第十二話 影は見ていた
日は沈み、闇が支配する。
俺は、家に帰っていなかった。
渡辺双花のアパートを離れた後、来た道を引き返す。
商店街へ。
八百屋の前へ。
店じまいの片付けをしている店主を、影の中から見た。
夕方、あの男が見せた目を忘れていない。
渡辺双花にだけ向ける、あの湿った視線。
そして、俺の存在に気づいた瞬間の、値踏みするような苛立ち。
あれは──嫉妬だ。
自分が独占していると思い込んでいたものに、他の影が差したときの、剥き出しの私欲。
鬼の里で、何度も見た目だ。
力で奪い、力で潰す。
人間は角がないだけで、やることは変わらない。
店のシャッターが下りる。
店主が店を出た。
表通りへ向かうかと思ったが──違った。
裏路地に入り、住宅街の方角へ。
迷いのない足取り。
道を知っている。何度も歩いたことがある足運びだ。
途中、コンビニに寄った。
買ったのは、ビニール袋にたんまり入っている野菜、それに酒だろうか。
渡辺双花に渡す口実を、わざわざ買い直している?
俺は影のまま、目がギラつかせながら、愉快に鼻歌を歌っている店主を追った。
✳︎✳︎✳︎
店主は、渡辺双花のアパートの前で立ち止まった。
手には、ビニール袋。
中に野菜と酒が入っている。
時刻は、夜の十一時を過ぎていた。
店主がインターホンを押す。
「双花ちゃーん、おまけの分、渡し忘れちゃってさぁ。開けてくれる?」
声は明るい。
気前のいいおじさんの声。
──だが、指先が震えている。
興奮で。
間があった。
長い間。
俺は影の中で、介入のタイミングを計っていた。
扉が開かなければ、何も起きない。
開かなければ──。
カチャリ。
鍵の音が聞こえた。
──開けた。
なぜ開ける。
夜の十一時に、男が一人で訪ねてきているのに。
嫌な予感がしたはずだ。
分かっていたはずだ。
それでも、開けた。
断れないから。
渡辺双花の、あの笑顔が浮かぶ。
「断ったら、嫌われる」
「必要なくなる」
──合理的じゃない。
だが、これが彼女の生存戦略なのだ。
どんなに危険でも、拒絶するより受け入れる方を選ぶ。
それが彼女のやり方で、それが彼女を壊している。
扉が閉まった。
影を、壁に沿わせる。
アパートの外壁を這い上がり、窓の近くに潜む。
室内の気配を、影越しに感じ取る。
声が聞こえた。
「ありがとうございます、わざわざ……」
「いいのいいの。双花ちゃんには、いつも良くしてもらってるし」
会話は穏やかだ。
だが、空気が変わり始めている。
男の呼吸が荒くなっている。足音が、一歩ずつ近づいている。
「あの、それじゃ、もう遅いですし──」
「ねぇ、双花ちゃん」
声のトーンが落ちた。
「さっきの男の子さぁ。彼氏?」
「え、違います。ただの──」
「よかった」
何がよかったのか、言葉の裏が透けて見える。
「俺さぁ、ずっと思ってたんだ。双花ちゃんは特別だって。他の客とは違うって」
「あの──」
「いいだろ? ちょっとくらい。いっぱい世話してやったんだから」
「やめてくださいっ……嫌っ」
そんな震えて声にならない悲鳴。
「はぁっ……はぁっ……優しくするから、安心してよ。なあ?」
衣擦れの音。何かが倒れる音。押さえつける音。
俺の身体が、反射的に動きかけた。
──止まれ。
自分に命じる。
まだだ。
飛び込めば、正体が露見する。
鬼であること。影の力。全てが崩れる。
玉藻前の立場も。俺の潜伏も。
合理的に考えろ。
最善の介入タイミングは——。
その思考を、音が断ち切った。
✳︎✳︎✳︎
湿った音がした。
肉を断つ、鈍い音。
それから——何かが床に落ちる、重い衝撃。
一瞬の沈黙。
窓の隙間から、室内を覗いた。
店主の首が、胴体から離れていた。
