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家に上げてもらいました。神足さんのあの平屋ではなくて、東さんの家に。
甚平姿の彼女は麦茶を啜りながら、自室から庭を眺めました。
「ありゃりゃ、庭が酷いことになってる。大草原だよ、これじゃあ。庭師、呼ばないと」
「復讐……しに来たんですか?」
「え? 誰に?」
「僕の両親とか、僕とか、あの……神足さんとか」
ずっと前から神足さんと考えていました。姉様の“別のアテ”というのは誰を指すのだろうと。八瀬くんが選択肢になかったあの頃は、東さんがその役割なのだろうというのがわたし達の必然的な結論でした。
でもあれから……、東さんがいなくなったことを確認したあとから、わたしの両親は死ぬこともなく普通に暮らしています。
「やだなー、あたしは復讐なんてガラじゃないでしょ。っていうか何で君に復讐?」
「じゃあ」
むかしのようにふたりともなかよくなにごともなかったようにみんなわらって。
「あたしはね、罰を与えに来たんだよ。その為に八瀬を使って興梠を誘拐したんだし。八瀬ね、すげー君のお姉さんを慕ってたよ。命の恩人だって。あ、崩していいよ。正座だと足しびれるでしょ」
「あの」
「もういろいろ神足からも聞いたと思うけど、一応弁解しとくね。あの時、ここで君を襲ったのは、君をわたしの側に置こうって思ったのと、前の君が普通らしく生きたいって言ってたことが関係してるんだ。ほら、他の奴に強姦されたり狙われたりするよりも、ちょっと周りから不思議な目で見られる恋人関係の方がマシじゃない? ほら、あたしを盾にすれば、八瀬とか神足とかも、ブロックできたと思うし」
何で、神足さんを“神足”と呼ぶのでしょうか。彼女をあなたは“美雪”と呼んでいたはずです。優しい声で美雪と。友達を自慢するような笑みで美雪と。
なのに何故、今はそんなにも冷たく、切って捨てるように言うのでしょうか。
わたしは地に頭をつけて、畳を見つめて、息を呑みました。
「どうしたの? なんかのモノマネ? あたしも混ぜて混ぜて!」
「あの、彼女を、許して、あげて下さい」
「許す? だっからさあ、あたしは怒ってないんだって。興梠、考えてもごらんよ。わたしが仮に怒ってるとしようか、興梠のことをわーわー言うから仕方なく三日間も蔵の中に入ってやるってことになったら、一ヶ月以上も、それも食料も水もない無音で無光の世界に閉じ込められて、壁とか土とか口にして飢えを凌ぐようなことを強要されて、何度か狂いかけて、やっと助けだされたかと思ったら、家はボロボロで、自慢の庭もボロボロで、衣服も勝手に持ちだされてて、わたしは神足の手で行方不明扱いにされてて、神足が自分に成り代わろうとしていた。そんなことを許せると思う? 思わないでしょ?」
声は笑っているのに目はまったく笑いませんでした。憎しみと悪意に満ちていて、触れただけで、指を噛み千切られないような、そんな雰囲気でした。
許しはしないと、絶対に彼女を許さないと、その目は必要以上に語っているのです。
「おまけに人殺しだ。ほんと救えねえな、あいつ」
「ひとごろし……?」
「君の姉。彼女があたしを助けてくれるって約束した日、彼女は殺された。代わりにあたしを助けにきた八瀬からそう聞いたよ。どういう風の吹き回しか知らないけど、君の姉には本当に世話になったよ。うちのセキュリティってさ、意外と厳重でね。ほら、いろんなところで恨みかってるから……って君は覚えてないか」
姉様はセキュリティを十分だけ無効することができたそうです。その十分の間に、鍵を外し、食料を地下の小さな覗き穴から届けていたのだそうです。
そう彼女はわたしにも分り易い言葉で説明してくれました。
「まあ、外で何があったのか知らないし、君の姉がどう心変わりしたのか知らないけど、神足が君の姉を殺したってのは許せないな。恩もあるし」
「ちょ、ちょっと、あの、ちょっと待って下さい! 神足さんは姉様を殺してはいません! 姉様を殺したのは僕です、僕なんです!」
