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30㌻

「美雪……」

 何が起こっている。何が起こっているんだ。何をお前はしている? 獣じみた表情で、獲物を喰らって、お前は何をしている。

 あたしの知っているお前は理知的で、大人しく、人を傷つけず、正を愛し、悪を憎む。そんな清い人間であったはずだ。それなのに今のお前は、幼子に手をかける鬼母神ではないか。

 頭が痛む。記憶が閃光のように奥底から蘇る。黒い土に埋めた記憶が掘り返されて、あたしの手足を掴む。

 やめろやめてくれ、美雪それだけは。

 興梠、その表情はやめてくれ。

 それではまるで……………………。

「美雪っ!」

 あたしは走り、平の手で美雪の頬を叩いた。美雪はバランスを崩して、その場にゆらりと尻餅をついた。

 あたしはそのまま興梠のはだけた衣服を正す。涎と鼻水その他もろもろで濡れそぼっていて、気持ち悪いが、そんなことに構っている場合ではなかった。

 首筋の歯型にぞっとする。まるっきり獣ではなかいか。人を傷つけて何も感じず、当たり前のようにしている獣。自分たちよりも弱いからという理由で儚い花を握りつぶす獣。

 美雪は自分が何をしていたのか、よく分かっていないといった表情であたしと興梠を見て、歪に笑った。悪夢だとか幻だとか幻影だとかそんな何かを見て「ああ、これは夢だ。よかった」と、そんなことを思っているような笑みだった。しかしその意識は次第に(うつつ)と気がつき、強張り震える。自分の罪深さに気がつき震える。

 小さく、そんなそんなと呟くが、そう思いたいのはあたしも同じ気持ちだ。夢、幻であればどれほどよかっただろうことか。

 今この現状で何をいっても無駄だろうと踏んだあたしは、今日は家に帰れというと美雪は慌てたように何かを言おうとした。それは現実の否定であり、逃避だった。だからあたしは言ってやった。

「お前は今、ここで、興梠を……興梠を犯そうとしたんだ」

 苦々しく、口にするのもおぞましい言葉をあたしは吐きかける。自分に近しく、最もあたしに長く付き添った人間にそう呟く。それがどういう意味を孕んでいるのか理解しつつも、自分の血を否定することになろうとも、あたしはそう呟いた。その言葉に美雪は唖然とし、愕然とし、地を這って興梠の足をつかんだ。

 弁明、あるいは許しを乞うためか。

 興梠は園児のような悲鳴を上げて、あたしの服のシャツをぎゅっと握った。それが苦しい。

 お前がいつまでも無表情であり、ただ犯されていることに対して耐え続けているような人間であるならば、あたしもここまで心を揺さぶられることはなかっただろうに。それはただ害意から逃れようとすることを諦めた怠惰な行為だからだ。諦めという愚かな行為だから。だけど、お前はこうやって精一杯嫌だと周囲に伝えている。赤子が自分の意見を泣くことでしか伝うことができぬように、お前は泣いて助けを乞うた。誰かに助けを乞うた。

 掴まれた足から悪意が自分に伝播していくかのように興梠命は怯え続け、狂ってゆく。頭をあらぬ方向にねじ曲げ、涎を滴らせ、アーアーと泣き叫ぶ。その泣き叫ぶ声があたしの全身を殴打し、裂き、串刺しにする。我慢ができない。

 あたしは美雪の手を蹴り飛ばし、興梠を背中に隠した。美雪は何故といった表情であたしを見つめるが、お前にはこの興梠の戦慄く手や怯えきった表情が見えないのか。お前が引き起こした暴力によって苦しんでいる、息も絶え絶えな者の姿が見えないのか。それはもう、狂人と同じだよ、美雪。

 言い訳をしようと開く口にあたしは辛辣な言葉を掛けてやる。お前が何をして何がどうなって、どうしてこうなったかを冷たく教えてやる。

 美雪は現実を、あるいはあたしを否定するかのように両の耳に手を当てて震えた。だけど結果は何も変わらない。真っ赤に染まりきった獣の口は血に(まみ)れているのだ。否定しようにも、その血の色香を獣自身が証明してしまう。

「今日は帰れ。一週間は家から出るな」

 あたしがそういって興梠を連れながら、移動しようとすると美雪は到底尋常とは言いがたい目であたしに近寄った。その表情は己の獲物を(さら)われた獣のそれだった。あたしはそれにウンザリとしながら、興梠を保健室に連れて行く有無を美雪にいうと美雪は自分も同行したいと言った。興梠を凝視しながら、震える声で。

 あたしにはそれが武者震いのように思えて気が気でなかった。ある日、己の力が人ならざる領域にあることに気がついた怪物を見るような、そんな気持ちだった。

 あたしは冷たくあしらう……がしかし美雪はそれに動じつつもついてきた。送り狼と言わんばかりの視線で着かれず離れず。


 保健室にたどり着く頃には美雪のその高ぶりも収まったのか、獣のような雰囲気は小さく縮こまっていて、押せば崩れそうなほど脆く思えた。自身の罪悪の重さに耐えかねているような青白い表情だった。

 白衣を来た養護教諭の女は何も聞かず、興梠を見るとベッドに運んだ。奴はシャクリ上げながらベッドで胎児のように丸まり、外界と己を完璧に隔てた。

 その教師曰く、興梠は生まれついての自閉症であり、至極一般的な対応ができないのだというが……あれはどう見ても虐待の結果だろうに。理論ではそう見えるのだろうが、あたしには、あたしの経験ではあれと相違ない症状は虐待以外の何モノでもなかったし、それ以外のものには到底見えなかった。


 それからしばらくして、興梠の姉が来た。

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