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「ちょっとあなた達、何してるの!」
そう声を上げたのは保健室の先生で、姉様に割り込むように保健室に身を滑らせたのですけど、姉様の「ていっ!」という言葉とともにクラリと身を歪めさせ、倒れそうになりましたが、姉様のキャッチのおかげで地面との衝突は避けられたようです。
どうしたのだろうとわたしが姉様の顔を見ていると、彼女は己の手刀を掲げて仰いました。
「経絡秘孔のひとつを突いた。主に首の部分の……」
つまり手刀で先生の意識を奪ったということだそうです。というか、そういうことして大丈夫なのでしょうか。
「ん、あー、大丈夫。ほら、あなたの意識はルパンが頂いたって書いておけば何とかなるよ」
そう気だるそうに笑いながら姉様は何も書かれていない画用紙に文字を書き連ね、室内の床で寝そべっている先生の額にペタリとセロハンテープで固定されました。ルパンではなくて最後がキャッツアイとなっているのですけど、深くはつっこみません。
「あのさ、何ていったっけ……。えっと、ヒガシさんだっけ」
「アズマ、です」
「ああ、そう。で、東さん。早くうちの子から離れてくれる?」
「……っ」
東さんはしぶしぶといった感じでわたしから身を剥がし、少し寂しげに笑うのですけど、わたしとしてはやっと気分を落ち着けられといった気持ちでした。
ふらりと近寄った姉様はわたしの頭を撫でると、少し朗らかに(でも相も変わらず気だるそうなのですが)微笑みました。
「また気を失ったんだって? びっくりしてここまで飛んできたよ。マッハで」
「はい、ごめんなさい」
「別に迷惑とか思ってないよ。心配したってだけ。……で、なんで抱き合ってたの?」
「えっとそれは……」
ここで正直にいうべきなのでしょうか? いやしかし、ちらりと横目で見る東さんは非常に気まずそうな顔をしています。つまりそれは言って欲しくないと思っているのではないでしょうか、とわたしは推察をするのですけれど、姉様はその答えを欲していて。
姉様はわたしの首筋を指で撫でられました。ああ、先程のことでアザができてしまったのでしょうか。どうしたらいいのでしょう。
「んー、馬鹿正直だね。人に迷惑を掛けたくないって顔してる」
「いえ、あの実は僕が……」
「そんなわけ、ないよ。自分からあの子に抱きついた? ありえない」
「…………」
庇おうとしたのが裏目に出て、彼女を余計追い込んでしまったような気がします。姉様は終始変わらぬ表情でわたしの目の奥を覗き込むのですが、不意にその表情は冷たくなり、顔は東さんに向けられました。
「あなた、変態なの? 急にこの子に抱きついて体をまさぐるとか尋常とは思えないよ」
「…………」
東さんは何も言いません。ただ足元を見ながらスカートの裾をぎゅっと握り締め言葉に耐えているようでした。何かをじっと堪えるように、それは。
わたしはなんだか酷く胸が痛むのですけど、何もしてあげられることありません。
「ベットで寝てたらしいけど変なこととかしてないよね?」
「っ!」
「ねえ、何でかな。何で今、君は口元を隠したのかな」
東さんは咄嗟に自分の口元を手で覆い隠しました。えっとそれはつまり……どういうことなのでしょう?
姉様の表情をそうっと盗み見ると、微笑みを作っていた顔が、それよりか幾分か濃い、“笑い”に変わっていました。
何か胸騒ぎがします。喧嘩でしょうか。わたしが原因の。
「自分のしてること、理解できてる? 自分の立場とか家のことも含めてさ、分かってる? それにそういうのが許されるのは漫画とかアニメの世界だけだよ。現実でやるなんて正気の沙汰じゃないね」
「あたしはっ!」
「ねえ」
彼女の言葉を遮るように、無視するかのように姉様はわたしに顔を戻し、聞きました。わたしは目尻に溜まった涙を拭いて、首を傾げます。何を聞かれるのだろうと嫌な意味で胸が高鳴り、喉が乾くのを感じます。
「あの子のこと、好き?」
ちらりと東さんを見るとどこか期待したような表情でわたしを見ています。何かを待ちわびているような、そんな表情です。つまりわたしは思っていることをいえばいいということでしょうか?