「興梠……」
「う、うま、上手く説明できませんけど、あの僕が、姉様を刺して、神足さんの為にっ!」
呂律が回らなくて、言葉はしどろもどろで、きっとわたしの表情は酷く常軌を逸していると思います。でも伝えなければ、伝わらない。黙ったままでは何も解決しないのです。
身振り手振りでなんとか、わたしの気持ちを伝えるのです。彼女は悪くないんですと。
東さんは目を細めると、わたしを優しく抱きしめて頭を撫でました。
「そっか、そっか。興梠、変わったね。誰かの為に自分から何かをしようだなんて。変わった、変わったね。大丈夫、全部あたしに任せてくれていいから。興梠はそこにいるだけでいいから」
「あ、あ、あ、あ、本当に、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。興梠の洗脳もすぐに溶けるよ」
おでことおでこをくっつけながら、そんなことを彼女は言いました。
頭を撫でて、笑いながらそんなことを。
「えっ?」
頭のどこかで誰かが笑いました。ジャージ姿の誰かが。
人は過去を負うものなのだと、必然的に負うものなのだと、呪詛めいた言葉で笑いました。
「興梠がそんなこと思うわけない。興梠が自分から誰かを傷つけるわけがない。興梠の心をねじ曲げて、全部興梠に押し付けようとして、あいつは本当に哀れな奴だよ。でも大丈夫、原因を取り除いて、それから時間が経てば、冷静になれるから」
「ち、違っ! 違います! 本当なんです。僕が、僕が悪くて、彼女は!」
「興梠は望まない。興梠は進まない。ただ稲穂のように風に揺れるだけ。分かってるから、大丈夫だよ。今度こそ、今度こそ守ってみせるから。約束は二度と反故にはしないって誓うから」
彼女の評するわたしは、多分正しいのでしょう。いや、正しかったのでしょう。わたしはどちらにもつかず、どこにも着地しないような、ただ蹴られ、投げられ、転がっていく道端の石のような存在だったのでしょう。
でもそれは過去のわたしで。過去の過去のわたしで。
今の私は違うと表現するには何が必要なのでしょうか。変わったのだと、伝える為には何が必要なのでしょうか。神足さんも変わって、わたしも変わって、わたしは悪くて、神足さんはもう悪くないと伝えるにはどうすればいいのでしょうか。
伝え方はあります。方法もぼんやりとながら頭の中にあります。でも、ただそれは圧倒的に時間が必要なもので、今、ここで伝えるには足りないもので。
血の匂いがするのです。わたしの体が血の匂いに反応するのです。これからきっと酷いことが起こると。
ですから、ですから、ですから、わたしは大きく大きく声を張り上げて、叫び上げて、暴れまわって、違うと必死に、伝えるのです。そんなことはもう嫌だと。誰かが死んだり、誰かが傷ついたり、誰かが泣くようなことになったりするのはもう嫌なんだと。
望んでもないことを、誰も救われないようなことはもうしないで欲しいのです。死によって救われることなど何もないのです。死によって始まることなど何もないのです。
「興梠、やめなよ。自分を傷つけたって、意味ないよ」
「僕は怒ってます! もう、人が死ぬのはまっぴらなんです! 血の匂いはもう嫌だ!」
「分かった、分かったから、平和的にいこう」
割れたガラスはぷつぷつと指の表面を刺して、血を流します。わたしはそれを自分の喉元に近づけて、彼女を脅すのです。
「神足さんを殺さないで下さい。本当に僕が、姉様を殺したって信じて下さい」
「分かったから、ガラスを置いて。ほら、そのまま下がると、ガラス踏んじゃうよ。下、見てごらん」
下を見ると確かにガラスがあって、くるりと景色が変わりました。視界が天井を泳ぎ、気が付けば、わたしは地面に顔をつけていました。
手を捻られ、畳に顔を押し付けて、むせるように息をして、彼女に投げ飛ばされたことをやっと悟りました。
「大丈夫、興梠の普通はあたしが絶対守るから」
わたしが何かを言う前に、ガツンと頭に何かが当たり、意識は暗闇の中に落ちて行きました。
「……ほんとうなんです。ほんとうに」




