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「人は過去を負う生き物だから、だから君もそろそろ過去を背負わなきゃ」
誰かに声を掛けられたような気がして目を開けると、そこは暗闇でした。手足の不自由さと、左右の窮屈さに何か箱状のものの中にわたしはいるのだと気がつきました。
手足をばたばたと動かすと、背中の壁がぱかりと開いたのを感じます。低い着地点に転がって、起き、わたしは今まで靴箱の中にいたのだということを知りました。靴箱の板が外されていたようです。
イリュージョンという楽しそうな文字が脳裏に浮かびます。肩をパキポキ鳴らして立ち上がり、わたしは何があったのだろうと記憶の手綱を引きながら、ゆっくりと歩き始めました。
ここはどこでしょう。見ての通り、東さんの家です。
廊下を進んで、東さんの部屋に入ります。少し大きめのテーブルの上に飲みかけの湯のみ。対面する壁際に、誰かが投げつけたような割れた湯のみ。
横のガラスは大きな穴が開いているのですが、ガラスの破片がありません。。何か、忘れているような気がします。
床の上に続く血の跡を追いながら、わたしは家の中を歩きます。
「東さん、どこですか?」
何故、わたしは東さんがいると知っているのでしょうか。彼女は行方不明で……はない? ではないです。
広間の戸が薄く開いていて、何かエンジン音が聞こえました。恐る恐る覗いてみると、チェインソーと呼ばれる黄色い物体が畳の上に転がっていました。
壁掛け時計を砕き、タンスを割って、壁を削り、畳を何度か突き刺し、その場にチェインソーは投げ捨てられたようです。横にはピストルが落ちていました。
どうしてだろうと考えます。どうやら奥へと続く狭い通路が原因のようでした。確かにここではチェインソーはちょっと邪魔でしょう。
ピストルとチェインソーの戦いがあったようです。
「あっ、あ、あ、あ、あ、あず、東さーん。どこですかあ? こ、神足さんもどこですかあ?」
白い煙を履き続ける機械を止めて、床とテーブルの上に溢れる血を踏み越えて、わたしは狭い通路を歩きました。途中、立派な仏壇がありました。変わったお面がいくつも飾られている仏壇が。日本刀が飾られてあっただろう仏壇が。
日本刀を使うには狭かったのでしょう、何度も突っかかったような、後がところどころにありました。血の跡は奥へと続いています。
台所で一悶着あったのか、背の高いテーブルが横に転がっていて、お皿やらコップやらが床にばら撒かれています。
台所の裏口を抜けると、血は蔵へと続いています。蔵の奥へと続いています。階段を降りた、明かり少ない奥へと。彼女が囚われていたはずの奥へと。
「うるさいうるさいうるさい! これは私の母が、あなたの家に送ったものだ。なら、あなたものじゃなくて私のものだ! 私の母の形見だ! なら私が使う」
「そうやって、何から何まで目に付く者を自分のルールで囲う。自分に得になるルールで! だから、お前はダメなんだよ。何が悪いか、気がつかない! 気がつけない!」
分厚い熱気にまみれた薄暗闇の中、ふたつのシルエットが口論をしていました。
片方は日本刀を持っていて、もう片方は針……? やけに長くて、やけに太い針を持っていて、壊れかけたお面のようなものを掛けているようです。
二人と息も絶え絶えで、血の匂いがしていて、殺気に満ちています。
「もう、やめましょう。二人とも、もうやめましょうよ。何も生みません。良いことなんてひとつもないんですよ」
自然と言葉が出ました。どちらがどちらなのか私は分かりませんが、この言葉はどちらがどちらであっても通じるものだと信じています。
黒い影がこちらに意識を向けたのを感じます。前を向いたままこちらを。
「興梠、そこにいたんだ。ああ、よかった。無事でよかった。すぐ、終わるから待っててくれ」
「興梠、何で、何でこのタイミングで出ちゃうかな。何で、最悪の場面に来ちゃうのかな。でもそれが興梠らしいのかもね」
「……殺し合いはもう、うんざりです。痛いことももううんざりです。友達が死ぬのも、死に関わるのも、もう心底嫌なんです。何か生みましたか? 何か良いことがありましたか? 痛みは何も救わない。何も残さない。何もいたわらない。死とおんなじです。辛いことだけを残していくんです。だから、そんな無意味なことやめましょう」
