第十三話 いつものように
次の日。
私は……いつの間にか、寝てしまっていたらしい。
早めに目覚ましをセットしておいて良かった。
急いで、手を念入りに洗い、準備に取り掛かる。
なぜなら、今日は、お弁当を二つ作るのだから。
一つは自分の分。もう一つは、墨くんの分。
台所に立ち、ご飯を炊いて、卵焼きを巻いて、前の晩の残りのおかずを詰める。
二人分を作るのは、一人分とそう変わらない手間だった。
でも、いつもと、包む時の気持ちが違う。
口に合うだろうか……。
今頃になって、そんな心配と緊張が湧いてくるのだった。
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お昼時間、私は仲良くしてくれるグループと食べる。
それでも、視線は自然と墨くんへ、吸い込まれた。
墨くんが、お弁当箱の蓋を開けると、表情は変えないが、目元が僅かに柔らかくなった気がした。
少しホッとする。
その間に、墨くんは唐揚げをパクりと食べた。
普段は無表情なのに、美味しそうに食べる姿を見て、たまらなく嬉しくなる。
──良かった。
おかずの中で唐揚げを、最初に手をつけたことも忘れない。
明日は多めに入れよう。
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その日の帰り道、墨くんから話しかけてくれた。
「……お弁当、美味しかった。卵焼きに出汁を入れてるのか?」
「わかるの?」
「……わかる」
それだけ。
でも、嬉しかった。
誰かのために作って、それを食べてもらえることが。
必要とされている——いや、違う。これはもっと単純な感情だ。
ただ、嬉しい。
そう思えることが、少しだけ怖かった。
「嬉しい」は、いつか「失う」に変わる。
パパとママの時も、そうだった。
──考えちゃダメ。
家の中、一人。
弁当箱を洗いながら、私は首を振った。
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墨くんと帰るようになって、一週間が経った。
不思議な時間だった。
会話は少ない。墨くんは自分から滅多に話さないし、私が話しかけても返事は短い。
それなのに、沈黙が苦しくない。
最初は、何か話さなきゃと焦って、天気の話を三回もした。墨くんは三回とも「そうだな」とだけ答えた。
だけど、少し慣れた。
黙って歩くことが、この人との正しい距離なのだと分かった。
最近は──沈黙が、心地よくなっていた。
昼休み。
女子のグループで、いつものように昼食を取っていると。
「ねぇ、双花。最近よく一緒にいる男子いるじゃん」
「男子?」
「ほら、窓際の……あの、なんだっけ。名前が出てこないけど」
「墨くん?」
「そうそう。あの……あれ? えーと、顔が思い出せない」
首を傾げるクラスメイト。
「つーか誰? うちのクラスにそんなやついた?」
「いたでしょ。窓際の一番奥の席」
「え……ああ。あれ? あそこ、田中の席じゃなかったっけ。田中って、墨って名前だっけ?」
「影薄すぎでしょ」
ウケると笑う女子たち。
墨くんの存在が、どれほど薄いかを思い知らされる。
一緒にいる私ですら、たまに朝目が覚めると、彼の顔がぼやけていて……教室で見てようやく「ああ、墨くんだ」と思い出す。
「双花の彼氏?」
「違うよ。ただの……友達」
友達、という言葉が、口の中で転がる。
墨くんは友達なんていらないと言った。
なら、私が勝手にそう呼んでいるだけだ。
「双花ってさぁ、そういうとこあるよね。誰にでも優しいっていうか」
「放っておけないんでしょ。天使だもんね、ふーちゃんは」
天使。
また、その言葉。
私は天使なんかじゃない。天使は選ばなくても愛される。
私は選ばれるために、差し出し続けているだけだ。
笑顔を返す。
いつもの、形だけの笑顔。
「てか、佐藤くんが、双花のこと、気になってるらしいよ〜。双花は人気者だね〜」
どこか、棘のある言い方に、食べ物が喉を通らなくなる。
佐藤恭介。同じクラスで、顔も良く、成績も優秀。
この第六では、一番実力があると噂されている、女子から人気の生徒。
だけど私は、この人が放つ視線と声が怖くて苦手だった。
笑顔の奥に刃物を隠しているような、隙のない冷たさ。
人気はある。でも、近づきたくない種類の人間だ。
「そ、そうなんだ、ね」
どうにか笑って、お茶を濁す。
「双花、全然食べてなくない? 大丈夫そ?」
