表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/70

9頁

「うっうっうっ……」

 散々弄ばれたわたしはゼイゼイと息継ぎをして、はだけた胸元と乱れた髪を整えます。首のヌルヌルとした唾液と制服の乱れも気になるのですけど、とりあえず見えるところから。

 彼女は額に汗を浮かばせながら(でもどこかすっきりとした顔で)ふうと息を吐き、白い歯を見せました。微笑みです。反省など微塵も感じさせない微笑みです。

「ホテルってそういう意味だったのね。なーんだ、てっきり違う方かと思っちゃった」

「うーっ」

 きっと睨むのですけど、彼女はわたしの目線を心地よさそうにしています。

「そんで、夜這いも添い寝のこと……と。まー、これは万死に値するとか個人的に思うんだけどさあ」

「何を、想像、してたんですか……っ!」

「いひひひひ、今度じっくり教えてあげよーか?」

「…………っ!」

 彼女の目に少しぞっとしました。悪寒です。寒気です。

 わたしは朝から何をやっているのだろうと頭を切り替えて、服を正し、道を歩き始めました。東さんが後ろから追いかけてくるのですけど、無視します。

「置いてかないでよー! ねえ、おーい? 聞いてますかー? あーん、ごめんよう!」

「…………」

 ええ、無視です。

「ねえ、待ってってば」

「…………」

 前に回り込まれました。すっと横にずれて通り過ぎました……が、左手を掴まれてしまいました。蒸れた手がわたしの乾いた肌に重なって、熱がじわりじわりと伝播するのが分かります。彼女はわたしの手を頬に持っていくと、悪びれた様子でわたしを見つめました。

「…………ほんとごめん。すぐ早とちりしちゃうのが私の悪い癖なんだよ。ねえ、許して。君に嫌われたら……生きていけない。君に捨てられたら私は私じゃなくなっちゃう」

「お、大げさです」

「大げさだよ。大げさなほど君と一緒にいたい」

「わ、わかりました。もういいです」

「……ありがとう!」

 しっぽを振る子犬のようにつぶらな瞳は見開かれ、顔は光に充ち満ちていきました。彼女はわたしの手を握ったままピョンと飛び跳ね、さあ行こうと胸を張って前へと歩き出します。

 どうでもいいのですけど、指を絡めるのはなんかその……やめてほしいのですけど。

「覚えてる? 初めてあった時のこと」

「僕は……」

「そう……だよね。覚えてないよね。あの日はさ、こんな爽やかな朝じゃなかった。進学したばかりの人間がこの道を歩いていて、私も君もその中の一人だった。みんな新しい生活にドキドキしてて、ワクワクしてて、いろんなことを期待してた。そんな緊張した朝だったよ。

 私、学校なんてホントは行きたくなかったんだ。知らない人が怖くて不安だったの。でも家の関係とかのせいでいっとかなくちゃいけなくて…………あ、今、意外って顔した。私だって、そーゆーのあるよ? ああ、それでね、君が私のハンカチを拾ってくれたのが最初の出会いなんだよ? 私ってさ、ほらなんつーか男勝りって感じじゃん? オッサンとかデカ女ってみんなもいうし。だからさ、ピンクのファンシーなハンカチ落としましたーなんて言えなくて、君が持ってるそれを私のデス! って言えなくて悩んでたんだ。そしたら、そしたらね、君が私のところまできて、ハイって渡してくれたんだ。誰かに聞いたりせず、騒ぎ立てたりせず、当たり前のように。クラスの雑踏の中で君と私だけが音で、動いてる何かのように思えた。それでね、何でって聞いたのかな、あたし。えっとね、そしたら君はこういったんだよ」

 ――何で私のだって?

 ――……君って感じがしましたから。

「それが何よりも嬉しくて、すっごく恥ずかしくて、私はその時から君と一緒にいたいって思ったんだ。一緒に話したいって思ったんだ。君の無表情のその心の奥にはどんな気持ちがあって、どんなことを思ってるんだろうって知りたくなったんだよ」

「そそそ、そうですか」

 力強く握られる手は汗ばみ、彼女の頬は火照る。わたしも何故か気恥ずかしくて、何だか告白を……あるいは口説かれているような気持ちなって額に汗が乗るのです。初夏のそよ風では今の熱すぎる空気には足りません。

 何とか平常を保つのですけれど上手くできているでしょうか? 若干、呂律が回っていないような気がしたのですけど。そういう場面になると決まってからかうはずの彼女がじっと押し黙っているので大丈夫でしょう。ああ、手汗が酷い。わたしの手汗……なのでしょうか?

