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 雨に打たれる捨て犬のようにトボトボと階段を降りてリビングに向かいます。父様は既にテーブルに座っておられました。わたしはテーブルから少し離れたソファに腰を下ろし、アルバムに手を掛けました。

「あ、おはよう」

「おはようございます」

 父様は眠そうに欠伸をされています。少し肥満気味なお腹が青いパジャマの中で膨らみました。わたしの視線に気がつかれたようで、彼は大きなお腹を摩り、にこやかに笑いました。

「今日も可愛いね」

「あ、ありがとうございます」

「足もスベスベしてて」

「えっ……」

「うなじと首のラインが綺麗で吸いつきたくなるよ」

「えっと、その、ありがとうございます……?」

「はは、お尻触らせてもらってもいいかな?」

「…………」

「足の指もナメナメしたいな」

「あ……えっと」

 明朗(めいろう)、爽やかにそう言われたのですけど、わたしはそこで固まってしまいました。父様の口からは常会話のようにそういった言葉が紡ぎだされたのですけど、わたし基準で言えば多分それはセクシャルなハラスメントになるのでは……などとおこがましくも思うのです。東さんに同じようなことされた時はわたし、どうしていたのでしょうか。確か、嫌だといってもどうせ触られるのだと耳に蓋をして無言を通していたような気がします。

「お父さん、変なこというのはやめなよ。固まっちゃってる」

「ははは、前だったら直ぐに対応してくれたんだけどね。やっぱり結構重いみたいだね」

 姉様がいつの間にかわたしの横に立っていて、頭をぽんと撫でました。父様はどこか役者のような笑みで肩を竦めます。どうやらわたしは試されていたようです。どこまで記憶障害があるのか、といった感じに。母様は相変わらず我関せずといった感じです。

「……あの、何度も聞くようですけど、僕は一体どうして記憶を失ったのですか?」

 母様が焼きあがったウィンナーをお皿に移しながら言いました。

「結果は不定だ」

「不定だ、なんていわれても、それだけじゃ納得できないでしょ? もっと優しくこれまでの過程を話してあげないと駄目ですよ」

 父様がそう言います。姉様は気だるそうにイスに腰を下ろし、目で「朝食を食べなさい」と言いました。わたしは開いたばかりのアルバムをパタンと閉じて、立ち上がります。

 少しだけ姉様が怖い気がするのは気のせいでしょうか。もしそうならわたしのせいで自業自得なのでしょうけど。

「ある日、君は家のベットで痙攣しててね。君のお姉ちゃんが発見して病院に連絡、それから僕らのいる大学病院まで運ばれて検査、のちに手術。切っ掛けとしての因子は君の脳みその血管が破裂したってことなんだけど、まあこれはいいか。その後、障害が残ることもなく君は無事だったわけだけど、それ以外のものが……つまりね、そう、記憶がなくなっていたんだ。ああ、そのまま食べていていいよ? えっとそれでね、普通そういう場合の記憶障害ってのは全てが消えるんだ。この意味、分かるかな。歩くという意味も食事を食べるということの意味も、この……ウィンナー、うん、美味しいね。これの味も含めて全部失われるはずなんだ」

「僕は違うのですか?」

 ここまで深く話しを聞くのは初めてです。

 フォークに刺した食べかけのウィンナーを口に放り込み、父様は首肯します。

「うん、全然違う。君はウィンナーが何かということをちゃんと認識してるしデータとして持っている。ありがたいことに一般的な記憶喪失者と違って糞尿を垂らすこともないし、食事の意味や言葉をいちから教えなくても君は分かっていた。しかし一方で人間に関する記憶、それに準ずる記憶というものが一切消滅してしまっている。これは非常に興味深い症例なんだ。僕と彼女はそれが脳生理学的なものなのか心理学的なものなのかを日夜、研究し、議論してる。どちらよりなのか、でこれからの脳や心に対する見解は大きく変化するだろうね」

「そう、ですか」

 はっきりとお前は研究材料として生かしてやっているのだといわれたような気がしました。

 少しばかりスローペースになったわたしの食事速度に敏感に気づかれた母様が父様の頭をパシリと叩きます。「いたっ」と頭を父様はさすりました。

「……あっ! い、いや、もちろんひとりの人間として君のことは心配だと思っているし、記憶が戻るなら嬉しいさ。そうじゃなくても、僕は一向に構わない。こ、これから思い出を作って行けばいい」

