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美雪から聞き及んでいた通り、その女は脳の一部が壊死しているのかと言わんばかりに欠けていた。美雪は興梠の姉を「表情がない」だとか「表情が極端に少ない」と評したがそれは間違いなのだと思う。姉は表情がないのではなく、全てを憎悪し、恨み、呪っているが故に表情といったものが欠けているのだ。自分の見ている全ての世界を否定しているから、見ている全てを憎悪しているから表情を必要としていないのだ。人が虫を見ても何とも思わないように。
ジャージ姿の女は酷薄そうな唇から「命はどこですか」と言った。恐らく敬語を使うことすら煩わしいと思っているに違いない。
教師がカーテンの掛かったベッドまで姉を移動させると、彼女は二人きりにしてほしいと教師を蚊帳の外に追い出した。
横で椅子に座っている美雪は落ち着きがなく、自分のしでかしてしまったことが露見することになるのではないだろうかと、何度も目を瞬かせ、怯えていた。それは後悔だとか、自分の罪への恐れではなく、罪が暴かれることに怯えているのだ。
あたしはこれからの美雪との付き合い方を考えねばなるまい。もしも人に噛み付く犬であるなら、噛み付かないようにするのもまた主人の義務なのだ。それに興梠だけに執着をしているのならまだいいが、奴だけではなく、そこらかしこの少年少女に手を出すようなタチの人間だったのなら、あたしはあたしなりの社会への責任を取らなければいけない。妹を手を掛けることを想像して気が滅入るが、既にこの手は血に塗れているのだ。今更、人でなしが人を気取ってもいか仕方ないだろうと思った。
サッと白乳色のカーテンが開く。姉は興梠の手を引いて、あたしと美雪を一瞥した。美雪はその目とかち合い、逸らす。それだけで十分だったようで、姉は真っ直ぐと美雪のところまで来ると大きく腕を振りかぶり、拳で美雪の顔を殴った。大きな音を立てながら美雪は後ろに椅子ごと倒れた。鼻血をポタポタと滴らせ、付きそう教師に「大丈夫です」とか細い声で呟き続けた。
無言で去ろうとする興梠の姉を私は引き止めた。興梠の姉はうっとおしそうにあたしを品定めし何だ、と答える。清々しいほどの憎悪と拒否の姿勢にあたしは笑いたくなるも、笑えば全てが台なしなのは眼に見えていたので、シリアスっぽい空気で興梠の姉に「幾ら何でもやり過ぎである」ということを伝えると、冷えた目で姉は美雪を指差し「あのクズが何をしたのかお前は知らないわけではないだろう。人でなしはこうなって当然だ。ゴミに生きる価値はない。まだ甘くした優しい方だ。寛大な私に感謝しろ」というようなことを吐き散らた。
寛大どころか尊大なその言葉にカチンときたあたしは「そんなに命ちゃんが大切なのに、命ちゃんに酷いことしてるんですよね」と満面の笑みでいってやる。すると目の前の背の高い女は一度目を瞬かせ、あたしの名前を聞いた。それに律儀に答えてやると女は口端を持ち上げて「ああ、色狂いの家の……。どうりであのゴミも狂ってるわけだ」とのたまった。あたしがその言葉に絶句していると女は続けて「人攫いで色情狂の下衆な鬼どもが偉そうに汚い口を開くな」と言った。はっきりと言い切った。
自分の恥部を見られたかのような焦燥に黙り込んでいると、女は私をカカシを見るような目から、ゴミでも見るかのような視線に変えて見下し、部屋を後にした。
目の端に映った興梠を撫でる表情だけは人間らしかった。
翌日、あたしは少し遅れてから登校した。興梠は休み時間になると毎回屋上まで行き、フェンス越しに青い空をぼうっとした目で眺めた。飛行機が一筋の白い雲を描くのを見て、奴は手を広げてそれを掴もうとする。なんともその仕草が可笑しくてあたしは笑ってしまう。興梠は精神年齢が大分低いに違いない。
お昼休みになると、奴は律儀にも約束を守るためか屋上に来て、日陰に潜り、一人で弁当を開けていた。
「なんでついて来るんですか」
あの日から初めて興梠は口を開いた。
あたしが美雪にお前が何をしているのか見てきてほしいと言われたのだと教えると、奴は何故美雪がいないのかと聞いてきたので、あたしが美雪は謹慎処分中だと教えると興梠は少し驚き、瞳をいつもよりも幾許か膨らませてあたしを見た。続けて、ごめんなさいと謝った。いやまあ、ただ家で蔵の掃除をしているだけだし、謝るほどのことではないとあたしは思うのだが、まあ何か説明するのも面倒だったし謝らせておく。
興梠は「今日の東さんはやけに優しい」と言う。人の悪意に敏感なだけあるらしく、そこら辺は流石に気がつくらしい。
あたしは主人なりに美雪がしたことについて悪いと思っているのだといいながら、興梠はあの時の記憶がちゃんと残っているということ気が付き、驚いた。何故ならあの手の泣き方をする人間は防御作用のためか別の要因があるのか知らないが、その時のことを“なかったことにする”のが常だとあたしは知っていたからだった。興梠はそれを問われると、恥ずかしそうに俯きながらあたしが興梠を庇ったこと、助けたことを覚えているといい、感謝の言葉を連ねた。
何だか恥ずかしいような痒いような感じがした。あたしにとっては興梠自身が大切だったとか守りたいとか、そういう善意や好意から来たものではなく、単純に自身のトラウマから行ったものなので、正直それは違うと思ったが、感謝されるのは何となく気分がよろしいので、そのまま感謝されることを選んだ。
まあ折角だしということであたしは興梠に質問でもしようと思い、姉とのそーゆー関係というのは辛くはないのかと聞いてみたところ、何のことだとすっとぼけたのであたしは奴の律儀さを利用して、自分の秘密と引き換えに話しを引き出してみた。興梠は些か大げさではないかというくらいに驚いて見せたが、まあいつもがアレだし、普通の人間の驚き方に比べれば微々たるものだったから、少ないといえば少ないと言える。
で、興梠は「あたしと美雪は腹違いの姉妹である」という話しの対価に姉との関係をちらりと述べたが、まとめると「姉は仕方がなくボクチンこと命ちゃんを虐めているのです」とのことだった。本当は嫌だけど、でも仕方なく虐めてるとかなんとか。
それ絶対騙されてるよとか思いつつも、まあ本人にとってそれが一種の救いであるなら、それに口出しするのは些か非情であるとあたしは思い、口を噤んだ。
あまり突っ込んだ話しは聞けなかったが話しを聞いている限りでは、性的な接触のかほりがするし、父と母がいるのにどうして気がつかないのかが謎だ。もしかしたら興梠家の闇はあたしが思っている以上に深いのかもしれない。




