4頁
目が覚めて、いつも思うのは体の重さ。わたしの体はこんなに重かったのだろうかという感情なのでしょうか。それともこれは夢の世界の心地よさの反動なのでしょうか。わたしには分かりません。
カーテンを隔てた薄ぼんやりとした蛍光灯の光、独特な消毒液の匂い、分厚い布団。……どうやらわたしは保健室のベットで横になっていたようです。
とりあえずとばかりに体を起こし、スリッパを履きました。白乳色のカーテンをサアっと横に流すとテーブルに突っ伏して寝ている東さんが見えました。それ以外は誰も室内にはいません。
テーブルの隅にはわたしの鞄と東さんの鞄。窓の外は薄暮の様相に変わり始めています。
わたしはとりあえず彼女の向かいのパイプイスにギシリと座りました。起こしたりはしません。折角、気持ちよく寝ているところを邪魔しては失礼というものです。
しかし、何故彼女はこんなところで寝ているのでしょう? 確かに保健室は静かで寝心地がいいのでしょうけど、眠いなら家に帰って柔らかい布団にくるまった方が心地よいと思うのです。
うつ伏せの状態で寝ている彼女の頭をぼんやりと眺めていると、その手に何かが握られていることに気がつきました。いぶし銀のフォルムのそれはボイスレコーダーで、その下の白い大きめの紙には「起きたら再生してね」と書かれています。わたし宛にメッセージされたものらしく、わたしの名前が星印に挟まれて、強くその存在を誇示しています。
ボイスレコーダーは彼女のマイブームなのだそうです。会話のやり取りや授業内容を録音しておくと後でいろいろ便利だとかなんとか。
わたしはレコーダーを彼女の手からそっと奪い、再生のボタンを押します。特に操作はしません。とりあえずわたしは再生をしろと言われただけなので、間違っても特に問題はないでしょう。
ぽちり。
『ご飯だよー、ごはーん』
備え付けられたスピーカーから流れたのはそんな家庭的な声。
「え、ご飯っ? どこどこ?」
バッと身を起し、半開きの瞼のまま彼女は、飛び起きました。首を左右に動かしありもしないご飯を探しているようです。もしここに神足さんがいたのなら「東さん、涎がみっともないですよ」と酷く狼狽したのではないでしょうか。その手には薄桃色のファンシーなハンカチーフが握られているはずです。
しばらくし、首だけを右往左往させた彼女は、わたしの顔を見て自分の状況を飲み込んだようで、にっこり笑うとうーんと唸りながら背筋を力いっぱい伸ばしました。
「おあよー」
「えっと、おはようござます」
「ん、どうしたの? わたしの顔ばっかみてえ」
イヒヒヒと笑いながら彼女は白い歯を見せてニンマリと笑います。涎拭いた方がいいですよ。
「あの、どうして保健室で寝ていたんです?」
「えー、それ本気でいってるのー? 君が貧血で倒れたっていうから、慌ててここまで来たに決まってるじゃーん?」
「……貧血」
「あれ、貧血で倒れたんじゃないの。美雪が倒れてたところ見つけてここまで運んだんじゃー?」
そうか、あれからわたしは気絶してしまったのか。また。
「はい、そうです」
「えっとね、先生が君んちに連絡するっていって……」
東さんは柱に掛かった大きな時計をちらりと見て言葉を続けます。
「まだ十分ちょっとしか経ってないねえ」
ということは十数分前に眠ったということでしょうか。熟睡していたように見えたのですけど、もしそうなら未来の青ダヌキに心配されるメガネくんを彷彿とさせる眠りっぷりではないでしょうか。
「寝付きがいいんですね」
「立ったままでも寝れるぜっ!」
えっへんと胸を張る彼女がおかしくてわたしはついつい口を歪めてしまいました。後ろを見せて、なんとか笑いを堪えますが、少し肩が震えます。
小さく咳き込み、わたしはいつも通りの平常を保ち、東さんに振り向きました。
当の東さんはどこかポカンとした顔で、頬をほんのりと上気させてわたしを見ています。風邪でしょうか?
