第五話 影に沈む
里を出て、まだ百歩も進んでいない。
──来る。
大太鼓を打ち鳴らす、鈍い音が腹の底に響いた。
続けて、下卑た笑い声と、獣じみた喚声。
「──狩りの時間だぁぁあああッ!!」
背中の影がざわりと波打つ。
一人や二人じゃない。
地面が微かに震え、複数の足音が一斉に駆け出したが分かった。
他派閥の鬼を先頭に。
別の里の童子に鞍替えした者たちも混ざっているのだろう。
──俺を臆病者と嘲った連中。
奴らは俺を、
骨の髄まで、娯楽としてしゃぶり尽くすつもりらしい。
逃げ切れるか、じゃない。
捕まれば、殺される。
その事実を、妙に冷静に受け止めていた。
走らない。
吼えない。
息を殺す。
心臓の音だけが、やけにうるさい。
このままでは、影を纏っても聞き取られかねない。
俺は歩幅を変えず、山道を進む。
恐怖よりも先に、考えが巡る。
(追ってくる速度は速い)
(俺を囲むつもりだ)
(……大丈夫。やり過ごせるはずだ)
(あの人間を前にした時の感覚を思い出せ)
──母を殺した奴ら、
脳裏に、母の顔と、嗤う鬼たちの表情が浮かぶ。
視界が、赤く染まった。
拳に力が入る。
(一人ずつなら──)
「あの山だ! 臆病者の気配を感じるぞぉ!!」
──違う。
即座に、その考えを切り捨てた。
力めば、鬼の力が出る。
鬼の力を出せば、気配が膨らむ。
気配が膨らめば……見つかる。
あの戦場で見た。
力を誇った鬼から、真っ先に死んでいった。
俺は、歩みを止めた。
木々の影が、地面に濃く落ちている。
──ここだ。
意識して、影を選ぶ。
──沈む。
身体の輪郭が、ゆっくりと曖昧になっていく。
音が遠のく。
代わりに、風の冷たさだけが、やけに鮮明だった。
「……おい」
すぐ真横で鬼の声がした。
影の膜が、わずかに遅れる。
木漏れ日のように、見え隠れを繰り返す。
心臓が跳ねた。
鬼が影を踏むたびに、耐え難い痛みが走る。
それでも、耐えた。
そして、姿を現した鬼は──
母を、殺した鬼だった。
怒りが溢れる。
目の前にある背中は、あまりにも無防備だった。
(今なら、殺せる)
……殺せば、母の仇を打てる。
そうしたら、母は、
──褒めてくれるだろうか?
影がざわめく。
──見つかる。
直感が、はっきりと告げる。
力が、抜けた。
鬼であろうとする感覚が、勝手に、影の底へ沈んでいく。
身体は、ただの人間と変わらない。
いや、それ以下だ。
気配が、消える。
「……そこか」
大鬼の視線が、影の奥──俺を正確に射抜いた。
だが、すぐに視線が揺れる。
大鬼は、太刀を振り回し、木を、地面を切り裂いた。
太刀が影を撫で、身体が裂ける。
「チッ……小賢しい、臆病者だ」
「いたか?」
集まってきた追手の鬼たちが、足を止める。
俺は、そこにいる。
だが、いない。
鬼たちは、影の濃淡に惑わされ、見失っていく。
「人間から逃げた腰抜けだ。何か術を使いやがった……」
「術って何だ? それじゃあ、まるで酒呑の親分みたいじゃないか」
後から来た鬼が、不安を滲ませる。
「馬鹿がッ! あんな臆病餓鬼が、そんな力を持つわけないだろうがッ!!」
大鬼が、吐き捨てるような言葉とともに、鬼の首を跳ねた。
絶命し、他の鬼たちは尻込む。
「ボサっとするな!! 囲め!! まだ近くにいるはずだ!!」
鬼たちは苛立ちを隠さず、走り去る。
やがて、足音が遠ざかっていった。
「母の死を無駄にはできない」
俺は、唇を噛み締めた。
どれぐらいの時間が経ったのか。
日は完全に落ち、辺りは暗い。
──完全に、撒いた。
影を解くと同時に、吐き気が込み上げる。
指先の感覚がない。
全身から、冷たい汗が吹き出した。
膝から力が抜ける。
それでも、座り込まなかった。
影は、逃げにしか使えない。
今の俺には、戦うための力には思えなかった。
戦場に、立たないための力。
鬼の常識と、真逆の力。
影の中で目を閉じた瞬間、
血に濡れた母の背と、
地に倒れた父の背が、脳裏を過ぎる。
──俺は、もう戻れない。
山を下りる。
同族の匂いが、少しずつ薄れていく。
そして、俺は初めて──吼えた。
「──うぁああああああああッ!!」
言葉にならない声が、喉を裂いた。
母を守れなかった。
父のように、戦場で死ぬこともしなかった。
生き残った。
ただ、それだけだ。
──生きて。
それでも。
それでも俺は、生きる。
母は、こんな俺に言ってくれたんだ。
自分の命を投げ打って。
鬼としてではない。
ただ生きるために、
鬼であることを捨てた存在として。
叫び終えた瞬間、
胸を焼いていた熱が、影の奥へ沈んでいく。
怒りも。
悲しみも。
憎しみさえも。
すべて影が、呑み込んでいく。
「……生き残っただけで、罪になる世界か」
その日。
酒呑童子の息子は、
影の中で、鬼を捨てた。




