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 目が眩むような色素の薄い朝の光りは冷たくて、わたしの学生鞄の中に入った包丁は重たくて、前へ進もうと試みる足は硬かった。わたしはイヤだイヤだと首を振る足を前へと向けて、歩きます。

 交差点に差し掛かり、私はやっと足を止めることができました。歩き疲れたような足の裏の熱に少し体の疲労を感じます。真っ赤に光る信号を眺めていると後ろから足音が聞こえました。

 ああ、きっとあの人だと推察して、悩みました。どう接すればいいだろうと考えます。彼女はわたしが真実を知っているとは知らないはずです。なら、わたしは知らないフリをすべきなのかもしれません。あるいは軽蔑すべきなのかもしれません。

 どうしましょう、と悩んでいるうちに、彼女はふわりとわたしの髪を掻き上げて頬を撫でました。冷たい指先にぞわりと鳥肌が浮かびます。

「やっほー、興梠!」

「あの、あず……」

 ……息を呑む、とはこういうことを言うのだと思います。

 彼女はわたしの頬から首筋に手を滑らせながら、冷えた目尻を歪めて笑いました。

「なかなか似てるだろ?」

 神足さんでした。

 わたしは信号が変わったのにも気がつかず、呆然とそこに立ち尽くしました。足を動かそうと思っても、足が動かないのです。叫び声を上げて、走って逃げようと思っても、その手を振りほどこうと思っても、わたしの肩から二の腕を滑る手を振り払おうと思っても、体が言う事を聞きません。まるでそれは、サーカスの調教師とライオンのように……あるいは人形師と人形のような。

 わたしはただその恐ろしいものを目の中に入れないように、下をうつむいて、涙のように、雨のようにパラパラと地面を濡らす汗を眺めていました。

「あ、の、手……やめ、あの」

「はははっ、どうしてそんなに怯えているんだ? 何か嫌なことでもあったのか? ほら、信号が点滅してる。渡ろう」

 彼女はそういってわたしの手を握り、歩道の上を歩いていきます。指を絡めて、きつく絡めて、わたしの心をその手に絡めとって、歩くのです。

「いくら朝が早いからと言っても、そんなにゆっくり歩くと遅刻してしまうぞ」

「…………」

 吐きそうです。頭が痛いです。喉の奥がつんとします。熱いのに寒いです。汗がぬるぬるして気持ち悪いです。しゃがみ込んで、耳を塞いで、声を上げて、ただ泣きたいです。

「ああ、そうだ。鍵を渡していなかったな」

「えっ」

「もう、私たち付き合ってるようなものだろ? だから鍵だ、私の家の」

 そういって彼女は私のポケットに鍵をねじ込んで、手を抜く瞬間に太ももを人差し指で撫でました。

「私が御前のお世話で忙しいこともあるだろ? だから、そういう時は先に家に居てくれていい。流石に私も外や学校でお前に言い寄るほど無粋じゃないからな」

「これ、いらないです」

「クローゼットにある服は右から順番に日替わりで着ていくようにしろ」

「あの、これ」

「お茶とかお菓子は好きにしていい。場所は……まあ言わなくてもいいな」

「あの、いらないですから!」

 ぱんと風船が割れるような音がして、転びそうになりました。なりましたけど、手を握っていたおかげでしょうか、転ぶことはありませんでした。俯いていたわたしは何が起こったのだろうと、顔を上げます。顔を上げたところで、もう一度、その手が頬を突きました。ぱん。

「興梠、恋人の家の鍵をいらないなどと言うものじゃないぞ」

「うっ」

「う、じゃないだろ? そこは“はい”だ。……ああ、また“泣き”か。泣けば許してもらえると思ってるのか、お前は。泣けば優しくしてもらえるとか思ってるんだろう。そういう甘えが、お前を成長させないんだ。分かるか? お前は未熟なんだ。だから私がこれから正しいことを教えてやるからな、よく聞くようにしろ。まずは毎日、私の家に来ること。ああ、他の奴にバレないようにだぞ? バレたら不味いからな。次は……そうだな」

「い、いー……いーやー、です」

「次は、ああそうだ。私の家についたら先にシャワーを浴びること。服に着替えておくこと。御前が勝手に入ってこられることもあるから、そういう時は機転を利かせろ」

「い、いっ、い、……い、や……ふぎっ!」

 目が、景色がぴかりと光りました。

「……興梠、手が汚れたぞ。お前は鼻血を出すことと、泣くことが趣味なのか? いい加減にしろ、温厚な私でも許せることと許せ……人が話しをしてるのに何でお前は地面で丸まってるんだ? 踏んで欲しいのか? うーうー、泣いたってこの時間じゃ誰も助けてくれないぞ。聞いてるか、興梠? ちっ……ほら、興梠、私が悪かった、この通りだ。ほら、行こう、な? 早く、立て。立てと言ってるだろ早くしろ」

「ううううううううぅぅう、ええぐっああああ」

「早くしないと言いふらすぞ。ああ、学校中に言いふらしてやる。興梠命は昨日、裸で凄いことをしてたってな。ほら、昨日の写真もみんなに見てもらおうか。顔真っ赤にして、鼻水と鼻血で助けてって、許してって叫んでた写真を。……だから、早く立てぇぇ!」

 お腹が痛いです。顔が痛いです。くつが固いです。

「仮病か、お前? 嘘泣きか? そうやって私が諦めることを待ってるか? そういう狡賢いことを考える奴だったのかお前は。先生に言いつけるぞ。ああ、もしかして御前が来ることを狙ってるのか? 御前は今日、学校に来ないから安心しろ。今日は一日中、一緒だからな。むしろ、喜べ」

 めのまえを、ちいさな、ありが、通りました。もう、春も終わりかも知れません。





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