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「この人殺し」
空を仰ぎみれば、何かが浮かぶような気がした。
のっぺりとしたコバルトブルーの空は、早くも初夏の訪れを感じさせます。入道雲がこの青空に掛かる頃には、わたしもきっと近所の犬のように日陰で息を切らしながら舌を出していることでしょう。
そんなことをわたしは青々とした新芽を見せる木々を見ながら思ったのでございます。
「ねえ、興梠。あたしを無視しないでよー。ほら、スマイルスマーイル! にっこり笑って一緒に行こうよ。最近は物騒だからさ、一人じゃ危ないぞー」
夏といえば、花火でしょうか。食い意地の張っている私としてはスイカや焼き鳥なんかが、夏のイメージにぴったりなような気がします。そんな話しを今朝、朝食の時に姉様としたところ、姉様は少し驚いた様子で笑い、帰りにスーパーでそれを買ってきてくれる約束をしてくれました。縁側で、一緒に花火をする約束もしました。時期としては少し早いような気もしますが、楽しみです。
「うっわ、ガン無視だ! ひどーい! ほら、アメ上げるからこっち向いてよう」
登校中の小学生が見えました。気が早いのかもう、半袖です。
熱くなってきたら夏服を着用したいところなのですが、いかんせん私の体は“ひどい”ので、長袖のままです。水泳も体の調子がよくないので、日陰で自習することになりますが、実のところ私は泳ぎがダメなので、ちょっと嬉しかったりします。
熱いのは苦手ですが、夏は好きです。全ての色が生き生きとしていて、眩しい感じが何だか心をワクワクさせてくれます。日光を反射する水面のきらめきも、道路に掛かる陽炎のゆらめきも、長いようで一瞬でしかないこの年代の夏休みの瞬きも、どれもこれもが私はとても好きです。
姉様はそんな私を笑って「嫌いな季節なんてないんじゃないの?」と仰りますが、私にだって嫌いな季節くらいあります。
それは。
「人殺し」
それは。
「人殺しの癖に無視するのか、お前。へえ、いい身分だな。ああ、可哀想な八瀬!! 心臓を包丁で突き刺されて、血だまりでのたうち回っていたのを昨日のことのように覚えてる。ああ、痛そうだったなあ。辛そうだったなあ。最後に何を思って、何を八瀬は見たんだろうな、興梠」
「……」
「幽霊という奴は見たか? 私も信じてはいないんだが、もしいるのなら教えてくれ。八瀬の幽霊はお前のところに出たか? どうした、何をブルブル震えているんだお前は」
わたしは顔を上げて、彼女に口を開きます。頼りなく口を開けて彼女を見ます。声は出ないと知っていて、分かっていて、彼女を見るのです。
背が高くて、人懐っこい笑みを含んだ髪の長い彼女を。
「いいたいことがあるなら言ってみろ。ん?」
勇気を出して、振り絞って、この人に私は言葉を投げかけます。
「何が、望み……ですか」
「こーろぎ、あたしに望みなんてないのよ。全然ない。ほら、“あれ”からあたしは興梠の生活を脅かしたりしてないし、興梠がいう“酷いこと”もしてない。ただ、毎日あたしの家に来て、一緒にお茶してもらってるだけじゃない?」
「あの家は、あの家は! あなたの家じゃない! あの家は……ぎゅぶっ」
彼女は子犬のような人懐っこい笑みのまま、私の口をもぎ取るような手で塞ぎました。爪が頬に刺さって、痛いです。
「そういうこと!! ……そういうこと、言うのやめようか。いい? ほら、離してあげるから落ち着いてね? ……ほら、恩人に対して、そういうこと言っちゃダメだよ。興梠にだって後ろめたいことってあるじゃない? 私にだって後ろめたいことってある。それなのに、あたしだけが一方的に言われるのってズルいよねー」
「だって、あれはあなたが勝手に……!」
「興梠のために頑張ったのに、そういう言い方はおねーさん傷ついちゃうな。でもさ、そんなに私のやり方が気に入らないのなら、何で自首しないわけ? いつでも自首できたでしょー?」
「それをあなたが言うんですか」
「え、何のこと?」
彼女はあの日、見ていました。あの場所にいたのです。私が八瀬くんに包丁を向けていたあの時を見ていたのです。神足美雪さんは。
あの夜、停電が起きました。ほんの数十秒のことでした。私は八瀬くんが何かをしたのだと思い、身構えました。暗闇の中、八瀬くんが覆いかぶさってきて、私は喚いて、そこで明かりが点きました。
前を見ると八瀬くんが不思議そうな顔で私にしがみつきながら私をじっと見ていたました。私はぬるりとした生暖かい湿り気に、手元を見ました。固く握った包丁の柄を恐る恐る見たのです。
血がついていました。その先は八瀬くんの胸に突き刺さっていました。
わけが分からなくて、私はその場に尻もちをつきました。八瀬くんもわけが分からないといった表情で、家具に頭をぶつけながら、床に倒れました。口からコポコポと赤い泡を吹きながら、もがきながら。
そこで神足さんが入ってきて、言ったのです。全部、私が処理してやろうと。パニックを起こした私を落ち着かせるような優しい声色で、そう言ったのです。ぞっとするような優しい声で。
それから全てが変わりました。
その日を堺に彼女は東さんのような格好と喋り方をするようになりました。髪を伸ばし、爪を伸ばし、背丈を急激に伸ばし、東さんの家に住み、活発に東さんのご友人と話しをされるようになりました。まるで、東さんを模倣するかのように。
八瀬くんは行方不明になりました。私は病院に連れて行かれたものだと思っていましたが、そうではありませんでした。私があの日、八瀬くんの家に行ったという事実や証拠は全て消され、八瀬くんは急にいなくなったということになったのです。私がそれを彼女に聞いても、彼女は笑うだけで何も答えようとしませんでした。私をただ遠まわしに脅すだけ。
罪悪感から自首を試みました。剥いだばかりのような生爪が送られてくるまでは。
罪悪感から自首を試みました。頭皮が張り付いた八瀬くんの髪の毛が送られてくるまでは。
罪悪感から自首を試みました。切り口の新しい八瀬くんの指が送られてくるまでは。
何も言わずとも、彼女はそれを察して、私の靴箱にそれを送り続けるのです。生きた八瀬くんを人質にして、自首することを拒むのです。私を脅して、逆らうことを許さないのです。
私が自首すれば彼女はきっと八瀬くんを本当に死んでしまったことにしてしまうでしょう。
東さんと同じように。




