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あれから東さんを一度足りとも見ていません。当初のわたしはそれでいいと半ば本気で思っていました。わたしに酷いことをして、嘘をつくような人とは会いたくないと狭量なわたしは考えていました。
神足さんが二度とわたしの目の前に彼女が現れないと語るまでは。
どういうことかと聞くと彼女はそのままの通りだと笑いました。わたしに害のあるものはもう二度と近づけないから安心して欲しいと。
それは。それはある種の宣告のように感じました。それは嫌な想像をさせました。
学校に来ない東さん。担任教師の語る「行方不明だ」と語る声。事情聴取に「知らない、家に帰っていない、心配だ」とあからさまに心配そうな顔で語る神足さん。それらは嫌な想像をさせるのです。わたしに嫌な想像をさせるのです。
それは。
もしかして彼女は、彼女を。
「こ……殺したんですか? あなたは東さんを」
「私が? あははははっ、興梠は面白いことをいうねえ」
「殺したんですか?」
「どうだろうねえ」
「……殺したんですかっ! あ、ぎっ」
彼女の手のひらがわたしの喉を絞りました。
彼女は三日月のような目尻の奥の、冷たい瞳で答えました。
「生きていたらどうする?」
どうするのか。わたしは彼女に逆らえない。死んでいてもわたしは。
自分勝手で狭量で、醜いわたしは生意気にも東さんを嫌いました。それで、わたしと……カンケイしていたと語る彼女は、わたしを守るために東さんをどこかに隠しました。もしかしたらずっと前に黒い土の下に埋められてしまったのかもしれません。その為に、八瀬くんという新しい人質を取ったのかもしれません。
ただ、どちらにせよわたしは彼女に逆らえないのです。人を殺せる、あるいは人をどうにかできる力を持っているということをチラつかせる彼女に、脆弱で貧弱で非力なわたしは逆らうことができないのです。
ただあるのは変わらない後悔と、胸の悪さだけ。
わたしが叫ばなければ、あるいはわたしが東さんや八瀬くんを受け入れてさえいれば、彼女たちはこんな目に遭わなくてよかったのではないかと思うのです。わたしが少しくらい我慢できれば、彼らが辛い目に遭う必要はなかったのではないかと思うのです。
自分の結果によって、誰かの光が失われてしまう。それがわたしは恐ろしいのです。
「もう、それはいいだろ。うん、もういいじゃん。あたしは、もういいと思うよ。忘れようよ。興梠に酷いことを誰もしてない。あたしもしてない。誰にもさせてない。このあたしが、私が興梠を守ってるんだ。分かるか、お前は私のおかげで、息を吸って、地に足をつけて、自由を謳歌できるんだ。自覚してるか? その代価に、私とお茶したり、一緒に学校行くくらいいいじゃないか。それくらい役得があってもいいだろ。ああ、誰が見ても私が正しい。なのに、何でお前はそんなに嫌そうな目で私を見る? 何で私を無視しようとするんだ。私は、お前を守りたいんだ誓って約束するよお前を守りたいだけなんだ」
「あっが」
「ああ、悪かったな。苦しかったよな? でもね、これは興梠が悪いだからな? だから、だからね、こーろぎ、そういうつまらないことはもう二度と口にしないでね。そういうこと言ったら、どうなるか、分かるでしょ?」
地に手をついて咳き込むわたしを見て彼女はそう笑いました。楽しそうに、嬉しそうに笑いました。ぞっとするような優しい笑みで。
東さんと、八瀬くんの件さえなければ、神足さんは至って普通でした。以前が嘘だったかのように軽快に笑い、学友と冗談を交わす黒髪の乙女なのです。わたしにも甲斐甲斐しくも世話を焼いてくれる友人なのです。学ぶことを楽しみ、体を動かすことを楽しみ、話すことを楽しむ、健全な少女なのです。
帰りに彼女の、いえ、東さんの家に寄っても、それは変わりません。他愛ない会話を彼女は楽しみます。たまにテレビや映画を見て、感想を言い合います。それだけで彼女は満足するのです。
時折……。そう時折、彼女は私を見て、歯ぎしりします。貧乏揺すりをして、獣のような息を吐いて、体を震わせます。その度に彼女は、近くにあるもので自分を諌めるようなことをしました。
今、現在でいうなら、テーブルの上の麦茶は彼女の手によって、頭上の上に落とされました。文字通り水を被ったのでしょう。
「あの」
「わ、わた……あたしは冷静だよ、興梠。ほら、興梠には何もしてない。前みたく、本能に支配されることもない。理性的だ。理性を保ってる。」
彼女の眼の表面を茶色の液体がゆるゆると滑っていきます。
わたしは、肩を畳に押さえつけられたまま、彼女の頬から溢れる、麦茶の雫を眺めて言います。獣に首筋を噛まれる一歩手前のような状況で、言います。
「あなたはどうしたいんですか」
「興梠を、ってこと? あたしはさ、はははっ、興梠と友達でいたいだけなんだよ。これは、その、そう! 冗談、冗談だよ。 あははは、ちょっと、びっくりした?」
「こういうこと、もう何度目になるか僕はもう数えていません。でも、こういうことがある度に思うんです。本当は神足さんは、僕に酷いことをしたいんじゃないんですか?」
包丁を突きつけられたことがあります。服を破かれたことがあります。唇を押し付けられたことがあります。体を弄られたことがあります。
わたしは抵抗しません。もはや、抵抗することを諦めています。抵抗しない方が、辛くないから。
「前みたいに、すればいいですよ。僕は抵抗しないですから」
そんな僕の言葉に彼女は泣きそうな顔でぎゅっと顔を縮めました。