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空を仰ぎみれば何かが浮かぶような気がした。
夕焼け空を背に、空っぽの砂場を眺めながら、わたしはブランコに座り、ぼうっと空を眺めました。
喧騒と呼べるほどの子供たちの笑い声は、もう既になく、あるのは近所を通り過ぎる車の排気音だけです。なんだか寂しくなって、わたしは一度、ぽんと地面を蹴りました。少しだけわたしの体が浮きましたが、すぐにざらついた地面に着地しました。
「おいおい、ガン無視かよ。一応俺も心配なんだぜ? あー、あれか。クソ東が俺のことテキトーに何か言ってたとか?」
腰をどっさりと据えて、わたしの隣で八瀬くんは退屈そうに呟きました。先ほどまで食べていた、チューブ状のアイスはないようで、今その手にあるのはボーリングのピンを思わせる炭酸ジュースの小さなボトルです。
八瀬くんは額を手で撫でて、優しく笑いました。わたしは彼を無視して、地面を小さく蹴ります。
「アイツが俺のことなんて言ったか知らねえけどさー、多分事実じゃねえよそれ。いや、事実もちょっとくらいはあるかもしんねえけどさ。なんていうのかな、アイツんちと俺んちって昔から仲が悪いんだよ。遺伝子レベルつうの?」
まあ、それはどうでもいいけど、と彼は区切り、重たそうなため息を付いたあと、強く地面を蹴りました。
「やっぱ、俺のことも忘れてるんだな」
「……え?」
「あ、やっと俺の方、向いてくれたな。興梠は俺のこと忘れちまったかもしんねーけど、俺は忘れてねえよ」
忘れるわけがねえ、と彼は笑い、その長い足はまた強く地面を蹴りました。小さな石がいくつか前に飛びます。わたしの足は止まっているので、土埃も、石も、何も飛びません。
わたしは随分、不思議そうな顔をしていたらしく、彼は少し寂しそうに笑いました。あるいは傷ついたような、そんな顔で。
「俺とお前、友達だったんだぜ? 少なくとも俺はすげえ友達だと思ってた」
「…………」
「本当に記憶、ないんだよな。記憶がなくなったって聞いた時、すげえ悩んだ。俺は前と同じようにお前と接すればいいのかどうかってさ。でも、それってお前を傷つけるだけだろ? 今のお前は前のお前とは違うんだからさ」
漕ぎ出したブランコは静かにその揺れ幅を狭めながら、わたしのブランコと同じように静寂へと近づいて行きました。
「だから前ほど、お前には接しなかったけどさ、でもやっぱ心配だわ。最近のお前、変だぜ? あのクソ東も学校来てねえし、神足も何かニヤニヤしてて変だし、お前らどーしたんだよ。喧嘩でもしたのか? ……なにげに興梠、アザとか擦り傷、多いし」
わたしは彼に何と言っていいのか分からなくて、何を言えばいいのか分からなくて、ただその場で縮こまって地面を俯きました。
「言いたくないことは絶対言わねえのと、人見知りなとこは相変わらずか。ああ、でも何か安心した……なーんて言っちまうとお前は、混乱するか。……あー、他人が何でも知ってるような感じって気持ち悪いよな。俺も今、想像してぞっとしたわ」
歯を見せて彼はケタケタと笑います。わたしは相変わらず、石像のように地面を、小さな石ころを見つめます。
八瀬くんは笑いを止めて、少し真剣な顔つきでわたしの方を見ました。
「さっき、神足が鬼みてえな顔でお前のこと探してたけどいいのか?」
…………目眩がします。
「お前、虐められてるのか? 神足の奴に」
…………お腹が痛いです。汗が止まりません。
「おいおい、大丈夫か? 本当に生理か? 顔色悪いぞ」
わたしは空を眺めました。赤い空を眺めます。赤い空は深い青と混ざりつつあって、空はゆっくりと星々の光に変わりつつあるようでした。近くの街灯もちらほらと無機質な光が灯りつつあります。