「ウケるっ、今日の弁当、量ヤバくない?」
「えっと……ちょっと多めに作っちゃっただけ」
嘘をついた。
これは、墨くんの分だ。
今日は勇気を出して、一緒にお昼を食べようと誘うつもりだった。
でも、朝から彼の姿はなかった。
「そういう抜けてる所も、モテるっていうか〜」
「そ、そんな事ないよ」
また、笑顔で返す。
墨くん。
あの人は、私に何も求めない。
優しさも、笑顔も、役に立つことも。
何も求めないのに、隣を歩いてくれる。
それが、どれほど珍しいことか。
あの人は、きっと知らない。
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五限目が終わった後、廊下で声をかけられた。
「双花ちゃん」
振り向くと、鈴木くんが立っていた。
同じクラスの男子。
後ろの席から、いつも玉藻先生にちょっかいを出す、あの男。
先生を式神にしたいと言い放ち、先生に凄まれて真っ青になった後も、懲りずに授業中に絡み続けている。
女性と話す時、視線がいつも胸の方に落ちているのを、私は気づいていた。
最近、佐藤恭介くんと一緒にいるのをよく見かける。
佐藤くんの隣にいるせいか、鈴木くんの態度が攻撃的なのが際立っていて、怖い。
それにあの二人の関係は、友達というより——上下を感じさせる。
「ちょっとだけ、話したいことがあるんだけどさ〜、放課後空いてる?」
断ればいい。
用事がある。墨くんと帰る約束がある。
帰り道に寄りたいお店もあるし。
「……うん、いいよ」
声が出ていた。
断れなかった。
いつものことだ。
墨くんとの約束は「約束」ですらない。
先生に言われたから送ってくれているだけ。
鈴木くんの方が、わざわざ私を選んで声をかけてくれた。
それを断るのは──。
何が怖いんだろう。
嫌われること? 違う。
鈴木に嫌われても、別に困らない。
でも、「断る」という行為そのものが、身体に刻まれた傷に触れる。
断る=拒絶する=相手を傷つける=傷つけたら、いつか返ってくる。
そんな等式が、頭の中に染みついている。
鈴木くんは笑い、「じゃあ放課後、東棟の倉庫の前で」と言って去っていった。
あの笑い方が、嫌だった。
唇の端だけが上がる、粘ついた笑み。
倉庫。
放課後の東棟は、人が少ない。
嫌な予感がした。
でも、断れなかった。
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放課後。
教室を出る前に、窓際の一番奥を見た。
墨くんは、いなかった。
鞄もない。もう帰ったのか。
──ちょっとだけ、胸が沈んだ。
一言、断りを入れたかった。
今日は先に帰る、ごめんね、と。
それが言えなかったことが、鈴木くんの誘いを断れなかったことよりも、ずっと胸に刺さった。
でも、いないなら仕方ない。
きっと、玉藻先生に呼ばれたのだろう。
あの二人は、時々職員室で話し込んでいる。
先生と生徒なのに、もっと近い関係に見えることがある。
家族のような、でも家族とは少し違う、不思議な距離感。
東棟へ向かう。
廊下は静かだった。窓からの西日が、埃を金色に染めている。
足音が、自分のものだけ。
一歩進むごとに、嫌な予感が膨らんでいく。
戻ろう。
まだ間に合う。引き返して、校門の前で墨くんを待とう。
来なかったら、一人で帰ればいい。一人の帰り道は慣れている。
足が、止まらなかった。
倉庫の前に着くと、鈴木くんが待っていた。
「来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。話って何?」
鈴木くんは、倉庫の扉を開けた。
「中で話したいんだ。ちょっと人に聞かれたくなくて」
嫌だ。
思った。
はっきりと、嫌だと思った。
暗い倉庫。
人気のない場所。
扉の向こうが見えない。
胸の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。
身体が知っている。この状況がどこに向かうか。
幼い頃の記憶が、薄く重なる。
閉じた空間。逃げ場のない場所。優しくした相手が、牙を剥く。
嫌だ。
その二文字が、喉まで上がってくる。
口を開けば出る。たった二文字。
でも。
「……うん」
足が、動いた。
断れば、嫌われる。
嫌われたら、もう声をかけてもらえない。
必要なくなる。
一人になる。
頭の中で、いつもの声が回る。
もう一つの声が、叫んでいる。