「あんまり君、笑わないからさ、そういう顔みるのすっごい久しぶりなんだけど、やっぱりすっごく魅力的だよ。うん。君はもっと笑った方がいいと思う。もうね、おねいさん、胸キュンのズッキュンズッキュンなバッキュンバッキュンなのよ」
「……?」
やはり風邪でしょうか。失礼かもしれませんが支離滅裂のような気が。
東さんはにっと笑うとチョイチョイとわたしを手招きしました。わたしは小さく首を傾げて彼女の元に近寄ります。目前まで来ると、彼女は立ち上がり、わたしを……抱きしめっ!? えっ、首筋!? くちで……あうあう。耳は、首はちょっとそのプライベートな空間なので来客はお断りををををを、あっふあ、吸い付かないで……あああ。
「うわあ、すっご! 心臓バックバクいってるねえ? 顔もヤバイくらい真っ赤だーよ? ひひひひひひ」
「うっうっ……」
わたしは抱きしめられたまま、東さんを上目遣いに睨むのですけど、顔が真っ赤なせいか、涙目なせいかシマリのないものになっているようです。東さんがまったく堪えていないどころか、嬉々としているので間違いないようです。なんとか腕を振りほどこうとするのですけど、彼女の手は石のように重く、固いです。
「もっと君の笑顔がみたいなあ。いやこっちの顔もタマランですけど!」
「うーっ!」
「あーー! 今のいいっ! 今のうーって奴もっかいいってちょーだいっ!!」
……嗚呼、わたしはどうすればいいのでしょう。先生、早く帰ってきてわたしの助けて下さいませんでしょうか。
顔が熱くて、頭が重くて、恥ずかしくてバターのように溶けて消えてしまいそうです。
「あっ、うっ、あの、お尻、その……」
彼女の背中に這っていた手がわたしの体のラインを滑らかにすべり、お尻の方に来ているのですけど! 揉んでるのですけど!
「今だけ堪忍してくれいっ!」
「うーっ……」
キリリとした顔で東さんはわたしそういったのですけど、わたしは当然断ることなんてできませんし、かといって了承することも精神的に不可能です。
ただわたしは池の畔のコイのように口をパクパクさせて羞恥心とセクハラに耐えるのでした。えっと、誰か助けて。
「あ、あの、その」
「ん、どうしたね」
「えっと、えーっと」
「ほらほら、君の苦手なトークを頑張らないと、手が服の中に…………っ!?」
ななななな、何か言葉を。えっと、うーんと、あーっと。
「こ、神足さん、あの、神足さんはどこに?」
「美雪? 美雪は先に帰ったよ。本当はいたかったんだろうけど、空気読んでくれたみたい」
東さんが眠いということが分かっていたということでしょうか? 彼女なら東さんをこんなところで寝させるくらいなら、眠った東さんを背負いつつ家まで送りそうな勢いなのですけど。
ふと彼女の表情が先程とは打って変わって、どこか真面目なものになっています。わたしの体をまさぐろうとしていた手も動きを止めています。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「……はい」
「もしかして美雪のこと好きなの?」
「え?」
「今さ、美雪のこと聞いたよね」
「はい」
「どうなの」
「別に好きとか嫌いとかではないです」
「ふうん」
じっとわたしの目の奥を見つめます。そしてだんだん顔が……近くなってませんか? あれ? 頭の後ろの手が私の首筋を固定していて、顔が動きませ……あ、吐息があのう、そのっ。
がらりと扉が開く音。わたしと東さんはそちらを見ました。気だるそうな笑み。いつもはストレートの髪の毛を今日はゴムで縛っています。
「泥棒猫」
ジャージ姿の姉様でした。あ、後ろに先生もいらっしゃいました。