壁に赤が飛び散り、床に広がる。
切断面は鋭く、刃物ではない。
人間の手——いや、人間だった手で引きちぎられている。
渡辺双花が、立っていた。
いや。
正確には、渡辺双花の身体をした「何か」が、立っていた。
目つきが違う。
エメラルドの瞳に、赤い光が混じっている。
右手が、肘から先まで異様に変質していた。
皮膚の色が暗く、爪が伸び、関節の角度がおかしい。
獣の手。
堕鬼の手。
だが、完全な堕鬼化ではない。
左手は人間のまま。
顔も渡辺双花のまま。
中途半端な、危うい状態。
堕鬼因子の部分的発現。
俺は、堕鬼化の過程を知っている。
十年前、人間の村で見た。
男が壊れ、骨が軋み、肉が歪み、理性が消えていく。
あれは一気に全身が変わった。
心が壊れた時、瘴気、大気に漂う魔が、忍び込む。
その瞬間、鬼に落ちるのだ。
だが、これは違う。
右手だけが堕ちて、残りが人間のまま。
変質が止まっている。いや、止められている。
初めて見る現象。
だけど、時間の問題だろう。
「それ」は、表情一つ変えず、血に濡れた右手を見下ろした。
そして、黙々と後片付けを始めた。
店主の身体を引きずり、血痕を拭き取る。
手慣れている。
これが、初めてではないのだ。
冷静に、効率よく、証拠を消していく。
その姿は、どこか——鬼狩りの後処理に似ていた。
十年前の戦場で見た、人間たちの姿に。
✳︎✳︎✳︎
玉藻前の言葉が、蘇る。
『巷で話題になっている殺人鬼。あれは渡辺双花が臭い』
『もしそうだったら、隠して、存在を無かったことに』
あの時の玉藻前の目は、どこまでも冷酷だった。
自分が生き残るための選択。
手段を選ばない、九百年の獣の計算。
だが。
俺は冷酷には、なれそうにない。
目の前の光景が、別の記憶と重なる。
三条宗刻の工房。
堕鬼化した妻を隠し続けた男。
宗刻は、漏れ出る妻の瘴気を刀に打ち込むことで御剣局から、隠し通していた。
堕鬼を人に戻す研究をするも、間に合わず、局が踏み込む。
妻は処分され、宗刻は壊れた。
——俺は、その全てを、宗刻の影の中から見ていた。
救えなかった。
その手立てがないから。
俺が出たところで、何もならない。
現実は変わらない。
観察していただけだ。
いつもそうだ。
見ている。
見ているだけ。
影に沈めたはずの感情が、水面に泡を立てる。
あの男は泣いていた。
毎日、毎日。
妻の名を叫び、刀を打ち続け、妻を戻すためボロボロの身体に鞭を打って、震える手で研究していた。
隊員たちが攻めて来た時、刀を振るって立ち向かった。
壊れて堕鬼になるまで、何度も、何度も。
その涙の温度を、俺はまだ覚えている。
影の中にいたから。すぐ傍にいたから。
——ここで無かった事にするだけなら、同じことの繰り返しだ。
俺の影の中には、宗刻の研究がある。
局が「なかったこと」にした技術。
堕鬼を人間に戻す——実際は、堕鬼化の途中で固定する、未完の理論。
隠すだけでは、変わらない。
俺は、無理だと……勝ち目がないとわかってしまった現実を、変えたくて準備をして来たはずだ。
影が、引き留めるように絡みつく。
——考えるな。まだ早い。
動きを鈍くするな。
まずは、確かめろ。
俺は、影の異能を解いた。
✳︎✳︎✳︎
存在が、世界に戻る。
空気の密度が変わる。
光が肌を打ち、音が鮮明になる。
影から出ると、いつも少しだけ目眩がする。
窓の外から、室内に降り立った。
血の匂いが、鼻腔を焼く。
鬼の嗅覚には、鉄の匂いが何倍にも増幅される。
吐き気を、腹の底で押し殺した。
「それ」は、俺に気づいて動きを止めた。
変質した右手と、人間の左手。
右手には、まだ血がこびりついている。
顔は渡辺双花のものだが、目つきが全く違う。
