第一話 酒呑童子の息子
戦場に立っているのに、
俺は、吠えなかった。
喉の奥は熱く、血が騒いでいるのがわかる。
身体は前に出たがっている。
それでも足は動かなかった。
──ああ、これ。
理由は、まだ分からない。
ただ、胸の奥に引っかかっていた違和感が、腹に落ちたんだ。
***
前を歩く大男──親父は、巨大なひょうたんを片手で持ち上げ、豪快に煽った。
中の酒が零れ落ち、地面を濡らすのも気にしない。
その姿は、俺にとって見慣れた日常だ。
酒の甘い匂いが鼻を刺し、胃の奥がむかつく。
緊張していたのもあったのだろう。
ムカムカが広がり、苦しくなって、足元がわずかに揺れる。
それに気づいたのか、親父の大きな手が俺の頭を乱暴に撫でた。
「どうした、童子。びびってんのか?」
地響きのような、腹の底からの笑い声。
その一言に、後ろを歩いていた鬼たちまで、ゲラゲラと笑った。
顔が熱くなり、思わず視線を落とした。
だが、その熱のお陰で、胸に溜まっていた気持ちの悪いものが飛んでいく。
俺は、新たな酒を肩に担ぎ直した親父の背中を見る。
角を生やした、人の形。
それでも、その背中は誰よりも大きく、誰よりも強い。
「なあ、童子」
ふと、親父が俺を呼んだ。
「鬼はな、吠えて前に出りゃいい。余計なこと、考えんな」
振り返りもせずに言った。
「考えると遅くなる。強い鬼は死なねぇ、それだけ覚えておけ」
俺は、何度も頷いた。
疑う理由なんてなかった。
──こんな鬼になりたい。
その時は、心からそう思ったんだ。
✳︎✳︎✳︎
現代日本の山奥。
人間が張った人払いの結界の内側は、剥き出しの殺意で満ちていた。
集まった百を超える鬼たちは、すでに昂っている。
怒号と殺気が絡み合い、空気は粘つくように重い。
対する人間は、──たったの五人。
少ない。
少なすぎる。
人如きに、舐められていると思った。
怒りが湧き、喉の奥が熱を持つ。
視界に人間を捉えた瞬間から、思考が置き去りになる。
──壊したい、裂きたい、殺したい。
そんな衝動が、全身を駆け巡る。
人間は、鬼の巨大と比べれば、あまりに細く脆そうだった。
だが、腰に佩た刀だけが、異様に目を引く。
刃がわずかに動くたび、身体がざわつくのだ。
何故か、寒気がした。
腹の底から、不気味な嫌な予感が湧いてくる。
何か得体の知れない気持ち悪さが、まとわりつく。
「……あれが源頼光の子孫」
ビビっているんだろうか。
俺は人間から視線を外せないまま、脚が動かなくなる。
「俺は親父の息子だろ!」
脚に喝を入れ、岩のように重く感じる身体を無視して、親父の背中を追った。
待ち構えていた歴戦の鬼たちに、威勢よく声をかけながら、親父は悠々と前へ進んでいく。
鬼の群衆に紛れても、親父の姿はよく目立っていた。
鬼たちは、赤、青、黄、緑と肌の色がバラバラだ。
まだ生まれて12年目の俺でもわかる。
色の違いで、考え方も、戦い方も、まるで違う。
そんな纏りのない鬼たちが、素直に従っている。
角を生やした”人間の姿”をした親父にだ。
俺はそれが、誇らしく、かっこいいと思った。
これが、強さなのだと憧れた。
そんな親父を見て、身体が嘘のように軽くなる。
「……今日は、親父の本気を見れるかな」
「はははっ、童子ぃ! お頭の息子なら、お前も鬼を見せるんだぞ!!」
独り言にかぶせるように、また強引に頭を撫でられる。