ひかり。ぱっぱっぱっぱとわたしの頭の中を光りが瞬きました。数日前の、あるいは少し前の、神足さんとの…………。
「オーケー、分かった。この話題は、お前にとってタブーなんだな。じゃあ、別の話しにしよう。……えっと、なんだ、なんかねーかな。ああ、そうだ。東はどうして最近学校に来てないんだ? あの脳筋女もついに風邪でも引いたか?」
「……分かりません。多分、しばらく来ないと思います」
「そっか。なあ、学校、楽しいか?」
八瀬くんはどうやらわたしのことを心配して、話題を変えてくれているようです。それはつまり、わたしが八瀬くんを不安にさせてしまっているということです。わたしは凄く申し訳ない気持ちになり、泣きたくなりましたが、表情は変えません。目尻に溜まった涙を隠すために、街灯に群がる虫を眺めました。
「……好きでも嫌いでもないです」
「俺ってカッコイイと思う?」
「分かりません」
「はは、そこはカッコいいって言えよ」
「すみません」
八瀬くんは爽やかに笑って、炭酸ジュースを口に運びました。わたしの口の中にも頬を刺しながら、パチパチと弾けるような炭酸の感覚が伝わります。
「お前、チョコ好き?」
「好きです」
「あ、俺も俺も。晴れと雨、どっちが好き?」
「選べません」
「だよなー、選べねえよなあ」
「選べないです」
腕を組みながら、うんうんと首を振って、八瀬くんは言いました。
「えっと、じゃあ次は、あれだ。お前さ、自分の過去に興味あるだろ」
「えっ?」
八瀬くんの顔は優しくもなく、また爽やかでもなく、どこか挑戦的な表情でした。あるいは野心的と表現すべきでしょうか。言葉も冗談のようなものとは違い、「そうである」という“てい”の断定です。同意や否定は求めておらず、その言葉は決定的な何かを相手に突きつけるような、そんなものでした。
少しだけ重苦しい、息苦しい、間がわたしと八瀬くんを包みました。わたしは気持ちを悟られないように、視線を元の位置に戻しますが、いささかそれはわざとらしいようにも思えます。
「それ関係で神足と揉めてるんだろ?」
「……」
「知りたいか?」
「ぼくは」
八瀬くんは大きく目を開き、思い切り噴き出しました。まるで道化を見たかのように笑います。
「“ぼく”ね。いやあさ、お前、記憶をなくしても、それなのか。いや、俺は別にそれでもいいけどさ。いい加減、そろそろどっちなのか決めた方がいいんじゃねえの?」
でも、それはしょうがないです……とわたしは反論したくなりました。誰もそれは選べないのです。白い鳥もいれば、黒い鳥もいます。鳥の子供は、初めて見たものを自分の親と認識するのです。それはそういうものなのです。
そう思いました。そう反論しようと思いました。でもわたしはただ小さく口を開けて、彼を見ているだけでした。実際のわたしは勇気のかけらもなく、反論しようとする気概もなく、またその会話の先にある放棄し続けてきた選択が目の前に鎮座することを恐れているのです。
「俺には何もできないかもしれないけどさ、それくらいの答えは教えてやれるかもな」
「答え?」
「前の命ちゃんがどういう感じで、どういう風だったか教えてやれるってことだ。元親友としてな」
「本当、ですか?」
「ああ、嘘なんてついてどうすんだよ」
「じゃあ、あの、教えて……下さい」
「もう暗いし、まずは俺んちいこうか。そこで教えてやるよ」
「親友として、ですか?」
「ああ、元親友としてな」
八瀬くんはもったいぶったように笑い、わたしに手を差し出しました。
誰も教えてくれないわたしの過去、わたしの人間性、わたし足りうる何かを教えてくれると彼は言います。意味はないのかもしれません。自己満足に過ぎないのかもしれません。でもわたしはその自己満足を欲していて、心の隙間を埋めたくて、だから。
だから、その手を。