一歩、前へと進みました。張り裂けそうな殺意の近くへ。
すると、わたしを拒絶するような声が反響しました。
「あのあとさ、八瀬の奴、躊躇せずに拳銃を私に向かって撃ったんだ! 他の客がいるのにだぞ!? 信じられるか? この人が指示したんだってさ。おまけにさっき、この人に目を潰された。それだけじゃない! 私のママを殺した!」
「お前だって急にカナヅチで殴りかかってきただろ! 腹の中にまだ鉛玉が残ってるし、腕だってさっきお前に落とされた!」
「僕が二人の目になります。僕が二人の手を引きましょう。僕が二人のお世話をします。全て、全部捧げますから、もう止めましょう。病院に行きましょう」
「それもいいかもね。でもね、興梠、もうそういうところにあたし達はいないんだよ」
「そうだ、もう止まれないんだ、興梠。一度、始めたらもう止まれない」
二人は口をそろえて言いました。
この大嘘憑きを殺さなければいけない、と。この悪党を殺さなければいけない、と。
誤解と誤解が重ねあって、二人の心はらせん状に噛み合わなくて、全てのめぐりが悪いだけで、こんなにも憎しみあって。
「これで決めようか」
「そうですね、これでオシマイにしましょう」
私はもう止まれないのだろうと黙りました。もう二人は何かが起こらない限り止まれないのだろうと。止まらないのだろうと。
だから私は黙って、息を殺して、沈黙を友として、彼女たちの間にそっと立ちました。
結果、私は切りつけられるでしょう。結果、私は串刺しになるのでしょう。ですが、それでいいのです。首か胸か、あるいは両方か分かりませんし、想像すると酷く怖いですが、私が原因で、この先もこのようなことが続くのなら、これでいいのです。
私はもはや死を恐れません。彼女たちがそれによって救われるというのなら、私でそれを実践すればよいのです。彼女たちの信じていることが如何に無意味かと。
黒い影が前から迫ります。ともすれば後ろからも黒い影は迫っているのでしょう。
影が眼前に迫り、脳髄に迫り、せいやと針が、刀が振り下ろされました。
が。
「興梠だな」
「興梠だね」
「なん、で……こんな時だけ」
「守るって決めたからね」
「守りたいからね」
「家族だからね」
「家族だから」
わたしの前で、肩で凶器は止まり、わたしを飛び越えて、刃はもう一度膨らみました。笑い声を上げながら膨らんで、子供が遊ぶように笑って膨らんで。
膨らんで、片方から血が出て、片方は叫びました。
「なんで」
そう呟きます。彼女はわたしが前に立っていることも理解していました。相手もわたしがいるということを理解していることを理解しました。だから、わたしを退けるようにすれば良かったのです。
ただそれだけで届いたはずでした。なのに。
「……なんで」
なのに彼女は動きませんでした。微動だにもしませんでした。遅れたとは思えません。
何故、動かなかったのか。わたしはそう、彼女の叫ぶ声に、震える声に重ねて、震え、崩れ落ち、嗚咽しました。びりびりと身を引き裂くような、胸の痛みに苛まれながら。
何か、この小さな一瞬の中に、何かが芽生えてしまったのでしょうか。何か心地よさのようなものを感じてしまったのでしょうか。わたしのせいで。
わたしのせいで、相手を相手として見れなくなったというのでしょうか。
分かりません。彼女は動かなくなった家族に、殺そうと思った相手にどうしてと泣き叫びながら、涙をこぼしました。
わたしは立って、涙を拭って、冷酷に彼女に宣言しました。
「いきましょう」
「生きる? 私に生きろって? それとも病院に?」
「……両方です」
死はただその場に辛いものを残すだけで、何も良いものを生まないから。
嫌がる彼女を引っ張って私は日の当たる場所へと出ました。蔵の中ですが、地下よりもずっと明るいそこへ。
髪の長い彼女は髪の長い彼女を抱いて、震えるように言いました。血なのか、涙なのか分からないものを目から零しながら。
「家族だったんだ」
「ええ」
「血の繋がった家族だったんだ」
「……ええ」
「これが私の業か、罪か」
私はその言葉に何もいうことができませんでした。




