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「あ、あの、やっぱり僕、帰ります」
「大丈夫だ、何かするわけじゃない。ほら、御前もお待ちしている。早く、ほら早く。……早くしろ」
「う、う」
玄関で帰ろうとする興梠を無理やり上がらせる。もう、ここまで来て逃がすつもりはない。ああ、鼓動が五月蝿い。頬がにやける。
廊下の途中で興梠は動きを止めて、申し訳なさそうに私を見上げた。
「あの……さっき玄関」
「玄関がどうした」
「靴が、あの、僕と神足さんのしかなかった……ですけど」
ああ、なるほど。よく見ているな。確かに今この家には私と興梠の二人しか居ないのだから当然、玄関には二足分しか靴はない。
御前がいると言ってしまった手前、どう誤魔化したものかと思い、正直に答えることにした。どうせ、直ぐにバレることだ。
「ああ、そんなことか。今この家には私とお前しか居ないのだから当然だろう」
「……えっ。だって、さっき、ああ、あのご両親とかは」
「ここはずっと私一人だよ」
「えっ」
「大丈夫、私は優しい。優しいからお前にも優しくできる。優しくするから、だから大丈夫だ」
興梠の手汗が酷くなる。あるいは私の手汗かもしれない。ただ確実に興梠を引っ張る手は重くなった。だが今更、道は引き返せない。もう後には退けない。
軋む板張りの廊下を奥まで進み、私は自分の部屋のノブを捻った。窓から漏れる光だけが部屋を明るく染める。
身を固くしている興梠を中に入れて、鍵を掛けた。
「ん、どうした? どうしてそんなに興梠は震えているんだ?」
「…………」
「なあ、興梠。私のこと嫌いか?」
「うー……うっうっ、嘘つきは嫌いです」
「……私のこと好きだっていってくれないか?」
「や、やです」
「じゃあ私を美雪って呼んでくれ。今だけでいい」
「…………あの、な、何なんですか? 僕、帰りたい」
横の本棚から国語辞書を取り、ポンポンと手のひらで手応えを確かめる。うむ、丁度いい。
おい興梠と呼びかけ、奴がこちらを向いたのと同時に辞書の背の部分で思い切りこめかみを叩いてやった。面白いくらい興梠は横にすっ飛び、床にうずくまった。
ぐうぐうと鼻水混じりのうめき声を上げる興梠を見つめ、辞書を本棚に戻し、背中を摩ってやる。
「大丈夫か? 痛かったな、よしよし。だけどそれは興梠が悪いんだからな。私は優しい……優しいが調子に乗るな。分かるか?」
「あ、あ、ぐう」
興梠の顔を真横で眺めていると何とも言いがたい気持ちになる。端正な顔が歪むというのは何とも背徳的だ。ああ、胸の高鳴りの抑えが利かない。心臓が口から飛び出そうだ。
「興梠、あのな、あの、私はな、お前のことが、その、好きなんだ。好きなんだよ。愛しく思ってる。なあ、お前はどうなんだ? ん、嬉しいか? 嬉しいなら笑え」
丸まって全身をモゾモゾと動いている様はまさにダンゴムシで、何とも滑稽だった。
数秒待っても興梠はウンともスンとも言わない。聞こえていないのではないかと私は思い立ち、興梠の髪の毛を掴んで顔を上げてやった。ブチブチと音を立てて髪の毛が幾分か抜けてしまったような気がするが、これは致し方ないだろう。
グズグズ泣いている興梠の頬を一度、殴った。私の胸が強く脈を打つ。
「嬉しいなら笑え。私はお前のことが好きだぞ」
「ううううううっ」
「もう一度だけいう、私はお前のことが好きだ。嬉しかったら笑え」
「あっ! あっあっ、うれっしいです。だから、もう痛いことはしないで……しないでください」
「そうか、お前が嬉しいなら私も嬉しい」
興梠は涙目になりながら、歪に頬をねじ曲げた。笑ってくれている。
頬が熱くなった。興梠は私の告白で嬉しく思っているのだ。これは告白が上手くいったと思ってもいいのだろうか。
私は振り上げた拳を元の位置に戻して、興梠に抱きついた。
もう、誰にも渡さない。これは私のものだ。私だけのものだ。ああ、興梠。愛しい愛おしい興梠。
包み紙を丁寧に解いていくように興梠の服を一枚一枚丁寧に脱がしていく。興梠はその頃には上の空で、天井をぼうっと眺めていた。抱きついた時に泣き喚いたのが煩くて少し殴ってしまったからか、黙り込んでいるが脳震盪を起こしているのかもしれない。
シトシトと降りだした雨音が現状と相まって何とも官能的で、興梠の産毛の生えた柔い肌は何とも表現しがたい触り心地で、私を興奮させた。瑞々しいというのはこういうことをいうのだと思った。
「ああ、興梠。お前をずっとこうしたかったんだ私は。初めて見た時から危ういお前をこうして私の手で滅茶苦茶に壊したかった。この体を私色に染めたかった。ずうっと前からお前を暴力的にねじ伏せて、嫌がるお前を滅茶苦茶にしたかったんだ。いつか誰かに壊されるのなら私が壊したかった。誰かにその役を譲るのは我慢ならなかった。私は変態だよ、人として終わってる。長い間、それを隠して生きてきた。自分にすら偽って生きてきた。でもお前なら、きっと私を受け止めてくれる。許してくれる。なあ、そうだろ?」
今にも崩れそうな積み木をそっと指先で押した時のようなあの不安定な感覚、それが興梠命だった。
崩れるか崩れないかの境界で息をしている興梠を見た時のあの圧倒的な違和感が、私には眩しく何モノにも代えがたいものに見えた。人はその感覚を疎ましく思うかもしれない。が、私は違った。私は興梠を見た時、あのハンカチを私に渡したあの瞬間、この純粋で清らかな人間を完膚なきまでに崩し、犯し、ひねり潰したいと思った。
お前のことを執拗に追いかけたのもお前の弱みが知りたくて、お前を襲える場所を探していて、お前に垂涎してたからだった。
ずっとずっと探していたんだ、お前のような人間を。私の願いを叶えてくれて、それを黙っていてくれる人間を。私のこの衝動を限界まで受け止めてくれる人間を。




