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「全部知ってるよ、全部見てきたんだから。おかしいと思わなかった? 数時間は起きないはずの人が急に起きたり、急に電気が消えて、誰かさんに包丁が突き刺さってたりとか。彼女が死ななかったのも、わたしが“餌やり”してたからだよ。お前たちがミコトに劣情をぶつけようとしたあの日から、お前達のことは常に監視してた」
「ち、違う! さ、さ、さ、最初はそんなつもりなくて、彼女を地下に入れただけで、あとから、気がついて、わたしは」
「彼女がその言い訳を聞いたらなんて言うと思う?」
彼女は顔を真っ赤にして、目の前のハエを払うような素振りを見せました。強く目の前を振って、目をきょろきょろさせて、わたしの名前を叫びます。
まるでわたしを見失ったかのように。まるで違う世界にいるかのように。得体のしれない怪物がすぐ側にいるかのように。
「あなたは、何がしたかったんですか? 僕らを、からかって面白がってたんですか?」
「え? 違う違う! わたしは君やミコトを助けてたんだよ? そこの哀れで無様なクソ蛆虫とかから。わたしの時間を全て使って。それがわたしの義務であり、わたしの償いであり、わたしの生きる意味に直結してるから。それに君がいなくなったら、わたしは独りになっちゃうじゃない? 分かるでしょ?」
分かりません。分かりたくありません。理解不能です。
神足さんは頭を抱えて、あの人の名前を錯乱した様子で繰り返しました。彼女がやってくると。
「ある意味、君も立派に狂ってる。どうあっても君は他人を呪おうとしない。どんなにわたしが頑張っても君は他人を攻撃してくれない。両親を憎悪しない。そういう線路に乗せてもすぐ脱線しちゃうから、もう自分から進んでやってもらうようにしないとダメだって気がついたんだ」
「……意味無いですよ、そんなこと。も、もう、やめましょう。そんなこと考えるのも、そんなことするのもやめましょう」
姉様は嬉しそうに笑いました。クスクスと。
「ふふふふふ。とっくにさ、最初にさ、わたしも言ったんだよ。お母さんとあの男に言った。もうこんなことはやめようって。ミコトはもう限界だって。おまわりさんに捕まっちゃうよって言ったよ、お姉ちゃん言ったんだよ。でもダメだった。片岡が偉そうな顔で言ったの。アスリートは大会前には自分の体を極限まで傷めつけて、超回復と肉体の強制的な底上げを図るんだって。意味が分からなかったわ。ミコトはアスリートじゃないし、心と体は違うし、自分から望んだものと、他人が無理やりすることは違うし、そもそも、そのことと実験と、わたし達のことは全く関係のないことだって思ったわ。でも、分かるだろって聞く、あの男の顔と母さんの声にわたしは何もできなかった。その時ね、悟った! ああ、狂ってるってことは止まらないってことなんだって! だから、わたしも止まらないし、止められないんだよ」
「いくらあなたが言おうとも、わたしは……人殺しなんて、しません。復讐なんて、しません」
「わたしを独りにするの? 約束を破るの?」
「一人にもしません。一緒にいます。いますから、だから、もうそんな変なことは考えないで下さい。お願いですから」
「変なこと? 変なことじゃないよ。復讐はわたし達の権利だよ。わたし達にはあいつらに復讐する権利がある。あんなクズどもを社会に放逐させたままにさせちゃダメだよ。わたし達はあいつらを抹殺する義務があるんだよ。なんで、これが分からないの?」
「だからって、なんで姉様が死ぬとか、死なないとか、そういう話しになるんですか?」
「よし、じゃあこうしようか。あいつらを殺さないなら、そこの神足美雪も道連れにする。なんなら、前倒しにしようか? どうせ、死ぬことになるし」
笑いながら、彼女に近づこうとする姉様をわたしは……多分、必死な形相で、汗を滴らせながら、止めます。包丁を持った自分の手を使えば、容易に彼女を止められます。止められるのです。ですが、止まったらもう、それは止められないのです。
