56PAGE
私の想像よりもずっとずっとミコトは弱くて。
「……バカ」
私の想像よりもずっとずっとミコトは純粋で。
「……バカバカバカバカバカバカバカバカバカ!」
私の想像よりもずっとずっとミコトはバカだった。
大きな窓から部屋に入る銀色の光りは、嘘みたいに綺麗だった。幻想的と言い換えてもいい。
私は一歩一歩踏みしめるように前へと進む。汗が噴きでて止まらない。手が汗でぬるぬるする。ミコトの足元には大量の薬の容器が落ちていた。くしゃくしゃで、握りつぶされたような銀色の背面と透明のプラスチックのそれが落ちていた。大量の薬の粒も転がっていた。
私は倒れている椅子を震える手で、立たせた。立たせて、椅子に上り、ミコトの体を支えて、ミコトの首に掛かった縄を解く。解こうとしたけど、片手でミコトを支えて、もう片方の手でミコトの首を締めている縄を解くには、少し無理があった。いや、大分無理がある。
いや、そうじゃない。どうしよう。だって、さっき、本当にさっきすれ違ったばっかりなのに、そんなまさか。
首吊りは他人への強い憎しみだったかな。飛び降りが苦痛からの開放? ……何で、その憎しみをあの二人にぶつけないの?
「そ、そうじゃない」
どうしよう、どうすればいいのよ。なにこれ。笑える。笑えるのに震えが止まらない。笑えるし、重いし、震えが止まらない。ミコトはまだ生きてるの? 暖かいけど、生きてるの? もしかして日光が当たってたから死体が暖かいだけどとか? 死後、そんなに経ってないからとか? もしミコトが死んだら、私はどうなるの? もしかして、私が実験するの? 私がミコトの代わりになるの? それだけは絶対に嫌だ。嫌だ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。あんなこと、私が耐えられるはずがない。あれは人の扱いじゃない。人の生き方ではない。
「ミ、ミコト。お、お、起きて」
そもそも何で薬なんて? 頭痛薬から、睡眠薬まで全部かき集めてどうしようって……ああ、服毒死しようとしたの? それで上手くいかなかったから? それとも薬で苦痛を和らげようとか思ったの?
だから、そうじゃなくて、ミコトをどうにかしないと。
「誰か、誰か……おかあ、さん! ミコトが、ミコトが!」
駄目だ、誰も気づかない。誰も見向きもしない。私の言葉は誰にも届かない。
そうだ、携帯だ。携帯があった。少し屈んで、ミコトを肩に乗せる要領で支えて、片手は埋まったままだけど、もう片方の手は空いたから。その手でポケットから携帯を出して、自宅に掛ける。
すぐに誰が出た。もしもし、とも言わない。誰とも言わない。相手の言葉をただひたすらに待っている。明らかにそれは母だった。
「お母さん」
「自宅にいて、二階から電話を掛けなければいけないという状況なわけだな」
そう言って切れた。流石だと思った。
ああ、ミコト、やったよ。私たちのお母さんはやっぱりお母さんだよ。やったね。賢くて、頭が良くて、頭の回転が早い、かっこいいお母さんだよ。私たちの目標だよ。やったね、やったよ。安心だよ。安心だね。だから、お願いだから、目を開けて。こんなに暖かいんだから、死んでないよね? 死なないでよ、お願いだから死なないで。私を一人にしないで。私を独りにしないで。私はこの悪魔のような家で、独りで生きていくのは無理。誰も笑わない家で、生きていくのは無理。私独りじゃ何もできない。復讐もあったものじゃない。だから生きて、私の代わりに生き続けて。私を守って。
「……これはまた」
ああ、お母さん!
