはもう逆らう気力がなかった。
「ねえ、あなた。黒い鬼って、どれくらい珍しいか知ってる?」
俺は首を横に振る。
「赤、青、黄、緑。鬼の色はこの四つ。誰だってそう教わるし、実際、今の世にはそれしかいない」
女は立ち上がり、ゆっくりと俺の周りを歩く。
尻尾が、月明かりに揺れた。
「でもね、昔──まだ魑魅魍魎が人の隣を歩いていた時代には、異能を使う鬼は珍しくなかった。覚醒鬼と、今では名称がついたのだけれど」
足が止まる。
「黒は……いた。一度だけ」
女の声が、ほんの僅かに変わる。
そこには軽薄な響きが、消えていた。
「傲慢で、自分勝手で、力を振りかざす──そんな鬼ばかりの世で、あの黒鬼だけは、違った」
金色の瞳が、俺ではない何かを見ている。
遠い場所。
遠い時間。
「他の鬼とは、考え方が違ったの。吠えない。前に出ない。でも、誰よりも深く、この世界を見ていた」
……それは。
「最後は、同胞の鬼に殺されたわ」
淡白な言葉だった。
けれど、その一瞬──尻尾が、微かに震えた。
「仲間に殺されたの。“鬼らしくない”という、ただそれだけの理由で」
俺は、何も言えなかった。
言葉の代わりに、里の光景が蘇る。
母の前に立った、あの大鬼の顔。
嘲笑。
拳。
錆びた太刀。
──臆病者の、鬼のなり損ない
女は、俺の顔を見て、小さく息を吐いた。
「……やっぱり。あなたも、そうなのね」
察した、という目。
憐れみではない。
同情でもない。
静かに怒りを孕んだ目だ。
「居場所がなくなった。そうでしょう?」
俺は──頷くことも、否定することもできなかった。
ただ、奥歯を噛みしめた。
影に沈めたはずの感情が、水面に泡を立てるように浮かび上がる。
女は、扇子をぱちんと閉じた。
「さて」
声が変わる。
豊かな声音が消え、代わりに冷たい計算が覗いた。
「あなた、鬼狩りが戦うのを見ていたわね」
「……見て、いた」
「わざわざ? 逃げもせず?」
「……知りたかった。人がどうやって、鬼を殺すのか」
沈黙。
女は、少しだけ目を見開いた。
そして──くつくつと、低く笑い始める。
「あは……あはは。やだ、この子。本当に面白い」
何がおかしいのか分からない。
だが、女は腹を抱えるようにして笑い、目尻に涙まで浮かべた。
「聡いガキね。本当に、聡い」
笑いを収め、女は俺を真っ直ぐに見た。
「吠えて前に出る鬼は、いくらでもいるわ。そして、いくらでも死ぬ。でもね、敵の殺し方を”観察”して、盗もうとする鬼なんて……千年、あなたが二人目よ」
九百年。
女は、さらりとそう言った。
俺は、改めて女を見る。
狐の耳。
揺れる尻尾。
首元で赤く明滅する、枷のような首輪。
そして──人を支配する側にいたはずの存在が纏う、飼い慣らされた空気。
「……あんた、あなたは」
──何者なんだ?
「私? ただの先生よぉ。人間の子供たちに、妖術と呪術を教える──ただの、ね」
軽い口調。
だが、その言葉の裏で、何かが燃えているのが分かった。
怒り。
いや、もっと深い何か。
煮え返るような、泥のように粘ついた感情。
それを笑顔の下に、ぎゅうぎゅうと押し込めている。
「宿敵の家に仕えて、自分の術を敵に教えて、尻尾まで取られて──それでもにっこり笑ってる。ねぇ、滑稽でしょう?」
俺には笑えなかった。
女の言葉は軽いのに、影に沈めた俺の感情が、反応していた。
同じ匂いがする。
押し込めて、蓋をして、笑って見せて。
それでも、壊れないように生きている。
女は、俺の目をじっと見ていた。
それから、小さく首を傾げる。
「あなた、欲しいものは何?」
唐突だった。
「……欲しいもの?」
「そう。ここまで生き延びて、わざわざ人間の戦い方を観察して。何が欲しいの?」
考える。
欲しいもの。
父は人に殺された。
母は鬼に殺された。
里に追われて、鬼の生き方を捨てた。
人の強さに、恐怖を感じ。
鬼の強さは、もう信じられない。
ただ、母に貰ったのだ。
──生きて、と。
欲しいもの。
「……わからない」
正直に言った。
「ただ、死にたくない。死にたくないから……知りたい。鬼がどう殺されるのか。人間がどう殺すのか。それを知って、どちらにも殺されない方法を──」
「──見つけたい?」
