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「もしも、僕が父と母を殺すと頷いたら姉様はどうしていたのでしょうか?」
「それはそれで良かったんだと思うよ。彼女の本当の目的は興梠が言ったとおり、他人に……“健全な悪意”を持てるようになることだから。本当に彼女は自分の命とか、どうでもよかったんじゃないかな」
神足さんは“健全な悪意”という部分で、少し笑って、わたしの頭を撫でました。
姉様は迷惑な方です。その後のことなんかもこれっぽっちも考えていなくて、わたし達に投げっぱなしで、ほとほと疲れました。
死体……姉様の死体はそのままにしてわたし達は家を出ました。警察と両親には連絡を入れてあるので、その後の処理は問題ないはずです。
わたしは警察のご厄介になることもなく、学校にも行かず、毎日神足さんと一緒にいます。本当はいけないと思います。出頭することが国民としての義務だと思います。でも神足さんもそれでいいと言うので、それでいいのです。当初はビクビクしていましたが案外、外を歩いても大丈夫なもので、こうやって真昼間のスーパーでお菓子選びをしてても、誰も何も言いません。お尋ね者という気分もあまりありません。あっ、この動物クッキー、わたし好きです。
八瀬くんのこと。八瀬くんは姉様のクッキングメニューというPCのファイルが指し示す通りなら、既にわたしと姉様のお腹の中です。巧妙に普通の肉と混ぜるような使い方で八瀬くんはカレーや煮物になりましたが、使われなかった40キロ強の八瀬くんの残りはどこからも見つけることができませんでした。わたしが口にしたお肉が彼だったということに狂気した昔が酷く懐かしいです。
「あ、その動物クッキー可愛いな。あたしもそれにしよう」
東さんのこと。東さんの家のすみにあった白い蔵の中。わたしが神足さんに介抱されたあそこの下にまだ部屋がありました。鉄製の扉の向こう側に彼女がいるはずでした。はずだったのですが、既にそこはもぬけの殻で、いろいろな残骸があるだけでした。壁を爪で引っ掻いたような跡とか、扉を拳で強く叩いたような血の跡とか、そういったものが。明かりもない、音もない暗闇はさぞかし辛かったのだろうと思います。
神足さんはそれを見て、一ヶ月近く情緒不安定でした。小さな物音に怯え、わたしが視界からいなくなることに泣き出し、寝たら彼女がやってくると一週間は起き続けていました。これも懐かしいですね。
今はこうして、生きることを謳歌しています。神足さんの小さな平屋で、アリのように生きています。彼女の実家から送られる仕送りを食いつぶしながら、わたしは。
したいことはありません。夢も希望もないですが、わたしは元気です。明日も今日も分かりませんが、わたしは元気です。両親に復讐をしようとも思いません。スーパーで売られている焼きたてのパンを頬張って、野菜ジュースを飲みながら、休憩コーナーでぼんやりするほど退廃的で非生産的ですけれど、特に不満はありません。
「パン、何にした?」
「ブルーベリーとチーズのパンですよ。デザートみたいですけど、お腹膨れます」
「あ、いいなあ。あたしはクリームコロネ」
「可愛いですね」
「そ、そうかなあ」
「いえ、パンが」
「……あ、うん。わ、分かってるよ!」
いつか終わりが来るでしょう。警察的なできごとによってかもしれません。金銭的なできごとによってかもしれません。あるいは別の何かかもしれません。間違いなく終わりはあるのです。幸せとは失われていくもので、いつか終わりのあるものだから。でもわたしはそれを恐怖しません。苦痛や絶望も幸福と同じようにいつかは終わるのですから。終わらないなんてことは、ありえないのですから。悲しみや憎悪や嫌悪だって、いつか忘れてしまう。そんなものなのです、世の中は。
なら、今のこの一瞬を楽しまなければ、損です。泣いている時間がもったいないです。そうわたしは神足さんに言いました。
彼女はそんなわたしを“後ろ向きに前向き”だと評しました。そうなのでしょうか?
