第二十三話 六人
大江山プラント、京都。
新幹線から路線バスに乗り換え、山道を一時間。
バスを降りた瞬間——空気が変わった。
重い。
大気そのものが粘ついている。
人間には感じ取れないだろうが、俺の肌は瘴気を知っている。
薄い、だが確実な負の魔力の残滓。
地下深くから染み出してくる、鬼の気配。
そして、どこか馴染みのある匂い。
大江山プラントは、山の中腹に建つ巨大な施設だ。
コンクリートと結界術を組み合わせた外壁。
屋上に並ぶ霊子吸引柱のシルエット。
天岩戸システムの中継拠点であり、地下には——鬼を封じた迷宮がある。
ここを管理しているのは、第二高校と安倍家直系。
京都のS級。
つまり——完全にアウェイだ。
施設の前庭に、六つの集団が集まっている。
全六校。各校六人。合計三十六人の生徒と、その引率教員。
俺は影を薄くして、一歩引いた位置から観察した。
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一目で、わかる。
第一高校。東京、S級。
六人が横一列で立っている。
制服の胸元に源家の家紋。
全員が姿勢を崩さない。
表情もない。隣のチームを見もしない。
見る必要がない、という態度そのものが——圧だ。
第二高校。京都、S級。
彼らにとって、ここは地元。
こちらは逆に、弛緩した余裕がある。
にこやかですらあった。
だが目が笑っていない。
ここは自分たちの庭だ、という確信が立ち居振る舞いに滲んでいる。
リーダーらしき男子が、他校の教員に丁寧に挨拶しながら——視線だけは、冷えている。
第三。三重、A級。
第四。宮城、B級。
どちらも固い表情で、上位校を意識している。
自分たちの立ち位置を測っている目だ。
そして——第五。島根、B級。
リーダーが、こちらを見た。
笑っている。嘲りを隠さない笑い。
横の男子が何かを囁き、集団がくすくすと笑う。
視線の先は——俺たちの引率。
玉藻前。
教員陣の中で、一人だけ浮いている。
妖。人間ではないことが、空気で伝わる。
他校の教員も距離を取っている。
丁寧に挨拶をしているが、目を合わせない。
合わせたくない、が正確だろう。
「玉藻前が担当の学校」
それだけで、第六の評価は決まっている。
第五のリーダーが、こちらに近づいてきた。
「第六さん? 今年もよろしくね」
清水に声をかけた。
笑顔。
だが、声に嘲りがある。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
清水が応じた。
声は平静。
だが、背筋の張り方が僅かに変わった。
その粘ついた視線に構えている。
「へー、それって弓? まだやってる人いるんだ。すごいね、伝統を守るの」
清水の腰に提げられた弓を見て、第五のリーダーが笑いを噛み殺しながら言った。
周囲の生徒が目配せし、クスクスと笑う。
弓。
八握デバイスが術式を瞬時に展開する時代に、矢を番えて引く。非効率。時代遅れ。それが他校からの評価。
……いや、御剣局、引いては鬼狩り全員の共通認識だ。
清水信乃は答えなかった。
唇を引き結び、前を向いている。
俺は見ている。
清水信乃の手が、弓に触れた。
握りしめるのではなく——確かめるように、撫でた。
清水家の弓。家の誇り。時代遅れと笑われても、手放さない理由が、あの指先にある。
親指の付け根が分厚く硬くなっている。
何千回、何万回と弦を引いた痕だ。
「まあ、頑張ってね。今年も——最下位だろうけど」
第五のリーダーが去りかけて、足を止めた。
振り返る。今度は——双花を見ていた。
「ねぇ、その金髪の子。ハーフ?」
双花が身を固くした。
「かわいいじゃん。——第六にはもったいないな」
笑い声。取り巻きの男子が双花を上から下まで眺める。
品定めする目。人を物として見る目。
双花は笑っていた。いつもの笑顔。
でも俺には見えた——指先が、スカートの裾を握っている。
森が一歩前に出かけた。清水が腕で止める。
「行くな。あれが目的よ」
低い声。清水は理解している。
挑発して、殴らせて、問題を起こした側を失格にする。
その程度の知恵は——卑劣な人間の方が長けている。
森が舌打ちをした。
「ムカつくな、あいつら」
「森。声が大きい」
清水が制する。声は静かだが、有無を言わせない。
