第十話 玉藻墨は、嫌々、影から出る
「もう無理なんだけど! いい加減、影から出てきてくれる!?」
朝から、怒号が飛ぶ。
高尾山の麓、古びたアパートの一室。
玉藻前──今は、玉藻綺羅羅……だったか。
九百と数十年を生きた九尾の妖狐が、ボサボサの髪と尻尾、乱れた寝巻き姿で、影に向かって叫んでいた。
テーブルの上には、散らばった書類。
流し台には昨晩の皿が積まれ、脱ぎ散らかされた上着がソファの上で山を作っている。
窓の淵には、いつから干しているのか、もうわからない、多くの下着が吊るされていた。
だけど、……何故か、化粧品棚だけは綺麗に整えられている。
生活力がないわけではない。余裕がないのだ。
「……朝飯、作ったぞ」
影から声だけを出す。
テーブルの端に、味噌汁と焼き魚と白飯を並べた。
「そういう問題じゃないのよ!」
玉藻前は髪を掻き上げ、苛立たしげに座布団に座った。
箸を手に取り、味噌汁を一口啜る。
「……ふう、美味しい。いや違う、話を逸らすな」
美味しいなら、いいだろうに。
俺は壁際の影に沈んだまま、天井を見上げた。
正確には、天井の方角を見上げている。影の中から見る世界は、色が薄い。
光が遠く、音がくぐもる。
この十年、俺にとっては、ここが一番落ち着く場所だった。
「墨」
名前を呼ばれる。
「玉藻墨」。十年前、この女に貰った名前。
黒い色。水に溶ければ消え、紙に落とせば永遠に残る。
今のところ、溶けてばかりだ。
「あんたがずっと影に潜ってるから、私が一人暮らしの変な女みたいに見えるのよ」
「事実だろう」
「殺すわよ」
扇子が影の中に突き刺さる。
当たらない。影だから。
だが、その正確さは、さすがに九尾といったところか。
会った時から、尻尾は一本だけだが。
「冗談だ。……出る」
影から、ゆっくりと身体を引き上げる。
壁に寄りかかるようにして実体化すると、下着の隙間からさす朝の光が眩しかった。
玉藻前が、ちらりとこちらを見る。
「……相変わらず、白いわね。日光浴しなさいよ」
「……鬼に日光浴を勧めるな」
「吸血鬼じゃないんだから。それにあんた、もうほとんど人間みたいなものでしょう。角もないし」
角が消えたのは、十年前。
鬼としての誇りと一緒に、どこかへ落としてきた。
俺はテーブルの向かいに座り、自分の分の白飯に手をつけた。
インスタント味噌汁も、悪くない。
玉藻前は、焼き魚をほぐしながら、口を開いた。
「──状況が、まずくなってきたわ」
声から、軽さが消えていた。
✳︎✳︎✳︎
玉藻前は、扇子を閉じたまま、話し始めた。
「まず、教員としての立場。もう限界ね」
御剣局における玉藻前の存在意義は、年々削られている。
かつては妖術理論の第一人者として重宝された。
だが今は違う。彼女の術式は全てデータ化され、安倍家当主が開発したデバイス──『八握』のシステムに組み込まれた。
陰陽術も妖術も呪術も結界術も、端末一つで起動できる時代だ。
鬼狩り、御剣局の技術進化の躍進は止まらない。
生きた教科書は、もう必要ないのだ。
「人間側から、はっきり言われたわ。『玉藻先生のお力がなくても、ノウハウは完成しております』って」
丁寧な言葉で、死刑宣告。
御剣局のやり口だ。
「安倍家の所有物、っていう法的プロテクトがなかったら、とっくに殺生石に加工されてるわね、私」
冗談めかした口調だが、目が笑っていない。
首元で赤く明滅する枷が、低く唸る。
この首輪がある限り、玉藻前は監視されている。
逆らう事はできない。
いや、身体を九つに分断されたような物なのだ。
玉藻前を除き、残り八つは殺生石というエネルギー資源に変えられている。
彼女は、術を使うにも一日に、中級一回が限度だろう。
まさに、牙を抜かれた獣。
「次に、あの噂」
「殺生石を使った戦闘用獣人の開発?」
「知ってたの?」
「影にいると、いろいろ聞こえる」
玉藻前の眉が、僅かに歪んだ。
「……もし、それが完成したら。私の代わりが、量産されるってことよ」
九尾の力を殺生石に封じ、それを素体に埋め込む。
人造の妖。
玉藻前という「唯一性」が消えた瞬間、安倍家の庇護も消えるだろう。