百円を入れて、まんまるのプラスチックボールが出てくる機械。俗にいうカプセルトイという奴で神足さんと遊んでしました。彼女は五百円に到達する勢いで、次こそは、と息巻いています。欲しいキーホルダーがあるのだそうです。
不意に、彼女は静かになりました。わたしはどうしたのだろうと思い、彼女を見て、その目の先を見ました。店内をぼんやりと見ています。レジの向こう側の乳製品が置かれたコーナーを眺めているようでした。いえ、違います。そこにいる人物を眺めているようでした。
「や、せくん」
短い髪の毛でした。スポーツ刈りの健康そうな髪型で、肌は相変わらず焼けていて、力強い目に、小さなほほ笑みがあって、白いシャツを着ていて、あれは八瀬くんです。多分、絶対。
「だ、だ、だよね」
「だと……思います。何で、生きて、そんな」
幽霊でしょうか、幽霊だといいですね。いや、幽霊だったら、わたしが口にしたお肉はやっぱり八瀬くんということになってしまうので、実在している方がいいです。それはつまり、八瀬くんが実は生きていたということにな……ああ、なるほど。
神足さんもわたしと同じ事を思ったのでしょう。倒れそうになったわたしを支えながら口を開きました。
「あのファイルは嘘だったんだ」
「嘘だったんでしょうね」
「ちょ、ちょっと、確認してくる。こっ、興梠はっ! ……興梠はここで待ってて。何かあったら合図する、から」
「大丈夫ですか?」
本当に辛いのは神足さんのはずでした。神足さんの方が辛いはずなのです。本当は逃げ出したいはずです。事実、彼女の衣服は噴きだしたような汗に濡れていて、膝が笑っています。
「ま、ま、守るって決めたもん。こ、こ、興梠のこと大好きだから、あっ、あたしが」
「分かりました。守って下さい。僕を守って下さい」
わたしの声に怯えた子供のような顔が引き締まります。大きく息を吸って、口を結び、彼女は勇み足で店内へと向かいました。
ガラス越しにわたしは神足さんと八瀬くんを交互に見つめます。あ、八瀬くんが見えないところに行ってしまう。わたしはちょっと位置をずらして、追いかけます。追いかけますが、日除けのブラインドが掛かっている部分があって、上手く店内を覗けません。あまがゆい気分です。
どうすればいいでしょうか。わたしも店内に行って確認すべきでしょうか? それとも彼女との約束どおり待っていた方がいいでしょうか? いや待っていたら、合図もないのでは? でも、中に入ると鉢合わせになってしまうかもしれません。ああ、わたしはどうすればいいでしょうか。
「わっ」
肩を叩かれて、びっくりしました。振り向くと逆光の神足さんで。
「別人だった」
「えっ……ええー」
「心配した?」
「凄くしました。途中で、ブラインドが邪魔して見えなくなっていたので、もうハラハラしました」
「ごめんね、いやー、よかったよかった。よし、じゃあ走ろうか」
わたしが唖然している間に彼女は走り出しました。もしかして、八瀬くんは本当に八瀬くんだったのでは、と思います。鉢合わせとかしてしまって、何か問題が起こったのではないかと思います。何が酷いことを言われたりされたのではないかと。
彼女を勇み足で追いかけます。勇み足はわたしの渾身の全力疾走です。追いつくと、神足さんはタクシーのトランクに旅行かばんを詰めているところでした。
「ほら、ちゃっちゃと乗って」
「はっ……はやい、です。僕、運動、にがて、で」
胃の下のあたりがきゅうっとつねったように痛みます。喉の奥がからっとしていて、口の中が唾液でベタベタしていて、是非とも冷たい麦茶が欲しいところです。
彼女の手に引かれて、わたしはタクシーの中に乗り込みます。クーラーが効いていて、なかなかに心地よいです。
「どちらに?」
「前の車、追ってもらえる? あ、ウソウソ」
彼女はハイテンションのまま、住所を告げました。ドライバーの方は迷惑そうな顔です。
手で自分の顔を扇ぎます。気持ち涼しいような気がしました。
「急に、どうしたんですか? やっぱり八瀬くんだったんですか?」
「どうでもいいじゃない。八瀬でも八瀬じゃなくても」
神足さんはぼうっと窓の外を眺めていました。先ほどのハイテンションはどこに行ったのでしょう。
「さっきの旅行かばんはどうしたんですか? 八瀬くんから、受け取ったんですか?」
「ああ、あれ? あれは、服」
「服?」
「今日さ、何着てるか知らなかったからさ、いろんな服詰めてきたんだよね。車の陰で着替えなきゃいけなかったからさ、もうホント恥ずかしくてってさ」
「着替え?」
「そっ、着替え」
彼女はそういって“いひひ”と不敵に笑いました。何か、違和感があります。先ほどの彼女はこんな格好をしていたでしょうか? 色は同じです。モノトーン調なのも、デニムレギンスなのも同じです。でも、どこか、デザインが違うような気がします。
あれ、少し身長が高い? あっ。スニーカー、が違う。違う。絶対に違うこれ。
変わった笑い声、軽快な物言い、ハイテンション。
「あ、あ、あ」
「学校さ、保健室登校ってことになっててさあ、出席扱いになってんの。ありがたいけどさ、行方不明扱いと出席ってなんか矛盾してるよね」
こちらを向いて、にんまりと彼女は笑いました。前にあった時と変わらない笑みで、にんまりと。東瑞樹さんは、明るく。
「久しぶり、こーろぎ」