第十一話 帰り道の刃
墨くんは、静かな人だった。
校門を出てから、一言も喋らない。
隣を歩いているのに、足音がほとんど聞こえない。
時折、本当にそこにいるのか不安になって横を見る。
黒い髪が風に揺れて、横顔が見えた。
……ちゃんと、そこに居てホッとする。
墨くんは、綺麗な顔をしていた。
肌が白くて、まつげが長くて、瞳の色が澄んでいる。
なのに、不思議なほど印象に残らない。
目を逸らした瞬間、もう顔の輪郭がぼやけてしまう。
──この人、本当に同じクラスだったのかな。
その疑問を、もう三回は飲み込んだ。
「あの、墨くんって」
「……何だ」
声をかけると、ワンテンポ遅れて答えが返る。
振り向きもしない。前を見たまま、低い声。
「いつもあの席にいたの? 窓際の一番奥」
「……ああ」
「全然、気づかなかった。ごめんね」
中々酷い事を言っていると気付く。
慌てて、彼の顔を見ると、
「気にするな。誰も気づかない」
さらりと言い切った。
自嘲ではない。ただの事実として、そう言ってる感じ。
まるで天気の話をするみたいに。
それが少しだけ、胸に引っかかった。
「墨くんは、その……友達とか」
「……いない」
「えっ」
「必要ないから」
必要ない。
その言葉の冷たさに、少しだけ目が見開いた。
──でも、どこかで聞いたことがある。
同じ響きを。
『必要とされなくなるのが怖い』
私の恐怖と、墨くんの無関心。
形は正反対なのに、根っこが同じ気がした。
「……寂しくないの?」
聞いてしまった。
余計なお世話だと分かっている。でも、口が先に動いていた。
墨くんは、少しだけ間を置いた。
「……考えたことがない」
嘘だ。
嘘だと、なぜか分かった。
根拠はない。ただ、あの黒い瞳の底が一瞬だけ揺れた気がした。
それ以上は聞けなかった。
私も、聞かれたくないことがあるから。
✳︎✳︎✳︎
高尾山の裾を下り、商店街へ出る。
夕方の商店街は賑わっていた。
総菜屋の揚げ物の匂い、八百屋の呼び声、自転車のベル。
日常の音が、身体を包む。
こういう空気が、私は好きだ。安心する。
隣を歩く墨くんは、明らかに居心地が悪そうだった。
人混みの中で、無意識に身体を縮めている。
存在を、限りなく薄くしようとしているように見える。
──あ、お店。
商店街の一角に、刀剣屋があった。
正確には、御剣局認定の装備品販売店。
ショーウィンドウの中に、新作の対鬼用複合刀が展示されている。
刀身は白銀で、鞘には細かい紋様が刻まれていた。
私が横目で見た瞬間、隣の影が止まった。
墨くんが、立ち止まっている。
ショーウィンドウの前で、微動だにしない。
黒い瞳が、ガラスの向こうの刀に釘付けになっていた。
──目が、輝いている。
あの無表情が嘘みたいに、瞳に光が宿っていた。
子供がおもちゃを見つけたような、あるいは、職人が傑作に出会ったような。
純粋な、熱。
「……すごいな、これ」
呟きが漏れる。
声のトーンが、今までと全く違う。
「墨くん?」
「見ろ、この刀身の厚み。通常の対鬼用複合刀は、天叢雲剣の魔力的波長を転写しただけの量産品だが、これは違う」
突然、饒舌になった。
目がガラスに張りつき、身体が前のめりになっている。
「鍛造の段階で芯金と皮金の比率を変えてある。刀身の断面が、通常の五角形じゃなく、六角に近い。これだと抜刀時の空気抵抗が減って、魔力伝導率が上がる」
「え、えっと……」
「それにこの鞘。紋様に見えるが、あれは陰陽術の増幅回路だ。抜く瞬間に呪力を充填する設計になってる。従来の鞘型増幅器の三倍は効率がいい」
墨くんの口が止まらない。
静かな雰囲気はどこに行ったのか。
私はぽかんと口を開けたまま、目を丸くしていた。
「しかもグリップの形状。人間工学に基づいた設計で、手の角度が──」
「……墨くん」
