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「ここで止めて下さい」

 そう姉様が言われてからどれくらいの時間が経ったのでしょう。周りはただ停滞しているかのように、静かに時を流し続けています。

 食事を終わらせたわたしたちは、またタクシーに乗っていたのですけど、姉様の急な一言により我が家から少し距離のある場所で下りることになりました。どういうことだろうと姉様の表情を覗くと彼女はただ一言、「少し歩こう」と微笑みました。わたしは肯定も否定もせずただ流されるままにそれに従ったのでございます。つまり、肯定したわけです。

 流れる時と同じくして、雲も空を泳ぎ、金色の満月に蓋をします。自然公園が近いからか、緑の多い並木道はとても静かで、床のパステル調のタイルは目に優しい色合い。眺めているだけで嬉しい気持ちにさせてくれます。

 そんなまどろんだ空気の中、姉様は気だるそうな笑みながら、ポツポツとわたしに言葉を紡ぎ、わたしはただひたすら正直に答えました。繋がられた手は決して離しません。絡めた指は決して離れません。

「ご飯、美味しかったね」

「はい」

「ふふ、美味しいときはもっと美味しそうな顔しなきゃだめだよ。嬉しい時は笑って喜んだりするみたいに」

「……はい、ごめんなさい」

 ふうっと短くため息をつき、姉様は髪を振り解きました。風にふわりと膨らんだ髪の毛がわたしの顔を撫でます。上下はジャージなのですけど、それだけで姉様の美しさはぐっと上がります。姉様はわたしが評価するのがおこがましいほど美しく、可憐でいらっしゃいます。ただいつも寂しげなのが気になります。

「お腹いっぱいになると疲れるよ」

「そうですね」

「やっぱりあのままホテルに泊まった方がよかったんじゃないのかな?」

「あの、明日学校ですし、お金が勿体ないです」

「ふふ、君は何も分かってないね」

 気だるそうな雰囲気はどこへいったのでしょう、姉様は年端のゆかない少女のようにケラケラと笑います。わたしは何がそんなに可笑しいのだろうと首を傾げていると、姉様は月の光を浴びながらいいました。

「明日ね、学校いったら……あの、えっと、ヒガシさんに」

「アズマさんです」

「その東さんに“昨日はお姉ちゃんとホテルに行きました”っていってごらん」

「……? わかりました」

「ふふ、やっぱり分かってない」

 タイルの床をテクテクと歩き、姉様は流暢な英語で小さく歌います。


『――母さんがわたしを殺したの。父さんがわたしをたべている。兄弟姉妹がテーブルの下に座って、わたしの骨を拾い、それを冷たい大理石の下に埋めるよ――』

「…………どうしたの? どうして泣いてるの?」

「わかりません」

「そっか」

 ただ、その歌は悲しくて、美しくして、儚い。そうわたしは思いました。


 暗くシンと静まり返った家の中、わたしたちは手を繋いだまま階段を駆け上がりました。

 扉の前になって、わたしが手を離そうとすると姉様は離れそうになった手を力強く握り、仰いました。

「今日は一緒に寝ようか」

「えっ」

 普段の姉様らしくない、はしゃいだような口調。

「嫌?」

「イヤではないですけど……」

「じゃあ、いいよね」

「あの、お風呂、入らないと」

「入らなくても、いいよ」

 そうはいいますけど、わたしはお風呂に入らないと布団の上で寝たくないのです。汚れを落としてからじゃないとイヤなのです。姉様はそれを分かっているのでしょうか、小さく笑い、扉の戸を開けて、わたしの部屋にわたしを連れて入ります。

「床でさ、布団にくるまって一緒に寝よう。蛾の繭に包まれるみたいにさ。蜘蛛に絡め取られるチョウチョみたいに。掛け布団なら汚れてもすぐ洗えるから、大丈夫」

「……うーっ」

「いやなら夜這いするよ」

「あの、夜這いってなんですか?」

「添い寝と同じ意味……かな。ああ、そうだ。明日、ヒガシさんに“お姉ちゃんが夜這いしに僕の部屋に来た”っていってごらん」

「はい……わかりました」

 クスクスと笑う姉様はいつものようにどこか疲れた表情とは遠く、とても明るく見えます。

 姉様はそれからわたしの掛け布団を自分とわたしを囲むように、二人羽織(ににんばおり)のように掛けました。わたし、まだ一緒に寝るとも言っていないのですが、姉様には関係ないようです。

