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神足さんの家に来てから、彼女の口は休まることを知りませんでした。止めどなく言葉は溢れ、話題は溢れ、手は汗ばんだまま、握り続けられました。
八瀬くんを埋めた場所へとついてきてもらうための、お返しとしてわたしは彼女の家に一日だけ泊まることを約束したのです。今思えば、別段、彼女にあそこまで来てもらう必要も、こんな約束を取り付ける必要もなかったような気もします。
でも、姉様の件だけは、きっと誰がいなければならないのです。わたしだけではきっと、どうにもならないのです。そう思います。
「……で、死んだような顔でその黒服の男が横を通りすぎていったんだけど、あれが幽霊って奴なのかな。興梠はそういうの、信じる? そういえば、この街には魔女がいるって……誰かが言ってたっけ」
「顔色が悪いだけで幽霊というのなら僕も立派に幽霊です」
「興梠は肌が白いだけだよ」
「そうですかね」
「うん、そうだよ」
少しだけ沈黙がありました。彼女は妙に明るい調子で顔を上げました。
「それで、興梠は幽霊って信じる?」
「幽霊がいるのなら、きっと神様だっているのだと思います。逆に言えば、幽霊がいないのなら、神様もいないのでしょう」
正直に言えば、信じません。そんな恐ろしいものがこの世にいていいはずがないのです。壁をすり抜け、支離滅裂で、人を襲い、物理的な対処がない訳の分からない物体がこの世にいるだなんて信じません。ですから、夏の恐怖番組はやめて下さい。非科学的です。そんなものを放送されてしまいますと、お風呂に入れなくなりますし、一人で寝られなくなってしまいます。
「つまりどういうこと?」
「いるかもしれないですし、いないかもしれないです」
「あ、あ、それ知ってる。あれだ、不可知論って奴」
「そうです」
「あ、あたしはいたらいいと思うな」
「えっ」
「あたしのマ……お母さんはね、殺されたんだ。その人はあたしの知ってる人だったんだ。その人に殺されたんだ。よく知った人だった。その人に」
誰かはすぐに思い当たりました。誰なのかすぐに。
「だからさ、もし幽霊がいるならさ、あたしは嬉しい。もしかしたら会えるかもしれないし、もしかしたらすぐ側にいるかもしれないってことでしょ。そう思うとさ、この、こ、こっ」
「大丈夫ですよ」
「うん、ありがとう。この心細さとかさ、消失感……っていうのかな。この胸のぽっかりとした感じとか、じっとりとした感じ。そういうのが結構、軽くなる気がする。前は全然分からなかったけど、今は宗教に縋る人の気持ちがよく分かる」
「そうですか」
「今は興梠が側にいてくれるから大丈夫。そう思ってる。思ってた。思ってたんだけどさ、逆にっ! あ、大声出してごめん。えっとだから、逆に言えばさ、興梠がいないとあたしはダ、ダメなんだ」
不意に思います。彼女が豹変した理由を。
凛として大人しかったはずの彼女が、ここまで誰かを模倣してしまった理由は、もしかしたら彼女の母が死んでしまったことが関わっているのではないでしょうか……などと思うのです。
母を“彼女”に殺害されたことを知った神足さんは、彼女を憎むと同時に尊敬もしていた。その複雑な感情を処理するために、神足さんはある方法を取ったのではないかと思います。自分の中にある綺麗な思い出の“彼女”だけを引き継いで、それ以外を悪として捨てたのではないのか、と。騙されていた自分を彼女とともに捨てて、母を殺害した彼女を捨てて、自分の中にある綺麗な彼女のイメージだけを自分に組み込んだのでは、と。そうすることで彼女を尊敬したまま、彼女を汚し、穢すことなく、嫌悪する自分と合わせて彼女を捨てることができたのだと思います。
他人を積極的に演じようとする心は、自分への嫌悪感と他者への憧れなのです。分かります、わたしには。何故なら、わたしも過去のわたしを積極的に演じようとしましたから。
それは今の自分がみすぼらしく思えて、今の自分が情けなく思えて、今の自分が他人よりも酷く劣って見えるから、そうしようとするのです。分かるのです、分かってしまうのです、わたしには。
「分かります。分かってます」
彼女と行ったピクニックの帰り道で“まるで友達みたい”と彼女がはしゃいだ意味が少し分かったような気がします。神足さんはきっと、とてつもない孤独の中にいたのでしょう。役を強要されて、性格を強要されて、友人を作ることも許されず、誰かと仲良くすることも許されず、役割以外の思考すら禁止される状況。誰かといるようで実は常に独りだった状況。常に周りに敵意を振りまくような素振りでなければ、自分を維持できなかったのではないか、などと生意気にも思うのです。唯一、本当の自分を知っているはずの母親すら、死んでしまったとあれば、それはもう、酷い孤独だったのでしょう。
「も、も、もう、私にはお前しかいないんだ。興梠しかあたしにはいない。だから、ももももも、もう」
「一人は嫌だ、ですか」
「うん、もう独りは嫌だ。嫌なんだ!」
彼女はわたしに縋るように、追い縋るように、手を両の手で包み込んで、わたしの膝へと頭をもたげて泣きました。
わたしはどうすればいいのでしょうか。同情すればいいのでしょうか。彼女に道を示せばいいのでしょうか。あるいは彼女を突き放せばいいのでしょうか。どれもこれもが正解ではないような気がします。
いつものようにわたしは人に判断を下せないのです。何かを思うということが苦手なのです。
そういえば、母親に包み込まれるぬくもりと安心感をわたしは知っていました。寒い日に、温かい毛布でくるまれるようなあのぬくもりと安心感を。だから、この手は自然と彼女を抱きしめ、胸に抱きしめ、あやすように背を叩くのでしょう。
よしよしと。