「何だ」
「すごく詳しいんだね」
我に返ったように、墨くんの口がぱたりと閉じた。
耳の先が、ほんの僅かに赤くなっている。
「……別に。基礎知識だ」
誤魔化している。
確実に誤魔化している。
ちょっとだけ、可愛い。
「好きなの? 刀」
「……合理的に美しいものが好きなだけだ」
合理的に美しい。
変わった表現だと思った。でも、墨くんらしい気もする。
この人の素顔を、見えた気がした。
「そういえば」
不意に、記憶が浮かんだ。
「国宝って呼ばれてた鍛冶師さんも、亡くなっちゃったんだよね。三条宗刻さん」
墨くんの表情が、凍った。
ほんの一瞬だ。
瞬きの間に、元の無表情に戻る。
だが、確かに見えた。
何かが、刺さった顔。
「……ああ、惜しい人を亡くした。二度と出ない天才だ」
声は平坦だった。
でも、さっきまでの熱が嘘のように消えている。
──触れてはいけないところに触れてしまったのだろうか。
「墨くんも、ああいう特注の刀、欲しいの?」
話題を変えようとした。だが、変えきれなかった。
「鬼狩りなら、当然だろ」
短い答え。
当然。
鬼を殺すための刀が、欲しい。
鬼狩りとして。
鬼狩り。
「私は……」
言葉が、途中で止まった。
鬼を、斬れない。
身を守る術は学んだ。修練も重ねた。
対鬼適性値は高い。デバイスの操作も得意だ。
でも、いざ刀を振る段になると、手が止まる。
生き物を斬ること。
命を断つこと。
たとえそれが鬼であっても。
渡辺家が私を見限った理由。
血だけではない。
才能はある。だが、刃を向けられない。
鬼狩りとして、致命的な欠陥。
「……行こっか」
笑顔を作った。
含みを残して、歩き出す。
墨くんは何も聞かなかった。
追及しない。
踏み込まない。
それが、少しだけありがたかった。
✳︎✳︎✳︎
「夕飯の買い物、してもいい?」
「……構わない」
商店街にある小さなスーパーを回る。
夕飯と、明日のお弁当の食材。
キャベツ、人参、豚肉の薄切り。卵は特売だった。
墨くんは黙って後ろをついてくる。
気づくと、荷物を持ってくれていた。
何も言わずに、私の手からビニール袋を取っていた。
「あ、ありがとう」
「重いだろ」
それだけ。
感情のない声。でも、ちゃんと手が動いている。
少しだけ、嬉しかった。
「墨くんは何食べるの?」
「……何でもいい」
「何でもいいはダメ。さっきからお酒のコーナーばっかり見てたでしょう」
墨くんの目が、一瞬だけ泳いだ。
「……見てない」
「見てた」
嘘が下手だ。
さっきも酒屋さんの前で、足を止めていた。
高校生なのに。
もしかして、本当にお酒を飲んでいるのだろうか……、不良なのだろうか。
「塩辛いもの。……つまみ系が好きだ」
「ダメだよ、そんなの。ちゃんとご飯食べなきゃ」
自分でも意外なほど、強い口調だった。
他人の食生活にまで口を出す自分に驚く。
──でも、放っておけない。
この人は放っておいたら、ずっと適当なものを食べてそうだったから。
「送ってもらってるし、私がお弁当だけでも作るよ」
「いい。そこまでしなくて──」
「いいの。……決めたから」
断る暇を与えなかった。
墨くんは困ったように眉を顰め、黙って荷物を持ち直した。
✳︎✳︎✳︎
最後に寄ったのは、行きつけの八百屋だ。
店先に並ぶ野菜は新鮮で、値段も手頃。
おじちゃん──店主のおじさんは、気前がよくて、いつもおまけしてくれる。
一人暮らしの私にとっては、ありがたい存在だった。
「あっ、双花ちゃん! 今日も来てくれたんだねぇ」
店主が顔を綻ばせる。
五十代半ば。小太りで、日に焼けた肌。
いつも笑っている顔。
でも、その笑顔が向けられているのは──私だけだ。
墨くんの存在に、まるで気づいていない。
「今日はほうれん草が安いよ。双花ちゃんには特別に、もう一束つけちゃう」
