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 空を仰ぎみれば何かが浮かぶような気がした。

 しかし、そうしている間にも現実は残酷に時を進ませる。朝起きるのが今日ほど辛かった日もない。学校に行くのが今日ほど嫌だった日もない。足は鉛のように重いし、吐く息は私の内側の肉をそげ落としているような感覚を私にもたらした。御前が行くと言わなければ私も彼女に連れ添って休みたい気持ちだった。

「ほら、ちゃっちゃか歩く!」

「……はい」

 胸が悪い。気まずい。まともに顔を見れるかどうか分からない。今直ぐ逃げ出したい。だけど体は否が応なしに前へと向かう。校舎に入る。上履きに替える。静まり返った廊下を進み、教室の戸を開いた。

「オッス、コーロギ! 久しぶり!」

 明るく御前が話しかける。心臓が破れそうなほどドクドクと高鳴った。嫌な高鳴りだ。

 興梠はいつもと同じように首をこちらに向けて「昨日も会いましたよ」といって「おはようございます」といった。

「お、おはよう。興梠」

「おはようございます」

 変わらない。変わらないことが逆に私には不自然に思えた。

 何故、普通にしてられる? 何故、普通にできる? 当たり前のように言葉を返して、当たり前のようにそこに入られるんだ。お前は昨日、あんなことをされて、それを私に見られて、怯えてて、助けを求めてて、嫌がっていて、それでそれなのに……。

 私のためか、御前は興梠にいつも以上に話しかけていて、話しかけてくれていて、時折ちらりと私の目を見た。

「まじかー、興梠テレビ見ないのかー。あたしも見ないんだけどねー」

「…………」

 その目は何を物語っているのだろう?

 私も話しに入れといっているのか、昨日のことを聞けといっているのか、このまま忘れていつものように平穏を享受しろといっているのか、あるいは全てなのか。私には分からない。ただじっとりと汗ばむのを感じる。

 私は私の責任で私の正しいと思っていることを自分自身で行わなければならない。結果がどうあれ、それをしなくてはならない。それをしないという選択肢も確かに存在してはいるが、だけどそれはただの逃げでしかない。そう昨晩、御前は仰った。

 今ここでしなくてはならないこと。

「こ、興梠……! あの、あのな、私はお前に聞きたいことが……」

 そういった途端、興梠は急に席を立ち上がった。

「用を思い出しました」

「待ってくれっ!」

 そそくさと興梠は私の横を抜けた。御前は知らぬ存ぜぬといった顔で私たちを見ていた。それはお前たちの問題だと言っているように私には感じた。あくまで手助けしかしないぞ、と。

 私は目だけで御前に会釈をすると、小走りに逃げる興梠を追いかけた。廊下を走ってはいけないという校則を律儀に守っているためか、元々足が遅いのか直ぐに追いついた。アイツの首根っこをつかんで動きを止める。ぐっと喉が響くような音がしたが気にしない。

 購買部のところまで引きずって行って、壁際に追い詰めると奴を真正面から捉えた。

「なあ、待ってくれ。教えてほしい。昨日のことを」

「知りません」

 目が泳いでいる。手が汗ばんでいるのか、神経質っぽく何度も手を服に擦りつけていた。

「昨日、あたしはお前と一緒に下校した。お前の家を見た」

「はい」

「そこでお前の姉が出てきて、お前に……お前の」

「知りません」

「何で隠す?」

「隠してません」

「じゃあ本当のことを言え!」

 私の大声に驚いたのか、興梠は一瞬目を閉じて、身を縮めた。

「あ、いや、すまない。驚かすつもりじゃないんだ。ただ私は知りたいんだ。分かるだろ?」

「わ、分かりません」

「何で……何で言ってくれないんだ! お前が望むのなら、あんなことくらい……!」

「えっ」

「いや、その、お前が助けを求めてるなら、私はいつでも力になる。だから本当のことを言ってくれ、興梠。お前は昨日、姉に――――」

「あの、や、やめて……下さい」

 購買部の大きな窓から入る、色の薄い日光が興梠の唇を艶かしく私に見せた。この唇はもう既に女の味を知っていて、誰かの味を知っていて、私以外の誰かの味を知っていて……いや、もしかしたらそれ以上のことをあの女にされているのかもしれない。それ以上のことというのはつまり……。このつぶらな瞳は、毎夜誰かの為に今のように潤ませていて、頬は熱く火照り、グズグズと泣きながらこの唇は色の入った声で泣くのだろうか。この臭いも、このしょっぱい汗も、何もかも全部、私以外の――――――――

「――――美雪っ!」

 バンと何かが破裂するような痛みが頬を襲った。キインと片耳が内側で音を鳴らしていてバランスが取れない。私はそのまま、ずるりと横に尻餅をついた。

 音が回帰する。視界が、現実が回帰する。

「……あっうっあっ、うっうううえっ」

 興梠が泣いてる? 声を押し殺すように泣いていて、乱れたシャツから覗くうなじを朝日が白く染めていて、興梠は首を変なふうにねじ曲げながら、ボロボロと涙を流し、御前に服を直してもらっているようだった。遠目で見れば母親が自分の子供にパジャマを着せているようにも見えたかもしれない。

 いや、え?

 どうして、いや、だってだってそんな。

「美雪、今日は帰れ。幾ら何でもこれは最低だぞ」

「えっ、いや、私はそんな、そんなつもりは……」

「お前は今、ここで、興梠を」

「ほ、本当なんだ。興梠、私はそんなつもりは!」

「興梠を犯そうとしたんだ」

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