「いえ、いいんです」

 空になったお皿を台所に運びます。母様が小さく「偉いぞ」と仰いました。

「ああ、その悲しげな表情も凄く可愛らしいなあ……ウフフ」

「…………」

 どうやら先程の発言は試されていた、というわけではなかったようです。

 わたしは思い出したように「ごちそうさまでした」といってリビングを出ました。


 昨日よりも早い時間帯。浅い眠りに包まれた町並みをわたしの靴がコツコツと音を奏でます。

 不意にテンポを狂わす別の靴音。

「おはよー」

「……おはようございます」

 後ろから駆けてきた東さんが横に並びました。

「朝寒いねー。昨日薄着で寝てたら寒くて寒くて……うわーって感じ」

「そうですか」

「そうですか、じゃないって! その反応ありえねー! もうあれだよ、超友好的な宇宙人くらいありえない存在だよ」

「仲良きことは美しきかな、とも言います」

「あー、もうそうじゃないんだよ。なんつかさ、わたし結構必死なわけですよ。今日もこうやって必死な感じ。分かるかなって……分かるわけないか」

「この時間帯なら遅刻はありえません」

「別に遅刻を心配してるわけじゃないって。なんていうかさ、昨日は完敗って感じなわけなのさ。距離は遠いし、相手は強いし……って感じ?」

 妙にテンションが高く、饒舌な東さん。今日は一体どうしたのでしょう? 普段以上に明るい気がします。眠りこけているこの町も起きそうなくらいの明るさといった感じでしょうか。

「わたしにゃ、あの人にはない武器があるのさ。この美貌とかこのカモシカのような美脚のことじゃないわよ? そりゃ、ちょっとは自信あるけど、でもここでは意味ないのよ!」

 ぐっと拳を振り上げ彼女はそう謳いますけれど、わたしはどうすればいいのでしょう。経験上、そうですかで済ますと相手は怒ります。きっと正しい選択は沈黙、でしょう。

「……なんか言ってよお。綺麗だよとか可愛いよとか美人ですねとか足が綺麗ですねとか愛してますとか見目麗しゅうございますとか」

「風邪引いてます?」

「いうにことかいてそれかっ!」

 ポコンと頭を叩かれました。痛いです。

「あのね、私は学校では誰よりも君の側にいた人間なのだよ? 君のことをよく知っている人なわけ。君がどういう人間で、何を考えて、どんな食べ物が好きで、どの教科が嫌いだったかとか」

「…………東さんは僕のストーカーだったんですか?」

「アホかっ」

「……痛いです」

 同じところをまた叩かれました。

 ああ、そうです。今、叩かれたことで姉様にいうように言われていたことを思い出しました。

「あの」

「ん? なにさ」

「昨日姉様とホテルに行きました」

「……………………楽しかった?」

「わりと」

「…………ほー、一緒に寝てたんですか。それは仲がいいですねぇ」

「いえ、ベットは使いませんでした。床で一緒に」

「ほほう、それで?」

 急に静かになった東さんはニコニコと微笑みながらわたしを見ています。わたしは何か面白いことをいっているのでしょうか? 人を楽しませる、という経験はあまりないのでちょっと嬉しいかもしれません。

「家に帰ったあと姉様が夜這いをしに僕の部屋に来ました」

「…………また寝たわけ。それは随分、疲れたでしょーね」

「あ、はい。あまり寝れませんでした。ちょっと体が痛いです」

「ふうん」

 ピタリと急に東さんが止まりました。わたしはどういうことだろうと振り向き、その場で止まります。

 下を俯いている彼女の表情は陰っていてうまく見えません。

「お腹痛いんですか?」

「…………」

「大丈夫ですか?」

 ちょいちょいと手がわたしを招きます。わたしがそっと近づくと彼女は後ろに周り……ぎゃああああ!

「このわがままボディをたっぷり可愛がってもらったんだねえ!! こんな感じ? ねえ、こんな普通に君はよがり狂ってたわけ? ここかな、それともここ? んんんん? どうじゃああ!」

 ぎらりと光る彼女の顔がわたしを舐めまわし、体を……。ざらざらしてる! 首が、いやその前に服の中に手が、いえ胸をまさぐっ……ああっやめ、ああっ!!!!

「ーーーーっ!?」

「これか!? これがええのんかああああ!? このこのこの! こいつめえ!」

 誰か助けて。

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