「ありがとうございます」
笑顔を返す。
いつもの会話。いつもの距離感。
……のはずだった。
「あの、これとこれをください。あと、墨くん、何か──」
私が墨くんに振り向いた瞬間、店主の目が動いた。
初めて、墨くんの存在を認識したらしい。
笑顔が、消えた。
代わりに浮かんだのは、驚きでも戸惑いでもない。
値踏みするような、ねっとりとした目。
それから、私と墨くんの間を行ったり来たりする視線。
嫉妬。苛立ち。そして──もっと粘つくもの。
空気が、変わった。
「双花ちゃん、この子は?」
声のトーンが低い。
さっきまでの気前のいいおじちゃんとは、別人だ。
「あ、同じクラスの……友達です」
「ふぅん」
店主は墨くんを一瞥し、口元を歪めた。
笑っているつもりなのだろう。だが、目が笑っていない。
「双花ちゃんは優しいからねぇ。誰にでもそうやって、面倒見ちゃうんだろ?」
声に含まれた何かが、皮膚の下を這うように気持ち悪かった。
急いでお金を渡すと、ゴツゴツの手で、ぎゅっと手を握られた。
「……ほうれん草、ありがとうございました」
私は怖くなって、早足で離れた。
墨くんが、黙ってついてくる。
商店街を抜け、住宅街に入ったところで、ようやく息が楽になった。
「……ごめん、なんか変な雰囲気になっちゃって」
「……」
墨くんは何も言わなかった。
ただ、一度だけ振り返って、商店街の方を見た。
その目が、いつもより──少しだけ、暗かった。
✳︎✳︎✳︎
アパートに着いた。
築三十年、二階建て。
階段を上がった角の部屋が、私の住処だ。
「ここまでで大丈夫だよ。ありがとう、墨くん」
荷物を受け取る。
指が、ほんの一瞬触れた。
冷たい指だった。
「……明日、弁当作るから」
「いい、って言っただろ」
「いいの。決めたから」
同じやり取り。
墨くんは、小さく息を吐いた。
それは溜息というより、諦めに近い音だった。
「……勝手にしろ」
「勝手にする」
少しだけ笑えた。
今日初めての、本当の笑顔かもしれない。
「それじゃあ、また明日ね」
手を振る。
墨くんは不思議そうに私の手を見た。
「……」
すると、ぎこちなく軽く片手を上げ、階段を下りていく。
その仕草が、少しおかしくて、また少し笑ってしまう。
墨くんの姿が、見えなくなると、
扉を閉め、鍵を掛けた。
靴を脱ぎ、荷物をキッチンに置く。
一人きりの部屋。
いつもなら、この瞬間が一番つらい。
静寂が、音もなく襲ってくる。
誰もいない空間に、自分だけがいる。
必要とされていない時間。
存在が保証されない時間。
でも、今日は少しだけ違った。
冷たい指の感触が、まだ手のひらに残っている。
──また明日、ね。
その言葉が、自分のために出たものだと気づいて、少しだけ驚いた。
✳︎✳︎✳︎
その夜。
墨くんが帰ってから、どれくらい経っただろう。
夕飯を食べ、風呂に入り、布団に入った。
眠りに落ちかけたとき。
玄関のインターホンが鳴った。
時計を見る。
夜の十一時を過ぎている。
こんな時間に、誰だろう。
布団から出て、インターホンの画面を覗く。
──八百屋の、おじちゃん。
手に、ビニール袋を下げていた。
中に野菜が入っている。
「双花ちゃーん、おまけの分、渡し忘れちゃってさぁ。開けてくれる?」
声は、いつもの気前のいい調子。
笑顔。
でも──夜の十一時に、わざわざ。
それに、どうして家の場所、知ってるんだろ……。
胸の奥で、何かが軋む。
嫌な予感。
分かっている。分かっているのに。
「……はい、ちょっと待ってください」
手が、鍵に伸びた。
断れない。
断れば、嫌われる。
気まずくなる。
明日から、あの八百屋に行けなくなる。
私の日常が、崩れてしまう。
頭では分かっている。
開けてはいけない。
分かっているのに──。
鍵を、回した。




