37㌻
目を開けると外は明るかった。色素の薄い光が緩やかに部屋に伸び、休日の生ぬるい空気が部屋を満たしていて何とも退廃的であった。いつもこの光を見ると金魚鉢の中の金魚を思い浮かべるのだけれど何故だろう。前世か何かだろうか。
少し厚めの布団に若干の鬱陶しさを覚え、あたしは布団を横に避ける。そろそろ季節の変わり目なのだろうか、寝苦しい。
ユルユルと重い足を運ばせて、茶の間に向かい、クロールでもするのかと言わんばかりに机に手を伸ばして頬をつけた。机の冷たさが頬に伝わって何とも心地良い、と小さな幸せに浸っていると盆に朝食を乗せた美雪がそっと台所の方から現れた。今日はいつもよりも朝食の準備が早いあたり、美雪も美雪なりに緊張しているようだった。
興梠にごめんなさいって言うだけなのに、変な話しだ。
細い声でおはよう御座います、今起こしにいくところだったんですという美雪に「さようか」と述べてあたしは、さっさと飯にしたいという気持ちを暗に伝えたが、美雪は聞いてもいないことをベラベラと話したので、あたしは勝手に両手を合わせて「いただきます」と唱えて飯を頬張った。鮭のハラミと白い飯のコンビネーションは相変わらず完璧すぎるほどに輝いている。後光が差して見えるよねー。
美雪は目の前に親の敵でもいるのかと言わんばかりの辛気臭さで、今日は朝食はいらないというので、美雪の朝食は私が嫌々……ほんと嫌々食べてやった。
美雪の返答を待たずに口に運ぶが美雪は何も言わなかった。いつもならば、太りますよだとか意地汚いとなかなか手厳しい一言をあたしに投げかけるのだけど、今日はただぼうっとあたしの口に運ばれる食事に目を向け続けていた。
やはり興梠のことを意識しているのだろう。あるいは自分の罪の重さに押しつぶされそうになっているのかもしれない。美雪は実は結構純粋な奴なのだ。
食事が終わり、そのまま座布団を枕に畳の上でごろ寝をする。腹が膨らみ、心は満たされ、空気の温かさも手伝って少しばかり眠くなってきたのだ。
約束の時刻まで時間はたっぷりあるものの、今回の謝罪はあたしのメンツも掛かった一大事業といえるので、遅れるようなことはあってはならないと、あたしは寝ないことを選択しようと心に決めたが、二秒後にその頑なな意志はあっさりと破られ、頭は美雪の膝の上だった。
枕よりなにより、人の膝の上というのは何故こうも落ち着くのだろう。膝枕という枕を誰か作って売ればいいと一瞬思い、次にスプラッターな映像が脳裏を掠め、あたしは考えるのをやめた。食事のあとにする想像には相応しくない。
「つーわけで時間が来たら起こしてね」
「……はい」
妙に気の抜けた表情で美雪はあたしに返答し、頭を優しく撫でた。
瞬きをした。そんな感覚だった。
目を開けた頃には周りの景色が変わっていて、あたしの頭には膝ではない枕が乗せられていて、色素の薄い朝日は黄金色の混じった午後の光に変わっていた。空気も若干湿ったものを感じる。
この体に超自然的な能力が備わっていて、未来に跳躍したとかいうことでもない限り、あたしが寝過ごした可能性は大だった。いやでもしかし、タイムスリップしたような感じだ。
妙に体が重い、体の節々に見えない枷がはめられているような動きの鈍さに若干の苛立ちを感じる。思考が上手くまとまらない。自分が次に何をすべきかが分からない。家の中を壁伝いにうろつきながらあたしは眠さと格闘した。
水を張った桶に頭を突っ込んで、あたしは何とか思考の気怠さからは脱却せしめる。そして家のどこにも美雪がいなかったこととアイツがあたしを起こさなかったことを思い出し、あたしはイヤイヤと自分でその答えを否定しつつも、最終的にそう結論づけざるを得なかった。
「あんっの阿呆め」
自分一人でアイツは興梠のところに向かったのだ。それだけなら、まあ馬鹿だなあと思うだけだったが、体の異様なほどの気怠さに美雪があたしの飯に何かを混ぜたことは明白で、それは心暗いことをしますという美雪の宣言のように思えてならなかった。あたしは少し冷たい気持ちになって客間に飾られている鬼のお面と、倉の中のお仕置き道具を引っ張り出した。
噂には聞いていたが、まさかあたしがこの禍々しい針を使うことになるとは思いもしなかった。しかも自分の妹に使うだなんてねえ。まさに狂気の沙汰だよ。
だからこそ、狂気の沙汰だからこそ、わたしは鬼になる。
根巻きのまま、あたしは美雪の家に向かう。どこにいるかは分からないが、先程まで雨が降っていたし、朝に美雪と見た天気予報で午後から雨ですとニュースキャスターが飄々(ひょうひょう)とした口調で述べていたのを鑑みれば、賢く愚かな美雪のことだ、家に連れ込むという選択をするに違いない。アタクシったらほんと天才。
恣意的に神様があたし限定で重力のパラメーターを二倍近く増量してくれてやがるのではないかと思いたくなるようなダルさを抱えながら、あたしは湿った道路を老婆のごとくゆっくりと進み、美雪の家の前に立った。ああ、くっそ眠い。
扉には鍵が掛かっていた。鉢植えの下の鍵に手を伸ばしかけ、ちょっとした思いつきに、あたしは何にもない庭の方に周って、美雪の部屋の窓のところまで向かった。体は出さずに窓際に隠れ、会話に耳をそばだてる。ポケットに入れたボイスレコーダーのスイッチオン。
「…………はあ」
まあ有り体に言えば興梠がグズグズと泣いていて、美雪の頬を張るようなビンタの音が鳴り響いていた。おい、近所に聞こえるだろ黙れって十分に聞こえてしまっていますよ美雪さん。
あたしはもう一度玄関に向かい、深呼吸して、頭を抱えた。馬鹿だアイツ。本物の阿呆だアイツ。
暴力を行使して弱い人間を従わせようなんて、そりゃ強姦じゃないの。今日日の小学生だって、そんなことしないっての。
あたしは大きな欠伸を噛み殺して、一本の針を握った。指の腹で刻印を擦る。罰という文字だ。
よし、お仕置き開始。




