第六話 人は、堕ち鬼になる
山を下りた。
鬼の隠れ里を出てから、どれほど歩いたのかは覚えていない。
ただ、気づけばそこに、人間の村があった。
影を、薄くする。
完全に消える必要はない。
存在を主張しなければ、それで十分だ。
人を前にしても、原始的な殺戮衝動は湧かなかった。
影の力が、感情も欲求そのものを沈めているらしい。
「……ますます、鬼らしくないな」
無意識に、こめかみの少し上へ手を伸ばす。
そこにあるはずの硬い感触は、もうなかった。
角が、消えている。
鬼の象徴。
誇りであり、呪いになったもの。
──親父の声が、脳裏に蘇る。
『一皮剥けた鬼は、人間に近い姿になれる』
『デカさが強さじゃねぇ。弱そうでも折れねぇのが、本物だ』
俺は、幼い頃、膝の上で聞いた。
あの時は意味が分からなかった言葉。
これも、影の力か?
それとも──「剥けた」というやつなのだろうか……。
だが、餓鬼からの成長は、人の子供によく似た身体から、皮膚が色付き筋肉が肥大化する。
角がない鬼なんて見た事がない。
「……いや、どっちでもいいか」
角があった場所を掻きながら、俺は自重する。
もう酒呑童子を名乗る未来はない。
人からも、鬼からも弾かれた存在だ。
俺は少しの緊張を感じながら、村の中へ足を踏み入れた。
村の入り口を通っても、誰も俺を見ない。
正確には、見てはいるが、気に留めない。。
子供が一人増えたところで、日常は何も変わらないのだろう。
──息が、しやすい。
鬼の里よりも、ずっと。
吼えなくていい。
強さを示さなくていい。
弱くても、殴られない。
気が楽だった。
完璧な空気。
それが、今の俺だ。
俺は、しばらくこの村に留まることにした。
理由は特に無い。
ただ、人間の生活を見てみたかった。
村人たちの生活は、静かだった。
だが、温かいわけじゃない。
人間たちは、よく笑い、よく話し、よく噂をする。
そして、切り捨てる。
働けない者。
金を生まない者。
役に立たない者。
鬼の里と、何も変わらない。
違うのは、牙と角が見えないだけだ。
俺は、一人の男を観察していた。
名は知らない。
誰も、彼の名を呼ばないからだ。
身体を壊し、働けなくなった男。
最初は、同情されていた。
次に、疎まれた。
最後は──無視された。
殴られもしない。
罵倒もされない。
ただ、「いないもの」として扱われる。
──これは、効いていた。
人間から、生気が無くなっていく。
昼。
男は、まだ人間だった。
歯を食いしばり、頭を下げ、
言葉を飲み込み、耐えていた。
夕方。
最後の一言が、投げ捨てられる。
村の連中が男を取り囲み言った。
「もう、ここに居なくていいんじゃないか。さっさと死ねよ」
夜。
男は、独り、黒に染まる森の中へ入った。
月明かりの下。
怒り、悲しみ、恨み、恐怖。
行き場を失った感情が、混ざり合い、溢れ出す。
──男は耐えきれなかった。
理性が、音を立てて崩れる。
堕鬼。
骨が軋み、肉が歪み、皮膚が熱を持つ。
瞳が赤く染まり、思考が削ぎ落とされる。
残るのは、衝動だけ。
壊したい。
殺したい。
理由はいらない。
それは下位鬼の誕生だった。
鬼が、生まれた。
堕鬼とは、落ちた結果。
「驚いた。……餓鬼以外に、堕ちる存在がいるなんて」
感情に呑まれ、理性を失った末路。
鬼からも蔑まれる存在。
堕鬼は、産声を上げるように、おぞましく哭いた。
──違う。
頭ではわかっているのに、胸がざわつく。
沈めた感情が溢れそうになる。
あの男の叫びは、影に沈めた自分の叫びだった。
堕鬼は、村へ向かって走り出す。
力に支配された獣。
影の中からそれを見る。
俺は感情を、影に沈めただけ。
──もし、沈めることが出来なかったら。
あの戦争で、
母の前で、
俺も、堕ちていたのだろうか……。
遠くで、鈴の音が鳴った。
規則正しい足音。
人間の気配。
「……鬼狩り」
7人の人影。
源頼光の子孫たちとは、違う人間たち。
鬼を見つけ、処理する存在。
俺は、影の中で息を殺す。
「何もかも無くなった」
彼らも、鬼を的確に殺すのだろうか。
「この命以外は」
なら、生きる為に俺は観察しなければならない。
人は、鬼になる。
鬼は、人に狩られる。
──この世界は、そうできているらしい。
俺は、ただ見ていた。
次に何が起きるか知るために。
生き残るために。
次に進むために。
影として。




