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 自由帳には描いた子供の迷路図のような刺々しい鍵を鍵の穴に滑りこませます。ガリゴリと中で小さく揺れて、わたしの手を回す力になぞるように、我が家の扉はロックを解除しました。続けて、おうとつの少ないノブを捻って、内側に扉を引っ張ります。やや重いのは、わたしの力が足りないせいでしょうか。この扉が分厚いせいなのでしょうか。分かりません。

 マス目調の白いタイルの上を進みつつ、一旦カバンを上げて、靴を脱ぎます。廊下に足を踏み入れ、真横のリビングを覗きました。誰もいないことを確認して、そのままカクついた螺旋階段を上り、二階に向かいました。一旦自分の部屋に向かおうとして、姉様の部屋へと足を向けました。戸を叩いて、返事を待ちます。

「開いてるからいいよ」

 くるりと手首を捻って、今度はドアノブを押しました。

 彼女はノートブックで何かを眺めているようで、こちらを振り向きません。普段、見ることの少ない色の赤い細めのメガネを装着していました。

「あの」

「何?」

「今日、神足さんが来ます。ここに」

「両親がいないからって、変なことしちゃダメだよ。お姉ちゃんもいるしね、そこら辺は節度を守ってもらわないと」

 クスクスと笑いながら、彼女はディスプレイを見つめていました。

 わたしは姉様の側に近づいて、肩に手を向けました。姉様だって何のために彼女が来るか分かっているはずなのです。

 …………あっ、えっ、これ、わたしだ。これ、わたしですよね。わたし、だと思います。えっ、嘘。

 この、ディスプレイに写って、半裸で、目を……目を縫われている? 糸で? 何のために?

 無意識に指が自分のまぶたに触れました。穴を確認するかのように。傷を確認するかのように。

「思い出した? まだ全部は思い出せてないのかな? わたしの予想だとね、もう君はとっくに思い出してるはずなんだよね。少なくともちょっとくらいは思い出してるはずだよ。じゃなきゃ、いろいろ不自然だし。あの、ほら、八瀬ってクソガキが言ってたみたいに、変な仏心出して忘れたふりを続けてるんでしょ?」

 椅子をくるりとこちらに向けながら彼女はまあどうでもいいけど、と呟きました。

 わたしは思い出したかのように口を動かしました。

「あの、これ、これは?」

「ああ、これ? キチガイどものお遊戯だよ。この後、家の中で鬼ごっこが始まるんだけど、それも見たい? 音声ミュートにしてるけど、オンにすると臨場感あって凄いよ。ちょっとB級っぽいけど。それともその時の写真でも見る? ほら、アルバム見たがってたじゃない。今なら好きなだけ見ていいよ。どれもこれも君が泣いてる場面ばっかりだけど」

 分厚い頭蓋骨の奥で脳みそが収縮を繰り返しているかのような、そんな痛みがわたしを襲いました。

 目の内側から何かが吹き出しそうな、そんな体の不調。

「この前、答えなかった質問に答えようかな。何故、今になって本当のことを言うようになったのかって奴ね。最初は君にあの子達を憎悪するようにしたかったの。でもご立派な君は誰一人疑うことなく、憎むことなく、ここまで来ちゃった。凄いね、本当に凄いと思う。で、あのままの君じゃ、きっとあの子達を憎んだりしないだろうし、疑ったりしないと思うから、次のステップにいかないとダメだって思ってさ」

 ぐわんと視界が歪んでわたしは本棚に手を当てました。

 その間も、映像の中のわたしは音もなく泣いて、今度は唇を縫われ始めました。針が皮膚を通る度に不透明な赤い雫が糸と針を濡らします。

「……次のステップって、なんです、か?」

「君に記憶がないのかあるのかハッキリしないのが、これまでの原因の一つだと思ったの。だから、まずそれを確定させようって思う」

 赤いボールペンで彼女はディスプレイを指しました。微笑のまま全く表情を変えません。

 まるで教科書の一文をペンで示すような、そんな気軽さで。

「これ。こういうことを君にしてるのはあの父と母。あっ! あれは本当の父親じゃないから、あの男って表現の方がいいかな。君にこれに近いことをしたり、しようとしたのがあの子達。君はそれに耐え切れなくなって自殺を図りました。失敗したけどね。はい、これで君はもう知らないという立場じゃなくなったね。君が真実、記憶喪失だろうと、その演技をし続けているんだろうと、もう意味はないよ」

「も、もく」

「目的? もう、そこ行くの? まあ、いいけど。わたしの目的は端的に言えば両親ごっこを続けてるあの二人の死かな。それ以外のクソ蛆虫どもはどうでもいい。ああ、そう、その包丁で殺すなりしてほしいの」

「自分で、やって、くだ、さい」

 震えた包丁は容易に汗で滑り落ちそうでした。矛先が地面を向いている時点で、もはや意味はないのかもしれません。

 姉様は全く変わらない表情のまま、微笑みました。侮蔑も軽蔑も恐怖も演技も何も含まれていない瞳で。

 きっと彼女にはあらゆる脅しや譲歩や圧力は無意味なのでしょう。

「わたしが? 無理無理。第一、そんなことしたら警察に捕まっちゃうよ? 変な子。もしかして人殺しとか嫌なタイプ? うーん、嫌なら断ってもいいよ。別のアテがないわけじゃないから」

「あなたは、おかしいです」

「そうかもね。こんな家にいるんだもん。狂って当然だよ。……今、君はわたしに嫌悪感と悪意を感じてるかもしれないけど、ここまでわたしが歪んでしまった理由を考えてみてほしいね。ほら、諸悪の根源って奴。こんな狂ったことを見せられて、こんな狂ったことを側でされて狂ったわたしをおかしいと君はそんな簡単に言っちゃうの? むしろ狂ったわたしの方がまともで、狂わなかった彼らの方が異常じゃないのかな」

 それは所詮、言葉遊びにしか過ぎないのです。狂気を定めることは主観でしかなしえないことなのです。

 それを定めることができるのは、きっと神様なのです。

「あなたを僕がどうにかするかも、しれないですよ」

「え、違う違う」

「何が、ですか」

「あの両親ごっこをしてるあいつらを君が殺さないと、わたしがわたしを殺すことになるんだよ」

 この人は何を言っているんでしょうか。何を言いたいのでしょうかわたしには全く分かりません。ただ何かが圧倒的に欠けていて、何かが圧倒的に足りないのです。

 きっとそれは慈悲だとか、慈愛だとか、理性だとか、そういった人間性と呼ばれるものなのだと思います。

 彼女はわたしに近づいて頬を撫でました。

「ミコトが自分から体を張ってくれたんだもん。じゃあ、今度はお姉ちゃんが頑張らないと」

「意味が分かりません」

「だろうね、ただの脅しだもんね。でも君はこういうの弱いでしょ。分かる、分かっちゃうんだなあ、そういうの。だって君のお姉ちゃんだもん。ほら、泣かないで。落とした包丁を拾って」

「こんな、こんなことして、何に……なるんですか」

「赤ちゃんのためになる」

「…………誰の?」

「誰が、じゃなくて?」

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