49P
空を仰ぎみれば何かが浮かぶような気がした。
しかし、何も浮かばず、何も形にならず、ちぎれ雲のように消えていった。
「退屈だ」
人生は退屈の連続だ。退屈は不幸だ。それ故に退屈をどれほど誤魔化せるか、あるいは紛らわせることができるかが、人生を幸福に生きるための術らしい。
不幸な奴は神様は何もしてくれないと叫ぶ。だから神様はいねーんだとよ。でも俺から言わせれば違うね。そもそも神様って奴のことを全然そいつは考えてない。神様は万能で、不死身で、何でもできて、頭がいいから、何でも退屈に感じる。そんな奴に唯一できないことは何か。それは自分の退屈を殺すことだ。退屈を紛らわせる為に神様がすることは何か。人間が退屈を紛らわせる為に、映画や小説に逃げるように、神様もまた他人の不幸や享楽を眺めて愉悦に浸る。これだね。
つまり、神様は人間を不幸にして、楽しんでるって訳だ。たまにメロドラマを見たくなる日もあって、そんな場面を用意することもあるみてえだけど、結局世の中は退屈と不幸で溢れている。低俗さと、吐き気を催す邪悪さで満ちてる。要するに神様って奴はとんでもなく低俗ななんだよ。それこそ他人の不幸を見て笑うような。
神様が退屈を紛らわせる為に、人間を不幸にして喜んでるみたいに、俺も幸福に生きるために、精一杯、退屈に抗って生きようと思った。あんまり深くは考えないし、快楽主義的に生きようと思った。好きなものを食べて、自分の感じるままに生きて、自分の思うままに行動する。腹がっ立ったら怒るし、嬉しければ両手を叩いて踊る。そんな生き方を望んで実行した。
別のやつに言わせれば俺の人生は「まるで動物」らしいけどよ、でも深く考えてあーだ、こーだ悩んで苦しむよりも、絶対こっちの方が人生の総合幸福値は高いと思うね。ストレスや悩みからは無縁の生活だからな。
更に突き詰めれば、人生とは三大欲求に支配されていて、三大欲求さえ満たせば幸福であるということじゃねえのかと俺はある日、思った。特に男として生まれてきたら「性欲」のくくりは大きな割合を占める。
元々、運動は得意で、身長も高い。顔もそこまで悪くはないらしいから、女に困ったことはない。女と寝て、喰って、また寝る。これが思った以上に楽で、幸福だった。これ以上の幸福への理論を見つけることはできなかった。
唯一、俺の中で問題だったのは一度も、一度足りとも“恋”をしたことはなかったことだ。恋というものは性欲以上に脳内を幸福で満たし、神に愛されているかのごとく幸せで心を満たしてくれるそうだ。
まあ、正直疑わしい。燃えるような恋って何だよ。身を焦がすような恋って何だ。動悸息切れ目眩なんてのはただの風邪じゃねえのって思う。それを誤解して、恋だと錯覚するわけだ。まあ、それもひとつの幸福だな。俺はカンベンだけど。
そんな風に思っていたから、それは、衝撃的で。俺はそれに対して全くと言っていいほど無防備だった。
入学式初日。時間的にも、校舎の静けさ的にも、クラスでは俺が一番だと思った。俺が最初の闖入者だと思った。事実、長い廊下を歩いている途中、誰一人見なかった。
教室の扉を引いて、近くの机にカバンを置いた。教室は少し埃っぽくて、木工ボンドのような工業的な臭いが充満していた。俺は薄暗い教室に明かりを入れ、半歩進んだ。
「うわっ」
「…………あ」
「……い、いるならいるって言えよ」
そいつ自身も、人がいることに今、気がついたようだった。ゆるやかな動きで窓側から視線を俺の方に移した。
瞳の奥はぼんやりとしていて、焦点が定まっていないような、あるいは目を開けて寝ていたと言わんばかりに弱々しい。
「すみません」
小さな体躯を丸めて、そいつは椅子に座りながら器用に頭を下げた。
一言聞いて、一声聞いて、一目見て、恋に落ちた。
胸が高鳴るんじゃない。胸が鼓動を止めそうになった。息が止まり、呼吸するのも勿体無く、瞼を閉じればそれは今すぐにでも掻き消えてしまいそうなほど、儚げで美しく、また清廉に映った。
春の風にたなびく薄茶色の栗毛は気品に満ち満ちていて、その桜色の唇と長いまつげは愛くるしく、柔和な朝日に照らされる柔肌は、陶器の色に近い。セピア色めいた退廃的な教室の色合いが、その美しさをわざとらしい程演出していて、俺は震えた。
そんなものを前にして、俺は何もできなくなっていた。声をかけることすら、おこがましいような、直視することすら許されないような、そんな感覚に浸っていた。しかし、それが苦しいわけじゃない。むしろ心地よかった。
何がそうさせるのかが分からない。俺の好きな女は馬鹿で、明るくて、いい体をした女だ。少なくとも、こんな小さくて、今にも崩れてしまいそうな奴とは違う。
ひんやりとした声が小さな唇から漏れた。
「どうしましたか?」
「ああ、いや、その……」
理想と現実は違うという言葉が駆け巡る。現実は今までで、本当の理想はここだ。
何かしなくてはいけないという全細胞の命令に俺は顔を赤らめながら、かすれた声で、名前を聞いた。目の前のそれは、不思議そうな顔をしながら、自分の名札を指さした。
興梠命、という名前だった。
ある種の崇拝めいた愛を持って、一日中興梠を見つめていた。一日が二日になり、二日は一週間と伸びていった。
そこから少しづつ、俺は興梠に冷静さを装いながら話しかけた。柄にも無く、相手に合わせて自分を変えた。ピアスも止めた、長かった髪も切った。
時間が勿体ないから女も切った。悪い遊びも止めた。興梠が怖いというから、喋り方も変えた。
東とガチレズ神足は昔の俺を知っているからか、その“変わりよう”をせせら笑ったけど、興梠は肯定してくれた。
「いいと思います」って。
学校ではあまり話せないから、階段の踊場や、水道や、休み時間のちょっとした合間のほんの数分だけだけど、それだけが俺の全てだった。俺の幸福だった。
今までの幸福さが色あせて見えるほど、興梠との全てが幸せに溢れていた。