「あ、熱いね。今日は」

「そ、そうですね」


 その日は妙な一日でした。どこへいっても彼女がついて回るのです。子犬のようにわたしの周りをクルクルと囲い、どこかに行く度に「どこへ行くの?」と訪ねるのです。購買といえば購買までついて行くといい、職員室まで行くといえば、手伝うといってプリントを持ってくれます。親切は嬉しいですし、助かるのですけれど、みんなに見られているのが少し、いやかなり恥ずかしいです。そしてその度に神足さんが不機嫌そうな顔でわたしを睨むのですけれど、わたしは別に悪くないと思うのです。自分でできますと答えても、彼女はわたしの話しなのど一語たりとも聞いておらず、一人で行くといっても「早く行こうよ」と手を引くのです。お弁当を片手にそっと出ようものなら、先回りして微笑んでいるのですから、もう始末に負えません。


「へえ、それでまた神足って子にぶたれたんだ」

 よしよしと姉様はわたしのへそのあたりを撫でました。わたしはくすぐったいのを我慢して、身を固まらせます。体を揺らしたところで姉様は「あ、ごめん」と気だるそうに微笑まれました。

「触られるの、好きじゃないもんね」

「…………」

「んーとさ、話しを戻すけどね、君、凄く嬉しそうだよ。あんまり苦になってないって顔してる」

「そうですか?」

「そうですよ?」

 フフッと姉様は笑われました。体をベットに倒して筋を伸ばされました。

「ちょっとだけ、ちょっとだけなんだけど、悔しいな」

「何故ですか?」

「何故だと思う?」

「……分かりません」

「だからだよ」

「えっ?」

 姉様は身軽な動きでふわりと体を起こすと、一度も振り返らずいいました。

「もう、遅いから寝るね。お休み」

「お休みなさい」

 扉は固く閉じられました。


 わたしの言葉に一瞬ばかり目を丸くさせた後に嬉しそうに彼女は微笑みました。

「ふーんへーえほーお、悔しいっていったんだあの人。それはそれは、ひひひひ」

「どういうことなんでしょう。東さんは分かりますか?」

 ピアノの鍵盤をひとつ、ポロンと人差し指で押して、彼女は言います。

「分かるよ、分かるけど…………教えてあっげなーい」

「むっ……」

 最上階の音楽室、誰もいない教室で彼女はいたずらっぽく笑いました。お昼が終わったばかりで室内には私たち以外誰もいません。いつも傍について離れないはずの神足さんも。

「そういえばさ、私が初めて君に声をかけれたのもこの部屋だったっけねえ」

「そうなんですか」

「うん、君に話しかけたくても上手く言葉に出せなくて、ずっと君に話しかけれなくて。とにかく緊張しちゃってさ……。同じ部屋にいたのに私ずうーっと窓の外眺めててさ。そしたら君、このピアノで“猫ふんじゃった”を引いてくれてね。私がぼうっとそれ見てたら、君がどうしてそんなに辛そうな顔してるんですか? っていってくれて、それで初めて君に声かけれたんだよ」

 ――なんで猫ふんじゃった、なの?

 ――僕、これしか引けないのです。

「なんだか、その……」

 わたしは俯いてしまい、言葉は口から出ません。恥ずかしくて出ません、見れません。そんなわたしをあっけらかんとした顔で笑い、彼女は口を開きます。

「うん、すっごくロマンチックだったよ! うひひ」

「……で、ですね」

「ねえ」

「はい」

「あっあっあっ、あのあし、あのさ、明日さ」

「はい」

「明日の土曜日、うちに来ない?」

「はい……えっ?」

「決まり! 決まりだよ!? 待ったはなーしっ! なしだからね!」

「えっ!? あの、ちょっと……」

「聞こえない、きーこーえーなーいー! うひひひひひうほほほほ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