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 “誰の”という言葉のあとにつく、文字を考えます。前後の文脈から考えれば、それは当然、誰の赤ちゃんですかという言葉になります。

 では。では“誰が”という言葉のあとにつく文字は何なのでしょうか? 誰が妊娠しているのか。これでは先ほどと意味は同じです。

 誰が……誰が……誰が父親なのか。誰が誰が誰が誰で、誰だろう?

 誰の赤ちゃんで、誰が父親で、誰がどうしたのでしょうか。

「鼻血、出てるよ」

 記憶が体験となって、体を抜けていきます。急激な吐き気を伴って。

「君はわたしを一人にはできないけど、わたしは君を独りにできる。人間は過去を負う生き物なんだね、やっぱり。罪を負い、償いを負い、業を背負い、他人を呪うことをやめられない生き物なんだよ」

「あなたは」

「チャイム、鳴ってるよ。神足ちゃんだっけ、来たんじゃないの? ほら、好きにすればいい。なんなら、このビデオを見せてあげればいい。説明もしてあげれば? わたしは、昔、父と母に性的虐待及び拷問を受けていました。これがその証拠ですって」

「あなたは!」

「彼女、ミコトを助けられなくて、頭のネジが外れちゃったんだっけ? まあ、元からクズの才能はあったんだろうけど。あ、こんなの見たら前よりもおかしくなっちゃうかな」

「あなたは! どう、したいんですか!」

「あいつらを殺して欲しいんだよ。ただそれだけ。まともな心をあいつらに奪われた。だからその償いをさせるんだよ」

「そんなこと、しても、意味ないです! 彼らを殺したって、復讐したって、何も残りませんよ! 僕らはただ戻れなくなるだけです」

 彼女はそこで初めて、憐れむ……憐れむような瞳でわたしを見ました。可哀想な生き物を見るような目で、僕を見ました。

 水たまりで溺れかけているアリを見るような、そんな目で。

「生きる意味って考えたことある? 人間は希望がないと生きていけないんだって。わたしにはそんなものない。じゃあ、生きてる意味もない。それなのに何で生きてるんだろって考えたわ。考えて、考えて、思い浮かぶのはあの光景。母さんがわたしとミコトを起こしに来て、一緒にリビングに降りて、お父さんとお母さんにおはようって言うあの光景。あれがもうひたすらに眩しいんだよ。眩しくて眩しくて、手が届かない。目がくらんで掴む場所が分からない。あそこに戻る為に何が必要だと思う? どうすれば戻れると思う? 正解はね、正解は“戻れない”だよ。もう戻れないってのが正解なんだよ。それがどれほどのことか君は分かってない。忘れたフリをして、前に進んで、わたしを置いてけぼりにする君は分かってない。わたしだけが置いてけぼりで、あの地獄に取り残されたまま。そんなの、ダメだよ。ズルいよ。これは罰だと言うの? クジの罰だと言うの? ミコトだって了承したじゃない。何も言わなかったでしょ。わたしに落ち度なんてどこにもない、そうでしょ? わたしがあそこから抜け出すためには何かを変えなきゃいけないんだ。ミコトはどうやって前に進んだ? ああ、そうだやっぱりそうだ、そうなんだ。過去を切り捨てなきゃいけないんだ。あのクソどもを殺せば、わたしは前に進める。進むことができる」

「やめてください誰かたすけ、たすけて」

 引っ張ります。彼女の握る手を引っ張ります。

 彼女のわたしの手を握る手を引っ張ります。包丁はどんどん彼女によって、彼女の胸へと近づいていきます。それをわたしは拒絶します。

「君がやってくれないなら、わたしは死ぬしか道がない。生きてる意味がないんだから、生きてる必要がない。お腹の子供にもこのままじゃ可哀想だし」

「ぜ、全部! 自分でっ! 自分でやって下さい! ぼ、僕を巻き込まないで!」

「行動には責任が伴うんだよ。些細な思いつきが、箱の中の猫を殺すようにね。ねえ、神足美雪」

 包丁が止まって、姉様の目は部屋の戸へと注がれました。閉じきっていなかったのか、音もなく戸は開かれます。

「こうろ……ぎ、あの、家の鍵が、あいて、て……興梠の声がしたから、あたし」

「あ、あ、神足さん! た、助けてください! 姉様が、姉様が!」

「こんにちは、キチガイ一族の末裔。そして嘘つき神足ちゃん。あなた、今わたしが包丁で死ぬの待ってたでしょ」

「姉様、何を……」

 軽蔑と侮蔑に満ちた瞳で唇を歪めて、彼女は神足さんを見ました。

 眉を潜めて、汚物を見るかのような顔で。

「この子と友達ごっこできて楽しかった? 手懐けて、自分は自由でもう、最高って気分? もう、邪魔する奴っていったらわたしくらいなもんだもんね。早く死んで欲しいよね。わたしが死んだら、この子を強姦するんでしょ? 前みたいに、あるいは前よりももっと酷く。まあ、わたしが死んだ後のことはわたしの知るところじゃないから、別にそれでもいいけど」

「な、何を言ってるんだ。あた、あたしは、もう、そんなことはしない。しないしない絶対にしない! 友達を傷つけるようなことは、もう二度としないって決めたんだ! だから!」

「うふふ。よくね、人は変わるっていうじゃない。でもね、わたしはそういうの全然信じてないんだ。人は変わらない。クズは永遠にクズのまま。人の本質は絶対に変わらない。変わったフリをするだけだよ。変わった気になって、変わった風を装うだけ。犬が猫のフリをしたって結局は犬に戻る。そういうものなんだよ」

「あたしは変われた。変わったんだ。あなたがどう思おうが、あたしはもう変わった」

「畜生風情がそれらしいことを言うね。じゃあ、ミコトにしたことをこの子に言ったの? もしかして、それを言ってないのに友達だとかお前は言い張ってるの? 笑わせないでよ」

 姉様の言葉に、彼女は詰まり、わたしを見ました。許しを乞うような、弁明するような、助けを求めるような顔つきで。自分のスカートを握りながら。

 わたしは、どうすればいいのでしょうか。今にも崩れてしまいそうな彼女を見ながら、どうすればいいのでしょうか。

 包丁を握りながら、握られながら、手の届く距離なのに、声の届く距離なのに、彼女に何もしてあげられない、わたしは。

「お前も変わったフリをしてるだけ。箱の中の猫のことだってそう」

「箱? ……あ、あ、あ、あっ」

「変わってるなら、もう彼女のことだってどうにかできてるでしょ? 未だに見てみぬふりをしてるのは、過去の自分と今の自分が地続きで、何も変われていないって自覚してるからでしょ?」

「だって、もう、だって、もう……」

「明らかに死んでるって、そう言いたいわけ? 水も食料もない暗闇の中で、何日ももつはずがないって。だから死んでるって。違う、お前は死んでいるかもしれないし、死んでいないかもしれないっていう曖昧な状況にして結果を先延ばしにしてるだけだよ。だから鍵を厳重にして、あれから蔵には近づかなかったんでしょ?」

 わたしは何を言ってるのだろうと思います。思いましたが、言葉の積み木を重ねていくと、容易にその像は姿を晒しました。

 それは、彼女で。それはセミロングの彼女で。それは東瑞樹という名前の人でした。

「なんで、なんでお前!」

「知っているのか? 他にも知ってるよ。彼女の生死とかも。分かると思うけど、彼女ね、生きてるよ。今も生きてる」

 神足さんは悲鳴を上げて、その場に尻もちをつきました。

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