三年前を思い出す。
俺は、鬼狩りの刀に惹かれ、ある男を観察していた。
国宝といわれた鍛治師、三条宗刻の末路が、脳裏を過る。
あの鍛冶師も「唯一」だった。
天岩戸システムの核。
大気中の瘴気を吸い取り、堕鬼化や妖の発生を防ぐ神器。
そのメンテナンスができる唯一の人間。
国宝。治外法権。
だが、技術のデジタル化が完了した瞬間。
——用済みになった。
彼の権限を無視しての強制捜査。
明らかになったのは、堕鬼になってしまった妻を隠していた鍛治師の姿。
堕鬼の処分。
目の前で妻を殺された、三条宗刻は、自身も壊れ堕ち”堕鬼”となる。
その場で、局の手で葬られた。
俺は、その全てを、彼の影の中から見ていた。
玉藻前も、いつ葬られてもおかしくはない。
それだけ、妖というのは、存在価値を疎かにされている。
「それだけじゃないわ」
玉藻前は味噌汁の椀を置いた。
「第六の実績が、このままだと」
「廃校か」
「ええ。学校が潰れたら、私の配属先がなくなる。教員の肩書きが消えれば、残るのは『安倍家の所有物』だけ。文字通り、置き物よ」
声に、棘が刺さっていた。
煮え返るような、泥のように粘ついた感情。
十年前に出会った夜、この女の笑顔の下に見えた、あの色と同じだ。
怒り。
いや、もっと深い何か。
俺は黙って飯を食った。
言葉で救えるものなど、この女と俺の間にはない。
「──そして、本題」
玉藻前の声が、一段低くなった。
「殺人事件よ」
箸が止まる。
「巷で話題になっている連続殺人。被害者は全員、成人男性。犯行手口が残忍で、堕鬼の仕業に見えるけれど、瘴気の残留が異常に薄い」
「堕鬼なら、もっと撒き散らすはずだ」
「そう。だから御剣局も判断しかねている。でもね、私は気づいたの」
玉藻前は、扇子を開いた。
口元を隠し、金色の瞳だけが覗く。
「被害者の全員が、うちの生徒に接触した男なのよ」
「……誰だ」
「渡辺双花」
渡辺、双花。
名前は知っている。玉藻前が受け持つクラスの生徒だ。
金髪にエメラルドの瞳。目立つ外見。対鬼適性値が異常に高いと噂される。
渡辺の分家の血を引くが、本家からは抹消扱い。
異国の血が混ざっている。鬼を斬れない、という理由で、第六に放り込まれた──そういう話を、影の中で聞いた。
「根拠は?」
「九百年の勘」
「……勘かよ」
「勘を舐めないで頂戴。それに、勘だけじゃないわ」
玉藻前は扇子の先で、テーブルの書類を弾いた。
「現場の魔力残滓を調べたの。微弱で、正確には違うのだけど、渡辺双花の魔力パターンと似てる反応が残ってた」
「それは、限りなく似ている別人という結果なのでは──」
「ガルルルルッ」
すごい剣幕で睨まれた。
食べカスが飛び散るのでやめて欲しい。
「……鬼も切れない女が、殺したのか?」
「さあ。それを確かめなさい」
扇子が、俺の鼻先を指す。
「もし、あの子が殺人をしてるとしたら——うちの生徒から殺人鬼なんて出したくないの。第六の評価がこれ以上、下がったら。廃校は確定! 私の居場所も消える!!」
「つまり、俺に——」
「調べて。あの子を観察して。そして、もしそうだったら」
玉藻前の目が、冷たく光った。
「あんたの力で隠しなさい。存在ごと、無かったことに」
──どこまでも冷酷だった。
九百年、人間の世界で生き延びてきた獣の、生存本能。
学校のためでも、生徒のためでもない。
自分が殺生石に加工されないための、自衛。
だが、俺はそれを責める気にはなれなかった。
影に潜んで、誰にも見つからず、何にもならず、ただ息をし続けることを選んだ俺に、この女を裁く資格はない。
「……面倒だな」
「面倒でも、やるのよ」
「無理ぃ」
「無理じゃない!」
「……目立ちたくない」
「知ってるわ。でもね墨、あんたが影にいるだけで何もしないなら、私はあんたを養ってる意味がないの」
正論だった。
ぐうの音も出ない。
「それに、あんたなら出来るでしょう?」
「……何を」
「うちのクラスの田中くんが今、入院中なの。あの子の席が空いてる。明日から、あの席に座りなさい」
「は?」