 顔が近くて、くすぐったくて、じっと見つめられるのが恥ずかしいのですけど、わたしはなるべく平常を装い我慢しました。

「今日は学校どうだった? 学校は楽しい?」

「学校は大変です。楽しいかどうかはまだ分かりません」

「辛かったらいつでも辞めていいんだよ。お姉ちゃんが養ってあげる。お姉ちゃんは世界中が君の敵でも味方でいてあげる」

 そう姉様は笑うのですけど……それは、それはきっと前のわたしに向けられた優しさで、前のわたしに向かうべき感情。だからわたしには関係がなくて、わたしは少し辛くて、その言葉は今のわたしに向けられたものじゃないとは言えなくて、わたしはただ……。

「ありがとうございます」

 その一言しかいえませんでした。

 もしわたしが今まで通りのわたしだったのなら、きっとこの言葉は飛び上がるほど嬉しかったのでしょう。でもそうじゃないのです。今のわたしは。

「ねえ、学校の話しして」

「えっと、今日も東さんと朝一緒になって、少しイジワルされました。学校につくと八瀬君を見かけました。八瀬君は東さんをからかって教室からつまみ出されました」

「ふうん、それで?」

「東さんと神足さんが仲良くしているのを隣の席でぼうっと眺めていたら、東さんが急にどこかに行かれて、僕と神足さんだけになって……」


 教室内はわたしと神足さんの二人だけです。神足さんはわたしと一緒なのが気不味いらしく、どこかソワソワしています。わたしはむしろ静かな時間が好きなので沈黙は嫌いではないのですけれど、周りの方々はそうではないようです。

 空気を察して離れようにも神足さんはわたしの席の隣なので、今離れたところで意味はないのです。

「お前といると周りが不幸になる」

「…………?」

 不意な言葉にわたしは少し驚きました。どういうことだろうと首を傾げ、彼女を見ました。

「お前のせいで私も御前も、そして八瀬も不幸になるといっているんだっ!」

「どうしてです……?」

「どうしてもクソもあるもんか。誰も傷つけたくないと思うなら……傷つきたくないと思うなら、私と御前に近づくな。穢らわしいっ!」

「ごめんなさい」

 彼女が何に怒っているのか分かりません。でも謝るだけでもきっと違う。そう思うのでわたしは謝りました。けれど神足さんにはそれが余計に気に障ってしまったようで、目を吊り上げて、私の胸元を掴むと「――げえっ!」……掴むと、溝に拳を叩き込みました。胃が破けそうな鈍痛、吐くか吐かないかの絶妙な力加減です。

「うう……」

「お前は今まで通り、記憶を失ってからの通りに適当に生きて適当に人生を終わらせろ。私と御前に必要以上近寄るな」

 お腹の中に石を詰め込まれたかのような不快感にわたしは小さくうずくまるのですけど、神足さんはやめてくれません。わたしの髪の毛を掴んで顔を近づけます。

「私のことを御前にいってみろ。耳と目と舌を引きちぎってやる」

「うっうっ……」


「へえ、そんなことがあったの」

「はい」

「それから、しばらくしてクラスのみんなが教室に入ってきて……それで」

「どうしたの?」

「八瀬君の顔にアザができていました。僕がその顔を見ると彼は笑いながら大丈夫っていっていたのですが、でも……」

 わたしは痛いのも痛い場面を見るのも苦手で、傷口を見ようものなら卒倒してしまうほどの貧弱ぶりなのです。八瀬君の青あざを思い出して気分が悪くなったわたしを姉様は優しく抱擁しました。顔を擦りつけて笑います。

「優しいね。心配したんだ」

「部活中に転んだといってました。僕、運動が嫌いになりました」

 体がぶるぶる震えて止まりません。

「うんうん、そこは昔も今も変わらないなあ」

「そう……ですか」

「うん。あ、それで、誰がその八瀬君に怪我を負わしたと思う?」

「えっ?」

 それは一体どういうことなのでしょうか? わたしが答えを待ちわびていると姉様は鼻歌を歌い始め、静かに目を閉じました。

「答えは……いつか、わか、るよ。ひとは……過去をオウ……からね」

「あの、おやすみなさい」

「おやすみ」

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