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パラパラと小雨が窓を叩く。渡り廊下を挟んで見える池にはいくつもの波紋が連なり、春の色香を雨の匂いと共に私に伝えた。御前は少し寒いという。私は少し残念な気持ちを抑えながら視界と窓を隔てた。見上げる空は薄墨色で、不穏ながらも酷く私を安心させる。
私は御前と一緒にしばしの余暇を味わっていた。御前は藍染めのお召し物に身を包み、私の耳かきにただ時間を消費していた。
御前はあれから一言も私を責めるようなことをいっていない。おそらくはきっと、それが私を最も苦しめることだとご理解されているのだろうと思う。事実、今も気が狂いそうなほど辛い。飯は喉を通らず、血反吐が口から出る。
普通なら恨み言の一つでも吐きそうなものだったが、私はそれがありがたかった。私をこうやって監視して、責め続けてくれることがありがたかった。ひとりでいたらきっと耐えきれず、私は興梠の家にいってしまうだろうことは明白で、家の前で何時間も待つことは明らかだった。
分かっていて、私はいう。分かっていて御前は答える。
「東さんは学校にいかないんですか?」
「今日は雨だからいっかなーい」
「もう」
弛んだ空気。
その背景にはぞっとするような出来事が溢れているというのに、なんだというのだろう。この停滞した空気は。
「そういえば」
「はい」
「そういえば美雪は知ってる? この町の図書館には何でも知ってる不思議な人間がいるんだって」
「ああ、私も聞いたことがあります。赤目の白い妖怪の話しですよね? 何でも、大切なものと引き換えにどんなことでも教えてくれるとか」
「へー、あたしの方では人間だって聞いたけど、美雪のほうじゃ妖怪なんだ。まあ、何年も前からある話しらしいしね」
「どちらにせよ、この世のことを何でも知っている人間などいませんよ」
知っているなら、是非とも教えてもらいたいことはいくらでもある。興梠の家族のことや心のこと、好きなもの嫌いなもの。姉との関係や私のことをどう思っているのか。
御前は耳かきの手を柔く押し退け、部屋の隅から私たちを見下ろしているお面に指を向けた。
「いやさ、そいつってああいうの持ってるのかなって思って」
「同郷の士であるかどうか、という話しでしょうか? それは現実的ではないと思います」
金色の目を持つ、鬼のお面。
聞くところによると、あれは飢饉に苦しむ島の人間を救ってくれた鬼を祀るためのもので、その島出身の者はみな同じような鬼のお面を持っているのだそうだ。
島出身の者はみな、知力、体力共に優れ、自分の体に鬼の血が流れていることを強く誇っていた。それはもう、自分たち以外のものを“人間”と呼び、島の外を“下界”と呼ぶほどに。
御前はそれを酷く嫌っていたことを思い出す。
「そうかなあ。妖怪よりかは現実的だと思うけどねー。ああ、そいつね、実際にいたんだけどさ」
「えっ!?」
私の素っ頓狂な悲鳴に御前はからうかうように笑った。
「あー、おかしっ。いやあね、まあ、その何でも知ってる奴は確かに何でも知ってたけど、ただの人間だったよ。話し聞いてみたら、そいつのおばあちゃんの代からそういう道楽やってたんだって。代々受け継がれていく意志……なんていうとちょっとカッコいいよね」
「ええ、まあ」
私は実際に存在していたという驚きに上手く相槌が打てない。その人物がどこにいるのかということを聞きたくて仕方がなかったが、喉の奥で抑えつけて、御前の言葉を待つ。
「美雪はさ、自分の母親とかに会いたいと思ったりはしないの? 両親が恋しいとか思わないタイプ? あたしはホラ、わりかし一人は辛いからおかーちんが帰ってきたときは何だかんだで嬉しいけど、でも美雪はあたしよりも長い間、会ってないじゃん?」
「そう……ですね。確かに母には暫く会っていませんね。それどころか父は生まれてこの方一度も見たことはありませんけど、でもどうしてでしょう。そこまで恋しいという気持ちにはなったことはありませんね。幼い時から奥様に可愛がっていただいているからかもしれません」
「……うわー、なんか優等生って感じの答えだね」
御前は起き上がると一頻り笑い、私を抱きしめました。暖かく、柔らかい。若干の汗の匂い。
「あたしたちは家族だよ」
「嬉しいです」
本心からだった。
「家族だから、あたしは美雪を見捨てないし、本気で怒るし、望みがあるのならできる限りの協力はする。今は耐え時だ。美雪は興梠のことが好きかもしれないけれど……」
「す、好きでああいうことをしたわけじゃ、ありません。あの、性的に欲求不満だったところにあいつがいただけです」
そこは譲れなかった。かくして通すつもりだった。
御前は一瞬眉を潜め、そして続けた。
「まあ、それでもいい。とにかくお前は人を傷つけたんだ。元の鞘にもどるにはそれなりのリスクと時間を覚悟しなくちゃいけない。わかるな?」
「……はい」
「美雪は今、確かにハイと言ったね。あたしはそれを信じるよ。……うん、大丈夫そうだ。まあ、それでね、その何でも教えてくれる奴にあたしは聞いたのさ、興梠のことを。いろんなことを聞いたよ。まあ、そしたらあいつ土日……つまり明日と明後日、ある時間になると散歩に行く癖があるんだってさ。分かる? その時間にいけば興梠に会えるってことだよ。うん、だからね、明日あたしと一緒に興梠に謝りに行こう」
「はい、ごめんなさい。何から何までご心配をお掛けして……」
「野暮だよ」
もう一度、御前は強く涙ぐむ私を抱きしめて、頭を撫でた。
私はそれから明日の予定を聞き、興梠の散歩のルートを聞き、心構えをして、奥様から“もしもの時に”と預かった薬を明日の朝食に混ぜることに決めた。
これは私の問題で、御前には迷惑をかける訳にはいかなかった。私は私のケジメを自分自身の力でつけなくてはならないと思ったのだ。