「教室にいなさい、って言ってるの。女の子のプライバシーを一日中、覗かせるわけにはいかないし! 影に潜んだままじゃ、渡辺双花の何もわからないでしょう」
俺は、額を押さえた。
教室にいろ。
人間のふりをして、席について、授業を受けろ。
影ではなく、そこに「いる」ものとして。
考えるだけで、胃が重くなる。
「無理だ」
「無理じゃない。見た目も人間と変わらない。角もない。鬼だと気づく人間は、この学校にはいないわ」
「そういう問題じゃ——」
「いい? 墨」
玉藻前が、テーブルに両手をついた。
金色の瞳が、真正面から俺を射抜く。
「私にはもう、あんたしかいないの」
声が、震えていた。
気づかれないように、すぐに引っ込めたが。
九百年の妖狐。
力を奪われ、術を搾り取られ、教科書に載せられ、挙句「もう必要ない」と言われた存在。
反逆の手はない。力もない。首輪が全てを監視している。
でも、俺だけは——この女の手の届く範囲にいる。
「……わかった」
溜息と一緒に、言葉が出た。
「やるよ。……調べるだけだ」
玉藻前は、ふっと力を抜いた。
いつもの軽薄な笑みが戻る。
「よろしい。期待してるわよ、墨」
「期待するな。疲れる」
「あら、冷たい。十年も一緒にいるのに」
「十年いるから、わかるんだ。あんたの期待は、大体ろくなことにならない」
扇子が頬を掠めた。
当たらないように加減されていた。
……たぶん。
✳︎✳︎✳︎
翌日。
俺は、初めて教室の席に座った。
玉藻前の影から見る世界とは、違う景色。
田中という生徒の席。窓際の一番奥。
影に潜むのではなく、実体として、そこにいる。
朝の光が眩しい。
生徒たちの声が、やけに近い。
椅子が硬い。背中が落ち着かない。
誰も、俺を見ない。
いや——見えていないのではない。
認識はしている。席に人がいることは分かっている。
だが、意識が滑る。名前が浮かばない。顔が記憶に残らない。
影の力を完全に解いていないせいだ。
存在を薄くしている。
けれど、消してはいない。
この加減が、一番難しい。
いっその事、影を纏って、完全に隠れたい。
そんなイライラを影に押し込んでいると、チャイムが鳴った。
授業が始まる。
玉藻前が教壇に立ち、扇子を開く。いつもの調子だ。
だが、俺の方を一瞬だけ見た。
——ちゃんと座ってるわね。
そう言いたげな目。
口元が愉快そうに笑っている。
俺はちょっと反抗したくなり、窓の外を見た。
✳︎✳︎✳︎
渡辺双花は、教室の中央あたりに座っている。
金色の髪。エメラルドの瞳。確かに目を引く外見だ。
周囲の人間が、自然と彼女の方を向く。存在感が、異常に濃い。
俺とは、真逆だ。
双花は、誰にでも笑顔を向けていた。
頼まれごとを断らない。雑用を引き受ける。頼りにされ、好かれている。
——理解できない。
断ればいいのに。
面倒を避ければいいのに。
なぜ、あえて自分を差し出す。
合理的じゃない。
だが、ふと気づく。
双花の笑顔が、ほんの僅かだけ——手遅れになる前のあの男に似ていた。
十年前、人間の村で見た、あの男。
身体を壊し、働けなくなり、無視され、「いないもの」にされた男。
それでも下手くそに笑い、頭を下げ、言葉を飲み込んでいた。
最後に、堕鬼になるまで。
渡辺双花の笑顔は、あの男ほど追い詰められてはいない。
だが、根が同じだ。
周囲に合わせ、自分を削り、必要とされることで存在を保っている。
それは——生存戦略だ。
俺が影に潜るのと、本質は変わらない。
昼休み。
双花の周りには、いつも人がいた。
女子のグループ。男子の視線。誰かが声をかけ、双花が笑う。
その輪の外で、俺は弁当も持たずに座っていた。
玉藻前の指示は、観察だ。
影の中からなら完璧にできる。だが、実体として教室にいると、情報の質が変わる。
「新たな発見だな」
音。匂い。空気の流れ。人間同士の距離感。
そして——匂い。
双花の手から、微かに血の匂いがする。
他の人間には感じ取れない濃度。
だが、鬼の嗅覚は誤魔化せない。
鉄と、もう一つ。
血の奥に、別の何かが混ざっている。
人間の体臭とも違う。
堕鬼の瘴気?
