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「えっ……」
私は箸を握る指が痛むのも忘れて御前に聞き返した。御前は至極当たり前のように笑って、もう一度唇を開く。
「だから、興梠のこと好きになったわけですよ。ラブですよ、ラヴィーな感じで愛してるってことなわけですよ」
「いや、でも……え?」
冗談のように思えた。御前は興梠が嫌いで、興梠は人に好かれるような人間ではなくて、誰も狙わないという意味で安牌だったのだ。
急だと思った。今までそんな様子、微塵もなかったというのに。先ほど、帰ってきてから御前はどこかおかしかった。どこか妙に上の空で、浮ついた態度をしてらした。それで、ここへ来て「興梠が好きだ」と仰られた。
自分の聞き間違いではないだろうか、と考える。昨日の御前があまりにも恐ろしすぎて、今もこうして緊張している私に聞こえた幻聴の類ではないだろうかと。
「本気ですか?」
「本気も本気の大マジですよ、これが」
頭の中で大きな鐘が木槌によってごうんごうんと低い音を鳴り響かせる。目眩と吐き気が津波のように私を攫っていく。つまり大変気分が悪かった。
ありえない。御前のようなお方には釣り合わない。それこそ私のような人間にこそ、あの精神病の固まりのような人間不信は相応しく思える。いや、実際そうなのだ。
「そ、それは大変よいことでございますね……でで、ですが」
「ん、ですが?」
「神足の人間としてはとても許容できることではございません」
「えー、なに美雪、嫉妬? 興梠のこと好きだったとか?」
何を馬鹿なと私は冷静に切り替えした。そして御前には八瀬の一族のような、ちゃんとした家格のものこそ相応しいと強く説いた。興梠の家は確かに立派かもしれないが、所詮は庶民であり、高貴な家柄の東家とは到底釣り合うものとは思えなかったのだ。そういった誤りの修正も私の役目であり、恐れ多くも私は間違っていると訴えた。
御前は呆れたように頬を弛ませて「お前さあ」とため息混じりにいい、言葉を紡ぐ。
「お前、人を好きになるのに家格だとか家柄を判断基準にしてるの? 極悪人でも家柄がよければオーケーってことにはならないでしょーが。美雪はあれかい、あたしのことを好きでいてくれるのは東で瑞希だから好きってことなワケかい?」
「そ、そういう訳ではありませんけど……」
「だろうよ。誰かを好きになるってことはそういうことじゃない。好きになるってことはハートが大事なわけなのよ。キングオブハート」
ぐうの音も出ない。私は開きかけた口を静かに閉じた。
俯いた頭を起こしてもう一度口を開くが、御前の海の底のような瞳の前では掠れた声しか出なかった。
私はその日、泣いた。
御前と私では明らかに開きがありすぎたし、御前は魅力的すぎた。私に持っていないものを全て持っているように思えた。美しさ、聡明さ、暖かい両親、心のゆとり、家柄。あらゆるものが私は劣っていて、比べるまでもないように思えた。悔しいというよりも、どうしようもない気持ちだった。
空から隕石が降ってくるように、時間の流れを変えられないように、それは必然的なもので、私にはどうしようもないのだ。
私が興梠であったのなら、私は御前を選ぶ。それが何とも心苦しい。
「ああ……」
真っ暗な部屋で意識が戻った。肩で息をしていて、酷く汗ばみ疲れている。どれほど時間が経っていたのか検討がつかない。
嗅ぎなれた部屋の臭いに、そこが自分の部屋だと気がつく。部屋を歩くと細かい何かが足の裏を刺し、痛む。私は暗闇の中、壁伝いに部屋のスイッチを探し、明かりを灯した。
「……なんだ、これは」
部屋は酷い有様だった。お気に入りの茶色のテディベアには幾重にも鉛筆や鋏が刺さっていて首はもげかけ、白い綿が外に飛び出ていた。誰かを思わせる黒いつぶらな瞳は片方がない。不意に口の中に違和感を覚え、ぺっと吐き出すとそれはテディベアの片目だった。
本棚は倒壊し、ありとあらゆるものが床の上にぶちまけられていた。
「私が、これをやったのか。私が? ははっ、狂ってる」
いや、最初から狂っていたのだ。それに今まで気がつかなかっただけで。
自分の着ている服を見る。先程の服とは違い、全身が黒ずくめで、部屋を荒らす前にどこかに出かけていたようだった。私は私を推理するために部屋をつぶさに観察した。テーブルの上の大きめの茶封筒、カードのないデジカメ。ポケットからはインターネット喫茶のレシートが出た。プリントアウトが一枚、十円とはボッタクリだな。ああ、そうか。私は興梠の“あの写真”をプリントアウトしたのか。
「……で、その写真はどこだ?」
家中探しまわってもその写真は見当たらなかった。
漠然と私の頭の中に、興梠の家のポストが浮かび上がった。妙にその記憶はリアルであり、大変恐ろしい妄想だった。
また悲しみの波が喉から湧き上がりそうになるのを、深く息を吸うことで抑えこむ。何を悲しむことがある。私は御前のしもべだ。他人を許容しないあのお方が他人を認めたのだ、これを喜ばずして何を喜ぶというのだ。
「だから、我慢するんだ私」
きつく拳を作って、自分に言い聞かせた。腹の底で何かが弾けてしまいそうなのを自覚しながら私はそれを無視した。
気を紛らわす為にいろんなことを考える。考えた。考えたがどんどん腹が膨れ、喉から溢れそうになった。私はそこで興梠のことを考えた。興梠と手を繋いで、夕焼けの川辺を歩き、御前にからかわられる幻想を考えた。
すうっと気分が和らいでいく。何とも心地良いが、何と悲しい妄想だろうかと私は一人で笑って、結局また泣いた。泣きながら今度は興梠をベッドで喘がせている妄想をした。興奮に鳥肌が穿つ。涎が唇から溢れた。
今度は興梠を林の中に追い立て、追いかけている妄想を浮かべた。興梠は泣きそうな顔で私を見ていて、必死に逃げ惑う。私の手が奴の服を掴み、破き、悲鳴を轟かせた。しかし助けは来ない。そういう筋書きなのだ。興梠は何度もやめて下さいと血まみれの顔でいう。私は拳を振り上げながら、やめて欲しければ服を脱げといって……。
「はははははははっ」
確信した。私は狂っている。気狂いだ。
冷静さはどこにもなく、胸の悪さだけがそこにはあった。
胸の奥に何かが詰まったような異物感が私を苛んでいた。しかし、それは同時に先程の破裂しそうな何かを払拭してくれていた。
暴力的な妄想を暴力的な妄想によってかき消すというのは愚かで矛盾しているようにも思えたが、不思議なことにこれが恐ろしいほどに心地良く、しっくりきた。