振り向くと、赤く大きくたるんだ腹が目の前に現れた。
同じ里の赤鬼のおっちゃんが、笑っている。
俺は思わず吠えた。
「当たり前だ! 俺は親父の息子なんだから!!」
「威勢だけはいいなぁ。なら、餓鬼を卒業して、その角以外も一皮剥けねぇとな」
遠慮のない言葉。
俺は、角以外が人と同じ姿であることが、たまらなく恥ずかしくなった。
「それを言ったら、親父も人の形じゃないか」
「そりゃあ、お頭は特別だ。化けの皮を被らなかったら、里が壊れちまうってもんよぉ」
赤鬼は誇らしそうに笑い腹が揺れる。
みんなが、親父の力を認めていた。
誰も人間に負けると疑っていない。
たとえ、それが『源頼光』の血だろうと。
俺は、鬼たちの脚の隙間から、戦場を見る。
──いまから、『一世一代の戦い』が始まんだ。
鬼たちは、血を滾らせながら吠える。
俺は、カラカラの喉に無理矢理、唾を流し込むことしかできなかった。
✳︎✳︎✳︎
親父は、先頭に立つ一人の人間の前で、足を止めた。
年齢不詳、男女の区別もつかない顔。
その三歩離れた場所に左右、男が二人ずつ。
さらに後ろには、男と女が静かに構えている。
「あなたが、今代の酒呑童子ですね」
先頭の男は、低く落ち着いた声だった。
「ほう。よく分かるな」
「分かります。同じ目を見てきましたから」
親父がひょうたんを肩に担ぎ、歯を見せて大きく笑う。
「まるで、先代たちを見てきたみてぇな口ぶりだな」
酒を飲み干した瞬間、ひょうたんが赤い炎に包まれ、灰と化す。
その地獄の赤に照らされても、男はみじろき一つしない。
「人間の癖に、ずいぶん落ち着いてやがる」
「どの鬼も、相変わらず変わらない」
男は刀の柄にそっと触れる。
「これは争いではありません。『頼光の名を注ぐ者』として選別をするだけです。鬼を滅ぼすかどうかの」
空気が裂けるような殺意。
その小さな身体から放たれているとは、信じがたいほどだった。
俺は、思わず腰が抜ける。
親父は、心底楽しそうに笑った。
「ははっ。ずいぶん急ぐじゃねえか」
「強い鬼は、長く生かす理由がありませんので」
「なら──殺るか」
次の瞬間。
親父の身体が軋み、膨れ上がる。
骨が鳴り、肉が盛り上がり、
大男の姿は、赤黒い大鬼へと変貌する。
空気が、鉛のように重くなった。
現代最強の鬼。
──『酒呑童子』の真の姿だ。
それを皮切りに、鬼たちは一斉に吼え、前に出た。
考えるよりも先に、身体が動く。
それが鬼の戦い方だ。
酒呑童子は、大きく腕を振り下ろす。
破壊という赤の力を纏った一撃が、男を潰した。
地面は抉れ、地響きを伴った音が一拍遅れて爆ぜる。
その一撃だけで、山が消し飛ぶ。
そんな馬鹿げた力。
──勝った。
その衝撃は、不安を一瞬にして晴らした。
「やっぱり、親父は最強だ」
俺は迫り来る砂煙から、目を庇いながら、口角があがる。
前に出た鬼、衝撃に吹き飛ばされる鬼も、祭りのように大きく笑っていた。
鬼たちの歓声が、最高潮に達する。
だが、終わらなかった。
砂煙の向こうから、人影が、ゆっくりと歩いてくる。
「……立っている?」
声にならない掠れた声が、自分の口から漏れ出た。
親父の一撃を、受けたはずの人間が。
背筋に、冷たいものが走る。
鬼たちの喚声は、鳴りを潜め、痛いほど静かだ。
吼えろ。
前に出ろ。
頭の中で、親父の声がする。
なのに──
俺の喉から、声は出なかった。