「でもさぁ、委員長——」
「聞こえていたわ。だから何? 言い返しても、点数は変わらない」
正論だ。だが——正論で感情は抑えられない。
森は黙ったが、拳を握っている。
林は俯いて、何も言えずにいる。
相馬が「腹立つけど、そのぶん見返せばいいじゃん!」と笑ったが、空気は変わらなかった。
双花が小さく息を吐いた。
何か言いたそうな顔。
けれど、清水の前では言葉が出ないようだ。
委員長の張り詰めた強さが、逆に壁になっている。
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説明会と施設案内。
施設の案内は、第二高校の生徒が担当した。
結界の仕組み。霊子吸引柱の配置。天岩戸システムの中継機能。
丁寧な説明を、他校の生徒たちは真面目にメモしている。
俺は壁に触れた。
聞く必要がなかった。知っている。
この結界の「裏側」を、身体で知っている。
霊子吸引柱が瘴気を回収する仕組み。
回収された負の魔力が地下の鍛錬炉で叩き直される工程。
その副産物として——変換しきれない悪意の滓が溜まること。
案内の生徒が「安全です」と繰り返すたび、俺の血が反論した。
安全なのは人間だけだ。
この結界の中で管理されている鬼たちにとって——ここは檻だ。
そして人間たちにとって、ここにいる鬼は、ただの資源。
施設の地下通路を歩いた時、壁面に手を触れた。
コンクリートの奥から、微かな振動。
鬼の気配。何十、何百という気配が、地下深くに封じられている。
生きている。
だが、生きていることすら、自覚できていない。
指を離した。
何も言わずに、列の最後尾に戻った。
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——清水視点。
練習場。プラント一階の広い訓練スペース。
各校が区画を分けて、軽い連携確認を行っている。
第一高校の区画から、刃が空気を裂く音が響いてくる。
無駄のない、研ぎ澄まされた音。
聞くだけで、格が違うとわかる。
目を逸らす。比べても仕方がない。
「では、改めて。明日の隊形を確認します」
声を出した。六人が——五人が、こちらを向いた。
田中くんは……いる。壁際に立っている。
「前衛、森くんと相馬さん。後衛、私と林くん。中衛に渡辺さん。田中くんは遊撃」
遊撃。便利な言葉だ。
本当は——どこに置いていいかわからないだけ。
田中くん。
正直に言えば、不満がある。
ほとんど授業に出ていない。
欠席日数はクラスで最多。
実技の記録がほぼ白紙。
成績は——辛うじて赤点を避けている程度。
佐藤くんがいなくなって、人数が足りなくなった。
名簿に残っていた田中くんを入れるしかなかった。
選んだのではない。
残っていたのだ。
壁際にいる田中くんを見た。
こんな人だったかしら、という違和感。
顔がぼやける。
この人は、戦えるのだろうか。
「……田中くん」
「はい」
声は聞こえた。だけど、どこから返ってきたのか一瞬わからなくなる。
「明日、無理はしないでください。遊撃は後方待機でも構いません。……足手まといになるくらいなら、下がっていて」
言い過ぎたかもしれない。
だが——嘘は言えない。
このチームで、実力を把握していないのは田中くんだけだ。
どれだけ実力がないのか、それすらわからない。
田中くんは何も答えなかった。
怒ったのか、傷ついたのか、何も感じていないのか——顔が読めないから、わからない。
こういう人が、一番面倒だ。
次。
森くんが素振りをしている。力はある。腕も悪くない。
でも——フォームが雑。
打ち込みの一つ一つに見せたい気持ちが混じっている。
相馬さんの方をちらちら見ながら振っている。
「森くん。素振りに集中」
「あ、はい。してます」
「してない」
林くんは隅で八握の術式を確認している。
手元は正確。
だけど、声をかけると肩が跳ねる。
「はあ……大丈夫かしら」
相馬さんは——走っている。
練習場の端から端まで、全力疾走。
何の意味があるのか聞いたら「体があったまんないとダメなタイプなんで!」と返された。
……自由すぎる。でも、あの脚力と体力は、信用できる……と思いたい。
相馬さんが走り終えて、壁際に座り込んだ。
隣に——田中くんがいた、らしい。
相馬さんが話しかけている。
「田中くんってさ、武器なに使うの?」