「お母さん、ミコトが、息、してない……かもしれない」
「息をしていたところで意味はない。その薬の量だ、首吊りに失敗していたところで、助かる見込みは低いよ」
お母さんはそう言って、口からタバコの煙を吐いた。
「そうじゃない。ミコトが死んじゃうかもしれないんだよ」
「それがどうかしたのか? 生きているんだ、死んだりもするだろう」
そうじゃない。そうじゃないでしょ。お前はどこに目がついているんだ。目は何のためにある? 前を見る為にある。ものを見るためにある。手は何をするためにある? 何かをするためにある。何かを持つためにある。人は人の為に何かできる。人は人の為に涙をながすことができる。人は人の役に立てる。だから助ける。助け合う。
「救急車は既に呼んだ。てっきり私は、お前が狂ったそれに刺されでもしたのかと思ったよ。ああ、重そうだな。今からハサミを取ってくる」
じゃあ、これっぽっちも命と私を見ないお前に目はいらないよね。手はいらないよね。お前に掛ける情けはいらないよね。
何でミコトがこうなったのか考えないのか? 何でミコトがこうなったのか分からないわけでもないでしょうに。そもそも狂ったって何よ。前、ミコトがおかしくなった時も同じようなこと言ってたよね?
私が熱心にミコトの意識を戻そうと頑張ってるのに、アイツは椅子に座って何もせず私を見ているだけだった。
「いつになく熱心だな。心肺蘇生法で蘇生できたとしても、次は胃洗浄をしなくてはならないぞ」
「分かってるっ!」
ハサミを出してお前の仕事は終わりか。タバコ吸ってる暇があるなら手伝え。それでも母親かお前。
「分かっていない。心肺蘇生法が成功して、胃の中の薬物をどうにかできたとしても、脳への重度の機能障害が起こるのは必須だ。首吊りとはそういうものだ。薬物のODとはそういうものだ。お前は可哀想だとは思わないのか。助かっても、これは人間として成り立たない。糞尿撒き散らす肉人形だ。興梠命の形をした生き人形だ。死んだ方がきっといい。後悔する方が楽だぞ」
脳の機能を失って、認知症みたいになったミコトは可哀想で、今までのミコトは可哀想じゃなかったってこと?
人間として成り立たない? 今までは人間として成り立っていたとでもいいたいの? そう言いたいの? このクソアマは。
「それでもいい!」
「それは贖罪のつもりか?」
「……何が!?」
もうお前に構ってる暇はないんだ。お前みたいなきぐるいに構ってる暇なんてこれっぽっちもない。
ミコトの学校のノートだろうか、それをパラパラと捲りながら母は何でも無いことのように言った。
「命への嘘に対する贖罪のつもりか?」
「何のこと?」
「くじを誤魔化したんだろ? ミコトは知っていたよ」
結果的にミコトは助かった。基本的なことは救急隊員がやってくれた。意識が戻ったのは入院して結構あとだった。
ミコトは再び生を得た代わりに、記憶の喪失と、手足と内臓関係の障害を持つことになった。
あのクソどもは記憶のないミコトがどう反応するのか分からなくて、ミコトの一般的な反応を恐れて、実験の中断を宣言した。家畜として、モルモットとして積み上げてきたミコトの無抵抗な精神が崩れてしまったことが相当、彼らの中で問題だったらしい。弱い人間は自分よりも遥かに弱い人間しか相手にできないということなのだと思う。クソどもが。
クソどもはミコトに記憶がない知ってから、平気な顔で接していた。普通を装って接していた。みんながみんな、さも昔からそうだったかのように、普通を演じている。罪を隠して、下劣さを隠して、残酷な行為をなかったことにして笑ってる。
それが私には耐え難い。私はそれに対応できない。まるで自分だけが異常だった世界に取り残されているようで嫌だった。
ミコトにとってはそれがいいのかもしれない。ミコトにとってはそれが幸福なのかもしれない。
でもいつかは破綻するって分かってる。絶対にどこかで嘘は崩れる。あのクズどもが、あのクソどもが、いくら上手に普通を演じたところで、己の醜悪さが消えるわけじゃない。絶対に同じ事を繰り返す。
いつかまた終わりと始まりがやってくるのなら、私は先にミコトに教えてあげようと思う。真実を知ってもらおうと思う。疑問を抱かせ、違和感を覚えさせる。ミコトに何があって、何が自分の身に降り掛かったのか知ってもらうために。
エゴだとは思うけど、でも他の奴らが罰を受けないのは、おかしい。おかしい、おかしいんだ。おかしいよ。おかしいったら、おかしい。
だから、だからこそ、それゆえに、そうだから、ミコトが裁くべきなんだ。加害者たるミコトが裁くべきなんだ。
裁いて、捌いて、バラバラにすべきなんだ。