死は永遠に止まらないのです。死は永遠に止まってしまうのです。
冷静を装う方法すらも上手く思い出せません。姉様から教わった、その方法すらも思い出せません。僕はどうしたらいいのでしょう。
「わたしはどうしたら、いいんですか」
「さあ?」
姉様はきっと分かっているはずなのです。そうでしょう。わたしが、僕が人を殺せるはずなどないということを分かっているはずなのです。これまでの経験から察しているはずなのです。ですから、彼女の復讐せよという命令は意味を成さないことは自明の理です。
もしかして、違うのでしょうか。違うのかもしれません。違う、かも。
復讐には何が必要ですか? 動機? 憎しみ? それらを捨てたわたしには、きっかけのないわたしには、復讐などできません。敵意というものが欠けているわたしには、そういったものが。
では、わたしが復讐するためには何が必要か。敵意が必要です。動機が必要です。他人を傷つけることができるという意思が必要です。
他人を傷つけることができる人間は何から攻撃するのでしょうか? 憎しみ? 敵意? わたしにはそれがない。それが成立しない。では。
……あっ。
「そんな」
「それしかない」
姉様は笑いました。屈託なく笑いました。見たこともないような、いつもの遠い目とは違う、少年のような瞳で。
白い歯を見せて、笑いました。狂気などどこにもないといわんばかりの笑みで。
「神足美雪が本当に大切なら、守って見せないと」
誰かを守るためにも、人は人を傷つけることができる。母親が子を守るように。父親が家族を守るように。
わたしがそれを選択しなければいけないのでしょうか。わたしが、それを?
首を振るのですが、姉様はそうだよと笑います。
他に方法はないでしょうか。確かな、いや、もうこのさい不確かでもわたしは構いません。それでもいいです。みんなが救われるのなら、この命だってわたしは。
「君の考えてることは分かる。今、自分が死ねば彼女は救われるだなんて、甘いこと考えてるんでしょ? ダメだよ、君がここで死んでも、わたしは必ず神足美雪を殺す。止めたいなら、分かるでしょ?」
おかしいおかしいおかしいおかしい。そんなおかしなことがあっていいはずがありません。自分の姉を自らの意思でもって死に至らしめなければいけない。そんな馬鹿げたことがあっていいはずがないのです。
嫌です無理ですできません許してくださ助けてくださいそれだけは絶対に嫌ですですから。
「おいで」
包丁を握る手は震えていて。体はきつく、固まっていて。
「ほら、おいで」
彼女の腕は広げられました。朝日に膨らむ花のように。わたしを包み込むかのように。
わたしは走りました。小さく走りました。走って、包み込まれて、ぬくもりに包み込まれて、憎しみに包み込まれて、血の暖かさを感じながら、口づけを受けながら、泣きながら、嗚咽しながら、狂気しながら、包丁を……。
相変わらず姉様に教わった感情のコントロールの仕方が思い出せません。いえ、違います。これは上手く機能しないだけです。あまりにも溢れてくる感情が大きすぎて、それを処理できないだけなのです。
だからわたしは泣くのでしょう。心のわたしは泣くのでしょう。頭のわたしは心が理解できないから、こんなにも冷静に狂っているのでしょう。
「君はもう、他人を拒絶できるようになった。他人の悪意を受け続けるだけじゃなくなった。復讐もできる。狂気することもできる。その気になればあの両親だって、殺すことができる。同じ事を繰り返すして、安心することもない。君は今、自由になった」
自ら包丁を抜いて、どくどくと溢れる血にまみれながら、彼女はそう言いました。
「……死にますか?」
「うん、ごめんね。死んじゃう。ふふふ、そんなに泣かなくてもいいのに。ああ、やっとこれでミコトに会える。ミコトに会って、ごめんねって言わないと。もう一度、やり直そうって言わないと。最初から……。ああ、寒いな。寒ーい!」
不意にゲラゲラと笑って、疲れたと一言いって、彼女は目をつぶって、二度と起きませんでした。




