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51P

 濁った唾液をドロドロと口からこぼしながら、興梠は逃げようとした。はだけた姿で芋虫のようにケツを振りながら、俺から距離を置こうとする。ひくひくと泣き止まない子供のように、曇った声で叫びながら、逃げようとする。口の中はアイツの下着が入っていて、しゃべりにくそうだ。

 ああ、忙しいって素敵だな。少なくとも退屈さは感じねえ。

「命ちゃん、どこ行くつもりだよ」

 ベルトを捨てて、俺は興梠の足をつかんだ。無様に転んだ興梠の目は死にかけているように見える。猛獣に襲われる奴ってこんな顔をするんだろうな。

 土にまみれ、鼻水と涙とヨダレで顔を染めて、眼の奥は悲愴に満ちている。それでもなお、美しさは濁らない。いや、そうだからこそ、美しいのかもしれない。きっと、今の興梠はいつもの興梠よりも何倍も美しい。俺の体はそれを理解しているからか、興奮していた。

 それを直に近づけてやると興梠は目を見開いて、震えた。

「大丈夫、俺さ、経験豊富だから」

 興梠は一層、暴れて泣き叫んだ。

 いくらでも泣けばいい。どうせ、お前の声は誰にも聞こえない。俺以外の誰にも聞かれない。お前がいくら暴れた所で、誰もここには来ない。そういうところを俺が選んだんだから。

 俺がいくらコイツを殴ろうと、コイツを蹴ろうと、踏みつけようと、犯そうと、誰も来ない。

「ああ、何かすっきりしちまった。あれ、興梠起きてる?」

 事実、興梠が動かなくなるまでボコボコにしても、誰も来なかった。そういうのは趣味じゃないけれど、でも大人しくしないならしょうがない。俺だって辛いんだぜ。

「おーい、命ちゃん。気絶中?」

 興梠は地面に突っ伏したまま、ピクリとも動かなかった。息はしているみたいだし、多分生きてはいるだろう。

「問題です。本来、軍事利用を目的に開発された衛星による、ナビゲーションシステムといえばGPSですが、正式名称は何というでしょう?」

「は? 命ちゃん、何いってんの?」

 ピクリとも動かないで、興梠は言った。いや、この声は興梠じゃ。

「正解はグローバル・ポジショニング・システム。うちの子の携帯にも入ってるの」

 硬い何かが俺の目の前を通りすぎて、喉に食い込んだ。それが俺の捨てたベルトだと気がつくには、少し掛かった。そしてそれに気がつく頃には既に遅かった。

 俺はのけ反るように、相手に背負われていた。首にベルトを食い込ませたまま。

「あの子には同情しない。あの子には何も抱かない。あの子には関心を持たない。それが約束だった。だからね、あなたが命ちゃんを気絶させてくれたおかげで、助けることができる。こんにちは、畜生ども。わたしの妹を犯そうとしておいて、無事に済むと思うなよ」

「うっ……くあ」

 抑揚のない冷えた声が背中から聞こえた。

 何でここが分かったんだ? ああ、携帯。持ってたのかよ。俺、番号知らねえぞ、クソ。つか興梠って姉ちゃんいたんだ。いや、そうじゃない、このままじゃ、死ぬ。殺される。つか、なんつー怪力。いや、そうじゃねえのか、俺の体重を利用して首絞めてるのか、すげーなコイツ頭いいな。

 頭の中に何かが詰まったような圧迫感が徐々に和らいでいく。本格的にやばい。これは死ぬ。

 ああ、興梠。興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠興梠。起きたら、きっとびっくりするだろうな。ひどい事してゴメンな。でも、このままじゃ、きっと同じことをする。最低だよな俺。お前を傷つけて、裏切って。でもそうしたくなるほど、お前のことが好きなんだ。じゃあ、しょうがないだろ?

 俺がこんなに思ってるのに、俺のこと何とも思ってないとか、フツー、キレるって。じゃあ、そうなって当然だろ?

 諦めきれないんだ。諦めたら、また退屈になる。こんな気持ち初めてなんだ。

 だから、死ぬのはもっと先かな。

 俺はポケットに入っていた、ボールペンを思い切り、振り上げて、俺を背負ってるコイツに振り下ろす。女だろうが、痕が残ろうがしったこっちゃねえ。殺そうとしてるんだ、俺が殺したって問題ないだろ?

「あっ」

 短い悲鳴と共にベルトが緩んだ。手が緩んだ。俺の足は地を踏みしめて、そいつの呪縛から逃れる。そして振り返り、そいつの目を見た。見て、逃げた。怖くて、逃げた。恐ろしくて逃げた。あんな目、普通の人間がする目じゃない。あんな顔、普通の人間じゃ。

 痛みで、力を緩ませたわけじゃない。ただ驚いたんだ。少しびっくりした。相手が武器を持っているのなら、この方法じゃダメだと思ったんだと思う。証拠とか残るからか? 絶対に、痛みからじゃない。ただ、他の方法の方が確実だと思ったからだ。だから、あっさりベルトを緩めて、包丁に切り替えたんだ。

 俺がもしあそこに今でもいたら、きっと死んでいたと思う。どんな奴でもまっすぐ殺しに行くなんてことはできねえ。そもそもしない。なのにあの女は、あのちょんまげ頭のあの女はまっすぐ俺を殺しにきた。そんないかれた奴に勝てるわけがねえ。

 もし興梠がいなかったら、あの女は俺を追い詰めて、追い立てて、殺しに来るだろう。もし興梠を犯していたら、あの女は俺を追い詰めて、追い立てて、殺しに来る。

 よかった、未遂でよかった。

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