一度、小さく息を吸ってわたしは答えました。
「…………別に好きとか嫌いとかじゃないです」
「ほらね」
誰にいうでもなく、姉様はそう呟き、クスリと笑いました。
わたしは何か言ってはいけないことをいってしまったのだろうかと不安になるのですけれど、姉様は大相清々しい表情をなさっていました。東さんも姉様ほどではないにしろ、その表情は晴れやかに見えました。
「あはははははははは、そっかー。退化……いや進歩かな。うんうん、進展してるよ、随分と」
「なんか言いたいことある?」
「いえ、何にもないですよう? まあ、あるとすれば夜は暗いですから転んだりしないように気をつけて下さいってところですかね」
「そうね。夜は暗いからね」
「ええ」
二人は楽しそうに笑いあい、わたしはよく分からないけど丸く収まったと胸を撫で下ろし、どちらがいうでもなくその場で別れたのでした。
ほんの少しばかり冷たかった風に熱が混ざり、暗んだ夜道を通り過ぎていく。
私たちは手を繋ぎ合いながら無言で歩いてくのですけれど、そこに無言の気まずさというものはなく、むしろ心地よい静寂が時を流れていました。
姉様はわたしの知らない歌を鼻音で奏で、わたしはそれに聞き入りながら道を進みます。
「今日は二人とも帰ってこない日だよ」
「そうですか」
「うん、だからどっかお店に入ろうか」
「でも……」
「じゃあ、家がいい?」
そういって彼女は悪戯っぽく微笑みます。
「えっと」
「ぱあっといこうじゃない。遠慮することないよ、だって家族だしね」
「いえ、そういうわけじゃ……あっ」
気だるそうな表情の姉様は強く手をひっぱり、タクシーを止めました。運転手の男に一言、行き先のホテルの名前を告げたのですが、運転手は車を動かさず、何か言いたそうな顔をしています。わたしは恥ずかしさに俯き、靴の先を見つめていると、姉様が少し語調を強くして「何か?」と運転手にいいました。運転手は何も言わず、ため息をついて私たちを目的の場所まで運んだのです。
郊外のホテルは静かな光を放ちながらそこにそびえ立っていました。わたしは姉様に手を引かれるまま、カウンターを抜けて奥へ奥へと進みます。エレベーターに乗り込むと姉様は指をぎゅっと絡めていいました。
「楽しみだよ」
「…………」
わたしはただ沈黙を友として、これから襲い来るであろう羞恥心を想像して、エレベーターが止まってしまえばいいのになどと考えていました。しかし現実はそうもいかず、目的のフロアにわたしたちたどり着いたのです。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
そう高級ホテルのレストランフロアに。
ホールでは丁度、ピアノの生演奏が行われていて、談笑している客はみな一様に品があり、きらびやかな服装なのですけど、わたしは制服姿で姉様に至ってはジャージです。しかも足は裸足にスニーカー。
とんでもなく目立つのですけど、姉様はそういったことを気に掛ける素振りは一切見せず、マナーなど知らんと言いたげに料理を口に運んでおられます。ナイフとフォークがあるのにボーイさんに「箸持ってきて」というくらい周りの視線に無関心です。わたしは周りの目が恥ずかしくて仕方がなく、縮こまってしまうのですが、姉様は「ちゃんと食べないと大きくなれないよ」といってわたしに食事を進めるのです。ファミレス気分なのは間違いないでしょう。
食事はフルコースでとても美味しいのですけど、あまり食べた気がしません。こんなことならやっぱり家で姉様の“よく分からない何か”を食べた方がマシだったように思います。いや、でもあのバイオハザードは……うーん。
「ちょっとトイレいってくるね」
「……はい」
姉様は立ち上がり、わたしの額に軽くキスをすると微笑みながら向こう側に消えていきました。周りの辛辣な視線が痛いです。
わたしは黙ってナイフとフォークを進めます。ガラス張りの夜空を眺めて、気分を落ち着けました。中頃まで来ると周りの客もわたしたちに慣れてきたらしく、あまり注目はしなくなっているので最初に比べれば幾分か楽です。
ふとピアノの演奏に耳を傾けていると、近くのテーブルで子供が三人なにやら言い合いをしていました。みな十代といった感じで、外国人のような顔立ちです。長く癖のある白髪の少女は目が真っ赤です!
「料理なんて出前でいいのです! そもそも女が料理できなきゃいけないという理論が間違ってるです!」
「だからさー、それ関係ないじゃん。お母さんが夕飯作るって自分でいったんだから、その理屈は変でしょ? ああ、こんな気取った料理じゃなくてゆー君が作った料理が食べたかったなあ」
「そんなこといっちゃ可哀想だよ。お父さんが仕事だってことは最初から分かってたことじゃん。それにお母さんだってプラモ以外で僕らにいいところを見せたかったんだよ」
「お兄ちゃん、それさ、暗にお母さんにはプラモ以外できることないって言ってない?」
「…………優さん、子育てってなんでしょうね」
遠い目をして少女は独り言のように呟きました。
「三日間殆ど何も口にしないでプラモ作ってるような子を作らないことじゃないの? あと引きこもりならないようにとか?」
「それって僕のこと?」
「ただいま」
「え、あ、お帰りなさい」
「何、見てたの?」
「いえちょっと夜空を」
姉様は気だるそうに首を傾げて、椅子に座りました。