刃のように鋭く、感情が削ぎ落とされている。
呆然と、こちらを見ている。
「お前は、渡辺双花ではないな」
声を出す。平坦に。感情は影に沈めたまま。
「……だとしたら、どうする?」
低い声。
渡辺双花の声帯を使っているが、声の温度が違う。
甘さがない。まるで刃のようだ。
「どうもしない。ただ、忠告だ」
一歩近づく。
「それ」は後ずさらなかった。
「このまま人を殺せば、堕ちるぞ」
変質した右手が、ぴくりと震えた。
「……仕方がない」
絞り出すような声。
「双花を守るためなら、何でもする。どれだけ醜くなろうと、双花さえ幸せならそれでいい」
「そんな単純な話じゃない」
俺は、一歩も引かずに言った。
「堕ちれば、鬼狩り……御剣局が動く。確実にお前は殺される。そして、双花も巻き添えになる。同じ身体にいるなら、逃げ場はない」
「それ」の目が見開かれた。
初めて、動揺が走る。
「ならどうすればいい!!」
叫びと同時に、変質した右手が俺の首を掴んだ。
速い。
壁に押しつけられる。
喉が軋む。
力が、人間のものではない。堕鬼因子が発現した手の握力は、岩を砕く。
だが、殺意はなかった。
怒りでもない。
これは——恐怖だ。
至近距離で、瞳を見る。
エメラルドの中に赤い光。
その奥に、もっと深い色が沈んでいる。
黒。
俺と、同じ黒。
「それ」は、俺の目を見て、弾かれたように手を離した。
「お前——吸血鬼か!?」
後ずさる。
変質した右手を庇うように、身体の後ろに隠した。
「吸血鬼は、この国にはいられないはずだ。学ばなかったのか」
「いや……だが……」
声が震えている。
「あの時の、あいつと……同じ目をしている」
あいつ。
渡辺双花の両親を殺した吸血鬼のことか。
玉藻前から、そう事情は聞いていた。
こいつは、その記憶を持っている。
つまり——渡辺双花とは別の人格でありながら、同じ過去を共有している。
同じ身体を分かち合う、もう一つの魂。
プロフィールには載っていない。
御剣局のデータにも、渡辺家の記録にも、こんな存在は記されていないだろう。
誰にも知られていない。
渡辺双花の中に、もう一人いる。
「俺からの忠告だ。もう殺しはやめろ」
喉を押さえながら、言った。
「次は間違いなく、完全に堕ちる。右手だけじゃ済まない。全身が変わる。そうなったら、お前も双花も、もう戻れない」
「それ」は、何も言わなかった。
変質した右手を、もう片方の手で握りしめている。
爪が掌に食い込み、黒い血が滲んだ。
「……わかっている」
小さな声だった。
さっきまでの鋭さが消え、残ったのは、ただの——疲れた声。
「わかっている。殺すたびに、右手が遠くなる。前は指先だけだった。今は肘まで。次は——」
言葉が途切れた。
「でも、やめたら双花が死ぬ。あいつらは何度でも来る。次から次へと優しくしただけで、所有物だと思い込む奴らだ。双花は断れない。断り方を、知らない」
声が、震えていた。
「だから私が殺す。双花の手が届かないところで、双花が知らないうちに。それしか、方法がない」
その言葉は、俺の胸の底に沈んだ。
——守るために、壊れていく。
壊れることを選んで、守り続ける。
それは、どこかで聞いた生き方だった。
親父が、酒呑童子が、最後に見せた顔。
守れなかった、という焦りの色。
違う形だが、根は同じ。
その意思を否定する事は出来ない。
俺は背を向けた。
窓に手をかけ、影に沈もうとした。
「待て……!」
掠れた声が、背中に突き刺さる。
「助かる方法は、あるのか」
足が止まった。
——また、見ているだけか?
「……あるかもしれない」
口が、動いていた。
絡みつく影を無理矢理抑え、渡辺双花の形をした鬼を見た。
「だが、茨の道だぞ」