「……刀」
「へー。刀かぁ。見せて見せて」
田中くんが複合刀を差し出した。
相馬さんが鞘を抜いて「おもっ」と笑った。
「あたし刀ダメなんだよねぇ。重くて。やっぱ蹴りが一番!」
「……蹴りで鬼を倒すのか」
「倒すっていうか、ぶっ飛ばす? あはは」
他愛ない会話。
……田中くんが、喋っている。
田中くんの声。低くて、静かで、感情が読めない。
相馬さんだけが、あの存在感のなさに動じずに話しかけている。
渡辺さんもいつの間にか近くにいて、田中くんに水筒を差し出していた。
「田中くん、お水飲んで。暑いから」
「……ああ。ありがとう」
渡辺さんは嬉しそうに笑った。
誰かに何かをしてあげた時の、あの笑顔。
渡辺双花。
この中では、まだ——マシな方かもしれない。
対鬼適性値が高いという噂は聞いている。学力も上位。
授業態度も真面目。
結界術の精度は、私が見た限り——正直、驚いた。
あの『界』の展開速度は、このチームで一番の防御手段になりうる。
だけど。
渡辺さんには——芯がない。
誰にでも笑顔を向ける。
誰にでも合わせる。
頼まれれば断らない。
嫌だと言わない。
男子と軽率に距離を詰める——というより、距離を詰められても拒まない。
イライラする。
自分の意志で動いている感じがしない。
流されているだけに見える。
それが——信用できない。
戦場では、自分の判断で動けない人間は足を引っ張る。
渡辺さんの術式は優秀だ。
でも、肝心な場面で「誰かに言われたから」ではなく、「自分がそう判断した」で動けるか——。
わからない。
……不安だらけだ。
弓を手に取った。矢を番えて、的に向かって引く。弦の感触が、指を通して腕に伝わる。
これだけが——確かなもの。
私の弓と、私の判断。それだけで、このチームを守らなければならない。
佐藤くんがいた頃は——こんなに重くなかった。実力だけは確かにあった。嫌な奴だったけど——背中を任せられる、数少ない人間だった。
今は——誰にも、任せられない。
「明日、朝六時です。全員、早めに休みなさい」
声を上げた。委員長としての声。命令の声。
頼れないなら——私が、全部やる。
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——双花視点。
夜。プラント内の宿泊棟。
女子部屋で、清水さんと夏希ちゃんと私の三人。
清水さんは試験要項を読み込んでいる。もう三周目だ。眉間に皺が寄っている。
夏希ちゃんはもう寝ている。横向きで、布団を蹴飛ばして。
私は——眠れない。
窓の外は、大江山の闇。街灯もない。月も雲に隠れている。濃い、濃い闇。
この闇の下に——鬼がいる。結界に閉じ込められた、たくさんの鬼。自分たちが管理されていることすら知らない鬼たち。
墨くんも——かつて、ここにいた。
胸の奥で、イバラが蠢いている。言葉ではなく、感覚として。不安でも怒りでもない。匂いを嗅ぐ獣のような、鋭い警戒。
何かがいる。この山の中に。この闇の底に。
イバラが、それを感じ取っている。
私は布団を引き上げ、目を閉じた。明日の朝六時、試験が始まる。
眠らなければ。
でも——目を閉じると、闇が余計に近くなる。
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同じ夜。
俺は男子部屋の窓際で、影を薄くして座っていた。
森と林は寝息を立てている。
窓の外に、大江山の稜線。闇に沈んだ山が、空の底に横たわっている。
血が——熱い。
昼間よりも強い。この山の空気を吸うたびに、身体の奥で何かが共鳴している。鬼の血。父の血。酒呑童子の血筋。
影に沈めても沈めても、浮かび上がってくる。
あの結界の奥に——鬼たちがいる。俺が育った場所。俺が追い出された場所。認識を操作され、管理され、飼い殺しにされている仲間たち。
知っている。全部知っている。
だが——今は、動けない。
俺は田中だ。ただの生徒だ。明日は、試験に出て、ポイントを稼いで、第六の成績を上げる。玉藻前を守る。それだけだ。
——それだけで、いいはずだ。
なのに。
闇の向こうから、何かが呼んでいるような気がする。血が、応えたがっている。
拳を握った。
影の奥に——感情ごと、沈める。
明日、朝六時。
百鬼迷宮——奪取戦が、始まる。




