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小鳥のさえずりに浅い眠りから目が覚めて、わたしは意識を覚醒させました。
白い天井、高い天井、わたしに少しばかり絡むようにして眠っている姉様。カーテンから浅く漏れる弱々しい光。すべてがすべて新鮮なそれ。どこかで見たことがあるような違和感と既視感の混ざり合う、なんとも表現しがたい感覚にわたしは目眩を起こしそうになりました。
壁掛けのシンプルな時計はまだ起きるには早い時間をわたしに教えてくれています。
姉様を起こさないようにそっと体を起します。温もりは肌から薄く剥がれ落ち、朝の冷たい空気にぞわりと侵食されました。初夏なのですけど、まだ朝や夜は少し寒いのです。
わたしは部屋を出て、トイレで用を足すと、足音を立てないようにゆっくりとリビングへ向かいました。ガラスの嵌め込まれたドアを開きます。
「おはよう」
そう呟いたのは母様でした。細身の体をソファにどっぷりと浸からせて、早朝のテレビに目を向けています。母様は冷淡とした顔立ちの方で、酷く表情に感情というものがありません。失礼かもしれませんが人というよりも機械といった方が相応しい、そんなお方です。恐らく、今ここに隕石が降ってきて、それがわたしの脳髄を砕いたとしても母様はきっと驚かないでしょう。
普通ならば付き合い難いと思われるかもしれませんが、でもだからこそ、わたしには付き合い易い方です。それは何をしても当然の事象だと受け取ってくれるから。わたしはもう既に前のわたしとは違う生き物だと分かってくれているから。彼女にとってわたしは前の記憶をうちに秘めたデータボックスでしかないのです。もしくは研究材料、といったところでしょうか。
「おはようございます」
「酷く感情の欠落した表情だ。いや、これは私が言えたことではないな」
「……前の僕は違ったのですか?」
「前の君も大きく違いはない。君は生まれつき感情を表に出すということが苦手な性質をもっている。もっと厳密にいうなら自閉症という表現が適切だろう。君は十代の青年が一般的にすることよりも庭でアリの行列を見ている方が好きな人間だった」
それは凄く素敵だと思うのですけど、世間様は違うのでしょうか。
「そうですか」
「これも混ざりモノの結果かな。いや、これはこちらの話しだ。……しかし、いくら過去を追ったところで君にその意味はないように思えるが、どうしてそんなに自分を知りたがる? いや、過去を知ることで自分のアイデンティティを確立させようとしているということは分かるのだが、君らしい君の思う答えが聞きたい」
ガラスの小さなテーブルに置かれたカップを(匂いから鑑みるにコーヒーでしょう)口に運び、コクコクと飲まれています。
「僕はどこにいっても孤独です、だから……」
「孤独だから“他人の記憶”で孤独を埋めようとしているか。それは自分が傷つく行為だよ。その記憶は君のものではないのだから。その記憶を頼りに動いても、その記憶らしく振舞っても体には、心には違和感が付きまとう。少しでもそれらしくないことをしてしまえば酷く君は傷つくことになる」
「そう……です」
「一度割れてしまった花瓶はもう元には戻らない。どんなに戻そうとしても、それはひび割れた別物で、どんなに同じようなものを作ったとしても、それは似たような何かでしかない。はっきりいえばいい。自分がここにいていい証拠が欲しいのだと、前の自分に向けられた優しさではなく今の自分に送られる優しさが欲しいと」
酷く機械的な声色と表情で彼女はそう答えました。わたしのことは一度も見ないで、ただ独り言のように。もしかしてわたしはここにいなくて、わたしは幽霊のように透けているのではないだろうかと不安になるような態度で。
「記憶のない君は酷く自分が不確かだ。自分の存在を証明する為の“何か”が欲しい。自分らしさが欲しい。今、そこに存在しているという確かな何かが……。しかしね、そんなもの、今から作るしかない。自分からどうにかして。それができないから苦しいのだろう」
