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 のん気に興梠は大きなドブ沿いの道を歩いていた。ドブ沿いといっても汚らしいものではなくて、無駄に使われた税金のおかげか、緩やかな曲線を描く道は綺麗で水の色も透き通って見える。鴨の親子が流水に逆らってのびのびと泳いでいた。それを興梠はぼんやりと眺めている。口が少し開いているのが大変、(あい)らしかった。

 私の家からこんなにも近い場所を毎週、散歩していただなんて知らなかった。

 予定だとこのまま道をしばらく進んで、畑だらけの遊歩道に入り、小さな山の頂上で一休みするらしいが、そんな場所まで行く気は毛頭ない。

「今日は午後から雨が降るらしいぞ」

「…………っ!」

 私は興梠の腕を後ろから掴んで言った。

 興梠は大きく体をはねさせて、私の顔を見る。見て、怯えた。あからさまに怯えて首を左右に動かす。どうやら御前を探しているようだったが、残念ながら御前はここには来ない。それを教えてやると奴は蛇に睨まれたカエルと言わんばかりに脂汗を流してヒュウヒュウと掠れた息を吐いた。

「あの……離して、ください」

「だめだ」

「あっ、わ……あの、僕を、どこへ連れてくんですか?」

「どこってそれは……私の家に決まってるだろ」

 興梠が息を呑んだのが引っ張る手を通して伝わる。奴の体は生意気にも抵抗しようと試みるが、圧倒的に力が弱い。寧ろ心地良いくらいの抵抗だった。

「あ、あの、あああ、あのあの、僕お腹空いたので、家帰らないと、行けなくて……その」

 しめたと思った。私は足を止めて振り返る。

「何で嘘を吐くんだ?」

「えっ」

「お前は今日このまま散歩を続けて夕方まで帰らない。土日はいつもそうすると決めているんだろ?」

「あ、え? 何で……」

「なるほど、つまり今お前は私を騙そうとしたのか。嘘をついて騙そうとしたのか! 私はこんなにも正直に話しをしているというのにお前は私に嘘をいって、私を傷つけたわけだ。そうか、お前はそういう人を傷つけても何とも思わない卑劣な奴だったのか。可愛い顔して心の中では舌を出して私を嘲笑っていたわけだな! ああ、幻滅だ。ああ、うんざりだ。最低だよ、興梠。

 私はお前が雨で濡れないようにと、家に招待しようとしただけなのに、お前はその善意を裏切ったわけだ。お前にとって私はその程度の人間で、裏切ろうとも傷つこうとも、どうでもいい存在ということか。お前にとっては私という人間は友人でも友達でも親友でも知り合いでもなくて、代変えの利くその他に分類されるんだな。

 がっかりだよ、興梠。悲しすぎて涙が出るな。私を傷つけた責任、どう取ってくれるんだ? まさか、ここでハイさよならというわけじゃないよな? お前はそこまで腐った人間じゃないよなあ、興梠。それとも何か、お前はそんな優しさの欠片も持ち合わせていない鬼畜生なのか?」

 興梠は自分が何をすればいいのか混乱しているようで、視線を右往左往させ、目尻には涙が溜めて慌てふためいた。本当に自分は相手を心底傷つけてしまっていて、申し訳なく思っているようだった。

 なんと愛らしく、清いのだろう。正直、欲情する。

「私の家に来てくれるよな? 嫌だとかいうはずがないよな?」

「は……い」

「何だその返事は。何だその目は。そうか、嫌なのか。嫌ならいいぞ、来なくても。お前なんて絶交だ。最低な奴だなお前。御前にも興梠は最低な奴でしたとはっきり伝えておく。ああ、きっとがっかりされるだろうなあ。友人だと思っていた奴がこんな卑劣なことをやってのけるのだから、それはもう残念がるだろうし、きっと軽蔑なさるだろうなあ」

「あああ、あの! あの……う」

 私が振りほどいた手を興梠自(みずか)ら掴む。汗ばんだ手が私の手を握る。片方の手で私の手首を捕らえ……そしてもう片方の手で私のブラウスの背中を掴んだ。

 唇が持ち上がり、ほくそ笑みたい気持ちになるも、ぐっと堪えて私は振り向く。興梠は打ち捨てられた子犬のような目で私を上目遣いに見ていて、少し肩が上下していた。絶交という言葉が効いたのか、御前というキーワードが効いたのかは分からないが、興梠は今にも泣き出しそうだった。あの興梠がここまで表情を出していることに興奮を禁じ得ない。

 私は今、自分が出せる最大限の冷酷さで興梠を見つめて言った。

「何だ? 何かようか? 卑怯者」

「あ、あ、の……行きます」

「聞こえない」

「い、行きます」

「どこへ? どこへなりとも行けばいい」

「神足さんの家、行きます」

「それが人に物を頼む態度か? 相手に失礼なことをしたというのに随分と上から見た物言いだな」

「ごめん……なさい。ああああ、あの、僕、喋り慣れてなくて、その、神足さんの家、に連れて行って下さい」

「……まあ、お前がそこまで頼み込むんだったら、私も連れて行くにやぶさかではない。ほら、私の手を握るんだ。違う違う、指を……そう絡めるように」

 切羽詰った顔で興梠はウンウンと小さく首肯しながら私の言うことを聞いた。嫌われるのが怖いのだろうか。

 興梠が上目遣いに私を見ていることに気が付く。何か言いたいことがあるらしい。

「なんだ?」

「あの、神足さんの家に、その、東さんは居ますか?」

「……………………いらっしゃるが? 何だ?」

「あ、あ、なら、いいんです。ごめんなさい」

 奴はほっとした。ほっとしたのだ。緊張にあった表情が少し柔らかい顔になったのだ。

 その仕草に私は何とも何とも何とも何とも何とも何とも何とも何とも形容しがたい気持ちになった。いいや、いやいやそれを私がするのは大変おこがましいし、あの方は特別で、いやそうなれば逆にそういう目で見るのもある種の正当性を持っているようにも感じる。うん、ならば思うくらい許されるだろう。この感情はつまり、つまるところ、うん、そうだ。

 嫉妬だ。

 私は御前に今、少しばかり嫉妬した。いや、御前に興梠が恋などしようはずがないし、したところで到底叶わぬものなので、どうしようも無いことなのだが、私は今の興梠の心やすらぐ一瞬の表情を見て確かに御前に嫉妬した。怒りがふつふつと湧いてくる。興梠が指が痛いという、可愛らしい(さえず)りさえも、(はらわた)に突き立てられた鋭い刃のように思えた。

 いやしかし、興梠が何故、御前のことを聞いてきたのか。何故、御前の名前を聞いて安心したのかが非常に大変気になるところだ。いや、これは私の任に御前の露払いという項目があるから気になっているわけであって、個人的な感情から来るものではない。従ってこれは嫉妬とはまったくもって関係のない感情だといえる。

 だからこそ、露払いのために、その辺の事情ははっきりと聞く必要があるな。場合によっては暴力も許されるだろう。なんせ、これは御前の為なのだから、当然だ。

 私は自宅の扉を開き、興梠を家に入れて、鍵を閉めた。

 虫かごはもう、開かない。

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