46頁
外は夕焼け空に染まっていて、肌を滑る空気の生ぬるい感覚と、どこかの家庭から漂ってくる夕飯の焼き魚の臭いはどこかちぐはぐで、幻想的で、懐かしくて、わたしを孤独にさせます。わたしはぼんやりと帰り道を歩き、自宅に戻ります。戻って、シャワーで体を洗い流しました。ぶるぶる濡れそぼった子犬のように、あるいは人を信用できなくなった獣のように震えながら、息を大きく切らしながら、小さく膝を丸めて、泣きました。泣きました、沢山。いっぱい泣きます。
辛いのです。辛いから泣くのです。声を殺して、息を殺して、自分を殺して。
泣けば、この悲しみが体の内側から過ぎ去ってくれると信じて泣きます。けれど、わたしの脳裏に浮かぶ生々しく、残酷な記憶は決して消えてくれません。決してわたしの元から去ってはくれません。辛辣で、生臭い記憶はわたしの体に起こった出来事を光の瞬きのようにピカピカとフラッシュバックさせるのです。汗と体の汚れと臭いをシャワーは流してくれるのですが、その記憶だけはどうしても消してくれませんでした。
「どうしたの?」
わたしは水を吸ったような重い頭を持ち上げて、姉様の顔を見ました。姉様は相も変わらず、けだるそうで、ジャージ姿で、少しだけ微笑を浮かべてわたしを見ていました。
ゆったりとした仕草で腰をかがめて、姉様はもう一度わたしに口を開きます。
「どうしたの? 何でスカートのまま、お風呂に入ってるの? 出て行った時に着ていた服はどうしたの?」
「…………あ、う」
「鼻血、出てるよ」
そっと指先で鼻を擦ってみるも、お湯で流れてしまって血が分かりません。鼻をすすってみると、ほんのりと血の味が舌を汚したのが分かりました。わたしは何かを言おうとして、声が出ないことに気がつき、少しパニックになりました。泣き叫び過ぎたせいかもしれません、先ほどに。
姉様は湯気の立つ浴室にスリッパのまま足を踏み入れ、わたしの髪の毛を両の手で掻き上げました。姉様にもシャワーのお湯がかかるのですが、姉様はまったく気にしてはいないようでした。目にお湯が入っても、一度足りとも瞬きをしません。
わたしはいろいろなことが重なっていただけに、少し身を引かせてしまいました。怖いのです、何が真実で、何が本当で、何が嘘で、何が虚実なのか分からないから。
姉様のわたしを見ているようで、どこも見ていないような遠い瞳がわたしに語りかけます。なにがあったのかと。
十分だったでしょうか、二十分経ったのでしょうか、あるいは一時間もの時間が経ったのかもしれません。ただ、わたしと姉様はじっと視線を交わし合い、言葉を待ちました。気がつけばわたしの口から自然とさきほどあっただろう出来事が語られていて、ぽつぽつと英語の分からない生徒のような言葉がこぼれ落ちていて、それを姉様はビスクドールのような冷淡さと生々しさを持って、ただ聞いておられました。
「そう、分かった。早くお風呂出なさいね」
全てを聞き終わった姉様はそれだけいうと、来た時と変わらない様子でお風呂場から出て行かれました。
その頃にはわたしの涙も、わたしの血も、いつの間にか止まっていて、声も出るようになっていました。けれども悲しみの波は未だ、その流れを止めることはありませんでした。
「昨日の残りのカレーしかないから、それ食べようか」
姉様はそういってわたしに優しく接します。わたしが濡れ烏のように身をぶるりと震わせて、クシュンとくしゃみをすると姉様は小さく笑い、ちゃんと拭かないと風邪引くよとわたしに教えてくれました。そうか、いつもは濡れたままだったから。
「あの」
「どうしたの?」
「学校」
「学校が何?」
「が、学校……行きたくないです」
わたしはつま先を見つめながら姉様に恐る恐る申し上げてみます。そっと見上げるようにカレーをよそうエプロン姿の姉様に言ってみます。姉様は小さく首を傾げ、わたしにどうしてと態度で表します。わたしは、その理由を自分の口からは言えなくて、分かっているし、心の中では饒舌にそれを説明できるのですが、なぜか口にだしていうことは憚れるような、そんな気持ちになって言い出せませんでした。
ただ体を揺らして、手を揺らして、懇願するように姉様を見ているだけでした。
言いよどむわたしにしびれを切らしたのか、姉様はいつもと変わらない口調で言いました。
「強姦されたから、行きたくないの?」
わたしは答えません。
「何で強姦されたら行きたくないの?」
わたしは答えられません。
「強姦した人が許せないの?」
わたしには答えが分かりません。
「イヤなら、イヤなやつ、刺しちゃえばいいんだよ。ほら、包丁でも何でも持ってやっちゃえばいいんだよ。そう、それを持って、明日学校に行って刺してきなさい。そうすれば全部丸く収まるから。イヤなことは全部さ、壊しちゃえばいいんだよ。もうね、君はずっとずっと我慢してきたと思うの。イヤなことをずっとね。だから、もうそろそろいいんじゃないかなってわたしは思うな。そうすればもう悩まされることもないし、ぐっすり眠れると思うし、君が泣く必要もないんじゃないかな」
包丁を握ったわたしの横を、虚実にまみれた姉様が通りました。お侍のようなまげを生やしたジャージ姿の姉様が横を。わたしに嘘をつく姉様が。
「嘘つきなわたしを刺したいのなら、そうすればいいんじゃないかな」
「うっ」
わたしはその言葉にぎょっとなって、包丁を手から零しました。包丁はからんと安っぽい金属音を立てて、フローリングを鳴らしましたが、姉様は見向きもせずテーブルに座り、いただきますと言ってスプーンでカレーを口に運びました。ターメリックの独特な香りがわたしの空腹を揺らすような気がしました。
「……嘘をついているんですか」
包丁を拾い上げるわたしの言葉に姉様はまた小さく笑い、そして言いました。
「カレー、冷めちゃうよ」
その言葉は確かにイエスと言っていて、姉様も自覚的にそう答えていて、わたしの手の中で包丁は鈍く光っていて、わたしの手は汗ばんで、イヤなことは全部なくなってしまえばいいのに。どうすればいいのでしょうか? 分かりません。
ただわたしは包丁をきつく握り、真っ直ぐ前に進みました。