だが、そんなものに触れていたら、あんな綺麗な形を保っていられない。
「……何だ、これは」
考え込んでいると、痺れを切らした声が飛んできた。
職員室から、玉藻前が伝書式の小さな創作式神を飛ばしてきた。紙で折った狐が、俺の机の影に滑り込む。
『ぼーっと座ってないで、話しかけなさい。あの子のことは、外から見るだけじゃ分からないわよ』
話しかけろ。
俺が、人間に?
無理だ。
会話の主導権を握るなど、考えただけで胃が痛む。
自分から話題を振れない。意見を求められると、ワンテンポ遅れる。
それが俺の癖だ。
主張=責任。それを無意識で避けている。
「それは無理」
『はぁー、仕方ないわね。放課後、ここで待ってなさい。この私がお膳立てしてあげるから』
嫌な予感が、めちゃくちゃした。
✳︎✳︎✳︎
放課後。
教室に残り、窓の外を見ていた。
帰る生徒たちが、一人また一人と消えていく。
やがて静まり返り、心地いい静寂が訪れた。
「……疲れた」
心の声を漏らしていると、足音が近づいて来た。
「あの……墨くん?」
振り返ると、渡辺双花が立っていた。
夕日が、教室を橙色に染めている。
光の中に、金色の髪が透けた。
エメラルドの瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
存在感が、眩しい。
俺と真逆の生き物。
……そんな存在なのに、その手から、血の匂いがする。
薄く、微かに。
——この女の手は、何かがある。
とにかく、ここに渡辺双花が来たということは、そういう事だろう。
俺は玉藻前の思惑を汲み取る。
「……ああ、送れって言われてる。行くか」
声を出す。感情は、影に沈めたまま。
立ち上がり、鞄を持つ。
振り返らずに歩き出す。
足音が、後ろからついてくる。
小さくて、軽い足音。
存在感だけは、一人の人間にしては、やけに重く感じた。
「あ、うん。……よろしくね」
よろしくね、か。
俺の人生で、そんな言葉を向けられた回数は片手で足りる。
廊下を並んで歩く。
夕焼けが窓から差し込み、二つの影が床に伸びた。
この女が、殺人鬼。
いまだに信じ難い。
玉藻前は殺人鬼だった場合「隠せ」と言った。
殺して、存在ごと、無かったことにしろ、と。
だが、俺の中で、別の感情が動いていた。
三条宗刻の妻。
堕鬼化し、長い間、夫の影で匿われた鬼。
宗刻は救おうとした。
禁忌である”堕鬼を人間に戻す研究”までして。
足掻いて、足掻いて、だけど、妻は人には戻らなかった。
そして——用済みになった瞬間、二人とも消され、工房も何もかもを燃やした。
俺の影の中には、宗刻が遺した研究がある。
御剣局が「なかったこと」にした全てが。
もし、渡辺双花が、堕ちかけているのなら。
違う可能性を提示できるのでは……。
危険で、甘い思惑だ。
——考えるな。
まだ早い。
まずは、観察だ。
俺は感情を影に沈め、隣を歩く女の横顔を、盗み見た。
渡辺双花は、微笑んでいた。
誰に向けたものでもない、ただの——空白に近い笑顔。
嘘の笑顔ではない。
だが、本物でもない。
「必要とされること」に依存した、存在証明の形。
彼女にとって、『生きる』に必要な事なのだ。
——俺が影に潜るのと、何が違う。
何も違わない。
違わないから、少しだけ──
この女が、気になっていた。