女が、先回りした。
俺は、黙って頷く。
「……殺されない力が、欲しい」
言葉にした瞬間、それが自分の本音だと気づいた。
誇りでも復讐でもない。
ただ、どこにも属さないまま、息をし続けるための力。
女は──笑った。
今度は、心の底から。
「いい子ね」
そう言って、女は手を差し出した。
「なら、私と来なさい」
「……は?」
「私の傍にいれば、鬼狩り──人間の強さを学べるわよ。だって、私は先生だもの。
それに、私の影に潜めば、まだ未熟のあなたでも──安倍や、源からも、隠れられるわ」
安倍、初めて聞く名前だ。
それは、源頼光と同じく、絶対に叶わない相手なのだろうか……。
他にも、あんな化け物が存在するのだろうか。
そう考えると、身体が竦んだ。
「私が教えてあげる。人間の躱し方も。鬼の殺し方も。あなたはただ、私の影で力を蓄えればいい」
女の目が、獲物を見る目に変わっている。
いや──最初から、そうだったのかもしれない。
「……何が目的だ」
「あら、疑うのね。賢い子」
女は扇子を開き、口元を隠す。
だが、その奥の笑みが、透けて見えた。
「私はね、九百年もの間、あの人間どもに飼われてきた。力を奪われ、術を搾り取られ、教科書に載せられ、挙句、“もう必要ない”なんて言われ始めてる」
声に、初めて棘が刺さった。
「反逆の手はない。縛りが厳重すぎる。力もない。この首輪が、私の全てを監視しているの」
赤く光る枷を、苛立たしげに指で弾く。
「でも、あなたは別」
女は、俺を真っ直ぐに指差した。
「あなたの力は、『存在しないこと』。安倍の結界、鬼狩りの目も──あなたをまだ認識できてない」
……確かに。
鬼狩りは、源頼光の子孫が気づくまで、俺の存在に一切反応しなかった。
この女も、他の人間とは違う感覚で俺を見つけたようだった。
強者は、俺に気づく。
まだまだ、俺の力は未熟だ。
「あなたが私の傍にいても、誰にも気づかれない。あなたが何を学んでも、誰にも知られない。……それが、どういう意味か分かる?」
分かる。
分かってしまう。
この女は、俺を使う気だ。
自分の手が届かない場所に、俺の影を差し込む。
そういう腹だ。
「……利用する気だろ」
「ええ、そうよ? 隠す気ないもの」
あっけらかんと言い切った。
「でもね」
女は、再びしゃがみ込む。
今度は、見下ろさない。
同じ高さで、俺の目を覗き込む。
「あなたに損はさせないわ。私は嘘は吐くけれど、“約束”は別。千年、守り続けてきた数少ないものだもの」
信じる根拠は、何もない。
だが──。
この女の目の奥に、あの黒鬼を語った時と同じ色が、まだ残っていた。
「……あなたは、その黒鬼が死んだ時──何かした?」
女の目が、ほんの一瞬、揺れた。
「何もできなかったわ。知った時には、もう遅かった」
静かな声だった。
軽口も、冗談も、挟まない。
「だから、次は──」
言いかけて、女は口を閉じた。
扇子で顔を隠す。
「……いやだわ。ガキ相手に、何をしんみりしてるのかしら」
大きく咳払いをして、女は立ち上がる。
元の、軽薄な笑みが戻っていた。
「とにかく。あなたには選択肢が二つあるの」
指を二本立てる。
「一つ。このまま一人で生きる。影の力だけを頼りに、誰にも見つからず、何にもならず、静かに死んでいく」
一本、折る。
「二つ。私と来る。人間の世界で、人間の技術を学び、鬼の力を研ぎ澄ます。リスクはある。でも──ただ生き延びるだけじゃない未来が、手に入る」
俺は、黙って女を見上げた。
信用できるかと問われれば、できない。
安全かと問われれば、どう考えても危ない。
でも。
「……一人で、ここまで来た」
声が、掠れた。
「父が死んで、母が死んで、里を追われて」
影に沈めた感情が、ほんの少しだけ、浮いてくる。
頭が、熱くなる。
「一人で生き延びることは、できると思う。たぶん、このまま死なずにはいられる」
「──でも?」
「でも、それだけじゃ……足りない」
何が足りないのか、まだ言葉にできない。
ただ、一つだけ分かることがある。
影の中で、ただ見ているだけの自分は──もう、限界だった。
悔しいのか、悲しいのか……。
思考がまとまらず、目頭だけが熱くなる。
感情が漏れるのを、無視した。