「…………母様は僕が記憶を取り戻した方が嬉しいですか?」
「ああ、その方が嬉しいだろうね」
そう告げ、しかしと区切ります。
「しかしね、一度失ってしまったものを執拗に求めようとするほど私は貪欲ではない。もう私の息子は死んだ。私はそう思っている。“彼”は違うらしいがね」
悲しい一言です。でも少し嬉しかった。
わたしはわたしでいいのだと言われているようで、少しだけ。
「おいで」
母様はそこで初めてわたしを見ました。頬は小さく歪み、シニカルに笑っているように見えます。
細く白い手をわたしに伸ばしました。わたしはそれをおっかなびっくり掴みます。母様はわたしを引っ張り、胸元に寄せました。
「わっ」
「君はもう私の娘ではないのだが、君にとってはまだ私は母親なのだね。それを今、思い出した。思えば私は前の君にも、今の君にも母親らしいことなんて何一つしてやれていない。今それを果たそうと思う」
「……はい」
わたしもそっと母様を抱きしめ、甘く漂う匂いに体の力を抜きました。大きな温もりに体の緊張をほぐしました。
ただひたすらそれは……。
少しばかり母様の温もりに甘えていたわたしは、しなくては行けないことを思い出し、母様に訪ねました。
「あの、家族の写真はどこにありますか?」
「そんなもの見ても、今更意味はない……が、君が望むならきっと意味があるのだろう。確か家族の写真はあの子の部屋にあったと思う」
「ありがとうございます」
「ついでだ。起こしてやってくれ。彼や君と違って、あの子はなかなか起きないからね」
「はい」
わたしはリビングを後にし、自分の部屋に戻ります。そっと扉を潜り、床の上で微睡んでいる姉様を優しく揺すりました。
「あの、朝ですよ」
「んん……」
「朝です。起きて下さい」
「や……だあ」
布団を被り、顔を隠されてしまいました。わたしはカーテンを開いて朝日を部屋の中に取り込みます。
寝ぼけているならと、わたしは言い出しにくいことを進めておこうと切り出しました。
「あの、姉様の部屋にあるアルバムを見てもいいですか?」
「好きにして……」
「またあとで起しに来ます」
「はあい」
放っておけば何時までも眠りこけていそうな姉様を少し心配しつつ、部屋を出ました。
一応、姉様の部屋の扉をノックしてから入ります。ノブを捻り、扉を開くと自分の部屋とは違う生活臭が鼻を掠めました。目前に広がる姉様の部屋はモノトーン調の色合いで、とても洒落ているように思えます。窓際の四角いテーブルの上のノートブックの画面には鮮やかな金魚が黒い背景の上を泳いでいます。スクリーンセーバーという奴でしょう。しかし、姉様の部屋はわたしの監獄のような何もない部屋とは大違いです。
黒い本棚に視線を移し、私は分厚いアルバムを手にとって、床に重ねます。そしてフワフワの絨毯に正座し、一つ目を開こうとした瞬間、バンっと扉が開かれました。見上げた先にいたのは姉様でした。彼女はズンズンと室内に入り込み、ノートブックのパワーを強制的に落とすと、わたしが重ねたアルバムのいくつか手に取り、無言で本棚に戻しました。
あの、それまだ見てないのですけど……。
「何してるの?」
「あの、写真を……」
「そういうのは私がいる時にしてくれる?」
「……はい」
「人が寝ぼけてて、ワケが分かんない時に言質取るって酷いよ」
「あ、ご、ごめんなさい」
「分かったならいいけど、次からはやめてね」
「……はい」
「君の写真、大体それに収まってる。こっちのはプライベートな奴だから見ないで」
「はい、すみません」
「それ持っていっていいから出てってくれる?」
「…………はい」
酷く冷淡な顔で姉様はわたしを見つめました。わたしはフラフラと立ち上がり、失礼しましたとお辞儀して部屋を出ました。あの顔はまるでそう……母様のような。いや、それよりももっと。
少し、わたしは泣きました。




