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 ミコトにとって家の外とは、心安らぐ場所だ。朝早く家を出るのも、多分そのためだろう。帰宅時間を厳密に決めるまで、帰ってこなくなったりしたのもそのためだろう。

 外に出ている間は人でいれる。恐怖を忘れることができる。だからだろう。

 そんな一瞬すらも、蛆虫どもは奪う。蛆虫どもはミコトに安らぎを与えようとはしない。外でもミコトに群がって、その身を貪ろうとする。踏んでも踏んでも、どこからともなく現れて、ミコトをボロボロにしてしまう。それじゃ、ミコトが使えなくなってしまう。ミコトが使い物にならなくなったら、誰が復讐をするというの? 誰が復讐を行うというの?

 私はゴメンだわ。考えるのは私だけど、行動するのはミコト。私にそんなだいそれた事ができるわけがない。そんなことするのはミコトだけでいい。


 ミコトは自分の状況に甘んじている。自分がそういうことになっているのは当たり前だと思っている。濁った“あいうえお”しか喋れない、叫べないのは当然のことだと思っている。本当の自分は家の外の自分で、家の中で両親に弄ばれている自分は別の自分だと思っている。実験はいつか終わって、母さんも普通になると信仰している。そう思わないと、生きていけない。そうでも思わないと耐えられないのだ。心があまりにも弱いから。自分以外が憎いから。自分の中にある悪意から目を逸らしたいから。

「何?」

「ミコトちゃんが飛んじゃったから、お風呂入れて上げてくれるかな」

 男は額に汗を乗せながら、気持ちよさそうに紫煙を吐き出した。ベットの側の小さな棚の上には無機質な空の注射器が置かれていた。

 私は裸の男に目もくれず、ミコトの足を掴んで風呂場に引きずる。ミコトはたまに魚のようにビクビクと震えて、小さく笑っていた。

 自分のジャージの裾を折り曲げて、ミコトを風呂場の床に転がす。次に首輪を外して、シャワーを掛けてやる。ミコトは天井の方をずっと眺めていた。遠い目でどこか遠くを眺めていた。

 そこで私は屈んで囁く。笑いながら囁く。反響する浴場で半狂乱しているミコトに欲情しているかのように、艶かしく、厚く、意地悪く、囁く。

「これは夢じゃないよ」

 ミコトは動じない。動かない。

「シャワーを掛けられているのはミコトで、あの二人に陵辱されているのもミコトで、獣みたいに喘いで叫んでるのもミコトで、家の中で息を殺すように逃げ回ってるのもミコトで、今自分を天井から眺めてるのもミコト」

 ミコトは動じない。動かない。

「本当はこんなことが嫌だと思っているのもミコト。あの時、私がくじを引けばよかったのにって思ってるのもミコト、本心でこんなこと終わるはずがないと分かっているのもミコトで、そうやって卑怯に現実を拒絶しているのもミコト」

 ミコトは丸くなる。胎児のように丸くなる。背を向けて丸くなる。

「私のことを羨ましいと思っているのもミコト、ピーちゃんの首をハネて、毛をむしって、食べたのもミコト。吐きながら何度も食べさせられたのもミコト。泣きながら嫌だって叫んでたのもミコト」

 そういえば、あの時が最初で最後のミコトの反抗期だった。絶対に嫌だって言って、叫んでた。お姉ちゃん、助けて下さいって。何でもするから、それだけは絶対嫌ですって。ニヤニヤ笑うあの男の側で。

 懐かしいな、私が一緒に包丁持って上げたんだっけ。何でもするなら、鳥の首を刎ねることもできるだろって言ったのは母さんだったかな。

「親友だったんだっけ? 親友をバターと醤油で美味しく焼いた気持ちはどうだった? 口癖は“大好き”だったよね。首落とす瞬間にも言ったよね、大好きって。どんな気分だった? ピーちゃんを殺したのも、今ここにいる(みこと)がやったことだよ」

 いつものようにミコトはブルブル震えて、うめき声のような、不気味な泣き声を響かせた。頭が痛いのか頭を両手で押さえてる。

 辛いことはすぐに慣れてしまう。人間の適応能力という奴。ミコトも慣れてしまった。現実を拒絶することによって、自分を否定することで、慣れてしまった。いつか終わるという希望を持つことで慣れてしまった。だから。

「ああ、よかった。私じゃなくてよかった。ミコトみたいにならなくてよかった。ありがとうね、ミコトのおかげてお姉ちゃん幸せよ。もしかしたら世界一自分が幸せなんじゃないかって思うくらいに」

 だから、そうじゃないことを教えてあげる。仕方がなかったわけじゃないということを。お前はお前であるということを教えてやる。辛い夢ではなくて辛い現実なんだと教えてやる。ただ(みじ)めで、不幸な人生なんだと教えてやる。毎日。

 そうすると決まってミコトは脂汗をかいて、うめき声を上げて、頭を抱える。

 受け入れられないから、目を逸らす。耐えられないから自分を誤魔化す。それができないから、ミコトはどんどん壊れていく。可哀想なミコト。

 母さんがそうだったように、ミコトもその耐え難い負の感情をどこかにぶつけようと必死だった。どこかにぶつけないと、自分が壊れてしまうから。

 だから、どうすればそれが(おさ)まるのか教えてあげる。

「みんなみんな壊しちゃいなよ」

「ううっ……」

「嫌なものは全部壊しちゃえ。ほら、この包丁を持って、自分にひどい事をした人とか、させた人とか、嫌いな人とか、好きじゃない人とか、大嫌いな人とか、大好きじゃない人とか、恨んでる人とか、恨んでいる人じゃない人とか、憎い人とか、憎くない人とか、お父さんとか、お父さんじゃない人とか、お母さんじゃない人とか、お母さんとか包丁で刺しちゃえばいいんだよ。間違っていることはミコトが正してあげないと」

 ミコトは包丁を見る度に首を横に振る。何度も何度も横に振る。包丁は自分を傷つけるものだと思っているから。

 でも次第にそれは他人を傷つけるものに変わっていく。自分を救うものに変わっていく。怒りの矛先を決めてくれる。自分の感情をぶつける相手を決めてくれる。

 そうなってくれないと困る。そうなってくれないとマズイ。そうなるように私は毎日、ミコトの心を侵しているんだから。

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