「……行く」
女は、嬉しそうに目を細めた。
尻尾が、大きく一度揺れる。
「よろしい」
女は、俺の前に跪き、手を差し出した。
「一つだけ、条件があるの」
「……何だ」
「名前。あなた、何て呼ばれてるの?」
俺は、躊躇いながら、伝えた。
捨てきれなかった名前を。
「……童子」
「それはもう、捨てなさい」
断言だった。
「酒呑童子の息子として生きる限り、あなたは鬼の世界に縛られる。それに、鬼狩りに酒呑の血筋だと知られたら、人が全力で殺しに来る」
分かっている。
分かっているから──名を捨てることが、怖かった。
名は、最後に残ったものだ。
父と母の繋がり。
鬼であった証。
「……知ってたのか、俺が酒呑童子の息子だと」
「……私たちがここに来た理由は、酒呑童子討伐の後処理。それに、……童子と名乗っていいのは、酒呑が認めた鬼のみ。私たちは、その文化も熟知している」
その言葉に、途方もない怖さを感じた。
女は、俺の掌を取った。
指先が、不思議なほど温かく感じた。
「私があなたに、新しい名前をあげる」
そう言って、女は俺の手の甲に、指で一文字を書いた。
「墨」
「……すみ?」
「ええ。墨──黒い色。水に溶ければ消え、紙に落とせば永遠に残る」
女は、俺の手を握ったまま、静かに続けた。
「あなたは、世界から浮いている。どこにも染まれない。でもね、墨という字は、“黒”の下に”土”と書くの。地に足がついた黒。消えるだけじゃない黒」
黒。
俺の色。
鬼にとって、存在しないはずの色。
「そして──姓は、“玉藻”」
「……は?」
「私の名前は──玉藻前」
そう名乗った瞬間、
夜の空気が、ひどく静まった気がした。
女は微笑む。
その美しい唇の隙間から、白く鋭い歯が覗いた。
獣のものだと、はっきり分かる歯。
「……それは」
無意識に、喉がひくりと鳴る。
「……あんたの、名前じゃないのか」
「名前?」
その言葉をゆっくり反芻し、笑顔が消えた。
金色の瞳が、氷のように冷たくなる。
「いいえ」
短く、切るように。
「これは名前なんかじゃないわ。鎖よ」
胸の奥が締め付けられる。
女は、すぐにまた笑う。
さっきよりも、ずっと柔らかく。
「でもね、鎖だって使い道はあるの」
さらに距離が縮まる。
吐息が、影の中まで届きそうだ。
「私とあなたを縛る鎖。逃げられないように、でも──一人きりにならないように」
玉藻前の腕が背中に回り、温かく柔らかい感触に包まれる。
「私たちは、死ぬ時も一緒ってことよ」
軽い口調なのに、
その言葉だけが、異様に重かった。
「その責任を、互いに背負うの」
俺は、その意味を、まだ理解できない。
ただ──
この女が、自分の命の一部を、
冗談みたいな顔で差し出していることだけはわかった。
「……玉藻、墨」
口に出してみる。
舌の上で転がすと、不思議な重さがあった。
“童子”とは、違う重さ。
新たに、立つための名前。
「気に入った?」
「……わからない。でも、嫌じゃない」
「上出来。最初はそれで十分よ」
女は──扇子を閉じ、空を仰いだ。
霧が薄れ始めている。
「さて、そろそろ戻らないと、あの子たちに怪しまれるわ」
玉藻前は、俺の頭に手を置いた。
乱暴ではなく、軽く。
けれど、確かに。
「いい? 墨。これから、あなたは私の影で生きるの。声を出さず、姿を見せず、ただ学びなさい。人間が何を恐れ、何を武器にし、何で鬼を殺すのか」
「……分かった」
「いい返事ね」
女は振り向き、霧の向こうへ歩き出す。
「ああ、それと」
ぴたり、と足を止めた。
「私のことは”お姉さん”と呼びなさい。間違っても”おばさん”なんて言ったら、……食べちゃうから」
「……千歳なのに?」
言った瞬間、尻尾が鞭のように頬を叩いた。
「余計なことを言う癖は、早めに直しなさい」
頬がじんじんと痛む。
だが──不思議と、その痛みは悪くなかった。
俺は、玉藻前の後ろを歩き出す。
影に潜む。
今までと、同じだ。
でも、この影は──誰かの傍にある。
それだけで、足取りが少し軽い気がした。
──その日。
何もかもを失った鬼は、一匹の狐に拾われ、
名を与えられた。
玉藻、墨。
黒い影が、初めて──誰かの隣に、立った。
第零章「完」