やめろ。行くな。入るな。
その声を、飲み込んだ。
いつもそうだ。あの声は、いつも正しい。
正しいのに、私は従わない。従えない。
扉をくぐった。
✳︎✳︎✳︎
倉庫の中は、暗かった。
体育用具と古い机が積み上げられ、埃っぽい空気が鼻を突く。
窓がない。天井の蛍光灯が、ちらちらと不安定に明滅している。
不自然に広げられたマットが目に入った。
鈴木が、後ろで扉を閉めた。
鍵は内側からは掛けられない。
だけど、それは安心に繋がらなかった。
空気が変わる。
「双花ちゃんって、優しいよね」
私の肩を、ねっとりと撫でる。
鈴木の声が、さっきとは違うものを帯びていた。
「誰にでも優しくて、断らなくて。……つけ込みやすいって、みんな言ってる」
みんな。
暗がりの奥から、人影が現れた。
一人。二人。三人。
知らない顔だった。
第六の生徒ではない。年上の男たち。
目が据わっている。
足が、竦んだ。
「鈴木くん……?」
「ごめんね。借りがあってさ」
背中を押すと、鈴木くんは壁際に退がり、こちらを見る。
そして、奥の男に媚びるように言った。
「お先にどうぞ」
男の一人が、近づいてくる。
「嬢ちゃん、おとなしくしてりゃ痛くしないからよ」
笑っている。
堕鬼より、醜い何かに見えた。
理性を持ったまま、ここにいる人たちは、私を壊そうとしている。
逃げなきゃ。
身を守る術は学んだ。デバイスもある。
腰のポーチに手を伸ばせば──。
手を弾かれた。
「ええー。今、人に使おうとした?」
鈴木くんが油断なく、私の腕を強く捻りあげる。
「っ痛……」
力が入らない。
呼吸が浅くなる。
視界が狭まっていく。
「うっへぇ、いいもん持ってるねぇ。双花ちゃん」
鈴木の手が、力強く私の身体を弄る。
気持ちの悪い息遣い、血走った目。
教師にも級友にも向ける、所有欲を隠さない濁った視線。
身体が、凍りつく。
頭は「動け」と叫んでいるのに、四肢が応答しない。
まるで金縛りにあったように。
違う。
これは恐怖だけじゃない。
身体の奥で、何かが軋んでいる。
蓋が、外れかけている。
ずっと押さえ込んできた、底の底のもの。
幼い記憶が、フラッシュバックする。
──晴れた日。
ボロボロで、焼けた匂いがする男に、傘を渡した。
痛そうだったから、放っておけなかった。
笑顔で、優しさで、私は動いた。
その男は、私に執着した。
私の魔力に。匂いに。存在に。
そして——パパとママを、殺した。
『君が私を拒絶するから、君の大切な物を奪う事にした』
──優しくしたから、死んだ。
『君が悪いんだよ。ちゃんと最後まで、優しさを貫き通さないと……すべてが、ほーら、簡単に壊れちゃうんだから』
──私が、殺した。
『どんな事があっても受け入れるんだ。それが、君の優しさだろ』
──嫌だ。
『これは、おまじないだ。もっと、君の良さを輝かせるための──』
「やめ……て……」
声が出た。
自分のものとは思えないほど、掠れていた。
「ええ、聞こえないよ。もっと、はっきり言わないと!」
鈴木の手が、勢いよく制服を剥ぐ。
力が強い。骨が軋む。
男たちは猿のように声を上げ喜んだ。
マットの上へ、私を投げつける。
囲み、こちらを見る顔は、堕鬼のように涎を垂らし、歪んで見えた。
視界が、暗くなる。
意識が、遠のいていく。
——もう、限界だ。
奥の奥で、声がする。
私の声じゃない。
もっと低く、もっと冷たい声。
——私が、殺す。
✳︎✳︎✳︎
身体の中で、何かが弾けた。
蓋が、吹き飛ぶ。
底の底に押し込めていたものが、一気に噴き出す。
痛い。
頭が割れそうに痛い。
右手が、熱い。
身体中が、痛い。
骨が鳴り、皮膚が裂け、爪が伸びる。
人間の手が、人間でないものに変わっていく。
意識が切り替わる感覚。
自分の身体なのに、自分じゃない。
ハンドルを、別の誰かに渡したような。
暗闇の中へ、沈んでいく。
最後に聞こえたのは——
男の悲鳴と、
肉が裂ける音。
そして、とても静かな声。
「——双花には、指一本触れさせない」
私は、闇の底へ落ちた。
そこは、いつも眠る場所。
暖かくて、冷たくて。
誰もいなくて、でも独りじゃない。
もう一人の私が、代わりに立っている。
その手は血に濡れていて、
目は刃のように鋭くて、
それでも──私を守るために、そこにいた。
ごめんね。
いつも、ごめんね。
声は届かない。
届いたことは、一度もない。
私は眠る。
いつものように。
全てが終わるまで。




