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帰り道、やっぱり春の色合いはどぎつく私には映った。何もかもが強烈なのだ。川のせせらぎも、ウグイスの鳴く声も車の排気音も、暖かい空気も、全てが全て。
御前の家を通り過ぎ、私は一旦自分の家に向かう。おかしなことに鍵が空いていた。玄関には御前の靴。どうやら勝手に上がられていたようだった。
台所の手前の道で嬉しそうにスナック菓子の袋を胸に抱えている御前と鉢合わせをした。驚いたのか、小さく体を跳ねさせた。
「東さん」
「あっと…………おっかえりー。いやさ、家でごろごろしてるのもつまんないから勝手にあがちゃった! あはは」
そのついでに隠しておいたお菓子を見つけたようだ。また違う場所に隠さなくてはいけない。
「……あれ、美雪どうしたの?」
「何がですか?」
「なんか、凄く落ち込んでる顔してる。何かあったの?」
「いえ、別に」
その言葉に私ははっとして顔に力を入れ、頬を持ち上げて笑った。不自然だったせいか、余計に御前の顔から笑みが薄れていく。
「本当に大丈夫?」
「ええ、勿論ですよ。ああ、今からお夕飯作りますね。今日はこちらで食べられますか?」
私は矢継ぎ早に言葉を重ね、そのまま台所を潜ろうと御前の横をいそいそと通り過ぎようとしたが、腕を御前に掴まれ動きを止められた。相変わらずお力が強いので腕が痛む。
「全て聞こうとは思わないよ。それは野暮だからね。でも、それなりに言わなくちゃいけないことはあるよ。神足美雪」
その言葉に怒りにも似た鋭い感情が駆け上がってくるのを感じた。言葉が溢れて止まらない。不思議だ、先程は全くと言っていいほど声が出なかったというのに。
「あの、あの……東瑞希さま」
「何?」
「…………私は人生には絶対に間違ってはいけない選択肢というものが存在しているように思います」
「確かにそういうものもあるな」
「私は今日それを間違えてしまいました。指を咥えて見てる場面では……なかったのです。目の前に助けを求めている者がいるのなら助けなくてはならない。だけど私にはそれができなかったのです。こんな私は正しいといえるのでしょうか? 私には私が正しいとは到底思えません」
御前の腕を握る手に力が篭る。がさりとスナック菓子の袋が床に落ちた。振り向くと彼女は酷く冷たい目をしていて、普段の弛んだ唇は酷薄そうなそれに変わっていた。まるで何かを軽蔑しているような瞳。私を矮小な何かと思っているような瞳。その瞳が私にゆっくりと冷たい言葉を投げかける。
「興梠と何があった?」
「今日、奴の家へ行きました。奴を言い負かして、一緒に家へ。それで、私は家を見れて満足したんです。ああ、興梠はこういう家に住んでいるのか。ここに住んでいるのかと納得したんです。そして私は帰ろうとしました。帰ろうとしたら、興梠の姉が出てきました」
「それで」
興梠の表情が浮かぶ。ぼんやりとしつつも眉間にシワが寄っていて、手は握りこぶしを作り、小さく震えていたあの表情が。
御前に語りながら私の手は握りこぶしへと変わり、奥歯がギリギリと鳴った。胃がひっくり返りそうなほど痛みを訴え、後悔の念が思考を苛む。金属と金属がぶつかり合ったときのような振動が視界をねじ曲げていて、心をねじ曲げていて、私は私が何をいっているのか上手く理解できない。ただあの時のことを心のそこから後悔していて、そのことを言っているということだけが伝わる。
「その姉は興梠の唇を奪ったんです。強引に奪って、見せつけるように奪って、興梠はそれを助けてほしそうに! 助けてほしそうにしていたんです! なのに、私は声が出なくて、やめろの一言がいえなくて、言えなくて……」
「ほう、それで」
「それで、興梠が、家に、無理やり連れていかれるまで、ただそこで、見てました」
「そうか、大変だったな」
気がつけば御前はそこにいなくて、冷蔵庫から冷えたお茶をコップに移しているところだった。肉厚の透明なガラスに茶色ともオレンジ色ともつかない液体が空気の泡を孕ませながら注がれていく。彼女は無言でそれをさし出して、私はそれを喉に通した。喉を刺すような冷たさだった。
「私は……どうすればよかったのでしょう? 私はあの時、何をすれば正しかったのでしょうか」
「お前はその時に最も正しいことをしたとわたしは思うよ。誰でもそうする。助けることは正しいとはいえないのかもしれない」
「……では! では、自然のままにあることが正しいと? 御前はどうするんですか? そういう時にあなたなら、どうされるのですか?」
「美雪、助けることでギリギリのバランスが崩れるのかもしれないよ。興梠が支えになっていろんなものを抑えているのかもしれない。世の中には誰が率先して泥を被らなきゃいけないことがあるんだと思う。美雪はそれを感じたから声をかけなかった。その行ないは正しいとわたしは思う」
「でもそれでは私は納得できません! 目の前で助けを求めているのなら助けたい! 誰かが不幸になることで、周りが幸せを享受するなんて、そんな酷いことあってはいけない! そんなもの、奴隷です!」
「そうかもしれないな」
御前は私から飲みかけのコップを取り上げると小さく笑って私を抱きしめた。その笑いの意味も私にはよく分かる。世界がそんなに甘くはないということを御前は言っているのだろう。そしてそれを私は分かっている。私はわがままとエゴからそれを言っていて、それを御前に見透かされたのだ。
御前は言葉の端々に言っている。興梠を助けることは何かを失わせることであると。私たちがそれをすべきではないと。
御前の言っていることも最もだ。何かも忘れて、明日も今日と同じように興梠と接すればきっと気分はいいし、楽しいし、何も恐れることはない。だけどそこで別の可能性を持ち出すということはその幸福を捨てさせることに他ならないのだ。
不条理さを消すことは絶対にできない。それも分かる。だけどじゃあ、正義という言葉は、私の好きな正しいという言葉は何のためにあるんだ? 見せかけで、何も無い絶望した人間がすがり寄るためだけに存在しているとでもいうのだろうか。
「御前……鈴鹿御前」
「どうした?」
やはり私には不条理さを許すことはできない。それがあることは至極当たり前にしても、それを許せるか許せないかという問題は全くの別問題だと私は思う。だからそれを口にしようとして私は御前を見た。
彼女はきっと私なんかが何を言いたくて何を言わんとしようとしているのかなど分かっているのだろう。だからそんなに困った顔をしていて、悲しそうな顔をしているのだろう。私はきっと幼稚で、何も分かっていないのだ。
解決策も思いつかず、どうしていいのかも分からず、自分の考えに決着もできず、ただ御前に全てを投げかけ、ひたすら駄々をこねているのだ、私は。
そう思うと何だか涙が出た。
「私は……わ、わたしはどうしたらいいのでしょう? わたしは……!」
「どうしたらいいのかねえ」
私はただその場で泣き続けた。




