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21㌻

 空を仰ぎみれば何かが変わるような気がした。しかし何も変わらない。何も現実は変わらない。

 ジャブジャブジャブジャブ。ゴゴゴゴゴゴゴ。

 水が渦を巻いて下水に流れていく。蛇口は忙しなく水を流し続けていて、あたしの手の泡を汚れと共に落としていく。あたしは洗いすぎた自分の手が赤くなり始めていることに気がつき、そこで洗うのをやめた。トイレの鏡には汗だくの女が写っていて、それはあたしだった。

 手の匂いを嗅ぎ、すり込んだような石鹸の匂いに安心する。もう、血の臭いはしない。

 私はもう一度蛇口を捻り、手に水を貯めて顔を洗った。まだ春先の水は冷たくて気持ちいい。頭が研ぎ澄まされるような感覚。

「血の臭い、か……」

 どうして、いや何故アレはあたしのことが分かったのだろう。


 事の始まりは私の世話係の神足美雪の一目惚れから始まった。

 まず、あたしは学校というものに対して価値を一切感じてはいない。だから常に家にいるし、惰眠を貪り、好きなことをして、好きなことを考える日々を最高のものとしているし、そうすることに躊躇や迷いはない。穀潰しといわれようとも、それだけの資産があるのだから何ら問題はないと思う。だけれど、美雪はそうでないらしく、あたしにしっかりと学びそして家を背負って欲しいと思っているらしかった。

 誰があんな家を継ぐものかとあたしは思うが、神足の家の者は、もはや宗教と呼べるほどに、そういうことを刷り込まれていて、今更その考えを改めるようにするのは無理に思われた。美雪はいつか私が母の故郷に帰り、立派に務めを行うことを夢見ているのだろうけども、あんな地獄のような場所にはいこうとは思わないし、戻りたいとも思えない。誰が戻ってやるものか。

 だから私は美雪が毎朝学校に行きましょうと誘う言葉をヒラリヒラリとかわし続けた。

 いつものように堕落した生活を堪能していたある日のこと、美雪は顔を赤らめて、あたしに頭の中に花でも咲いたのかと疑いたくなるような桃色の話しを聞かせた。内容は何とも誇張されたような話しだったが、言ってしまえばハンカチを拾われた者と拾った者の拙い関係らしく、美雪のいうような白馬に乗った王子様が現れたような甘ったるいそれとは違った。

 初めは呆れつつそれを聞いていたものだったが、不思議なことに何度も聞いているうちに、だんだんとそのコオロギという虫のような名前の人間のことが気になり始めた。どんだけ素晴らしい人間なのだと。

 美雪の話しを詳しく聞くと、およそ人間らしからぬ感情の持ち主で、いつもぼうっとしていて目はどんよりと濁り、一日に喋る言葉の数は二百文字もないだろうということだった。どこに惚れる要素があるのだろうとあたしは思うのだけれど、どうやらその虫人間は顔がすこぶるいいらしい。なんだお固い神足の家も所詮は顔かと少し呆れた。

 その興梠と名乗る人物は確かに人間離れした風体を持っていた。瞳は死んでいるし、何だか体から負のオーラがにじみ出ているし、覇気の欠片もない女々しい顔をしているし、兎に角マイナス要素しか見えてこないが、うん、確かに顔はいい。いや美しいとは違う。可愛らしい顔立ちをしていた。

 だがしかし、体からにじみ出ているその何かは、明らかに良くないもので、閉じきった心はあえて自分から行っていることのように思えた。他人に触れることを恐れているような、そんな“ふう”だった。つまり日常的に傷つけられ慣れていて、他人を許容……あるいは信用できないような人間になってしまったのだろうとあたしは思った。

 正直、そういう人間と美雪が付き合うのもちぐはぐで、物珍しくて面白くは思えたが、あたしは一応これでも美雪のスポンサーであり、面倒を見てもらっている立場であり、私には恋人がいないのに先に美雪にできるのも何だか腹立たしいという気持ちもあり、ズバズバとこいつは使えませんと否定した。その時の美雪の表情といったらもう、あれだ、ソフトクリームを食べる前に床に落としてしまったような子供のそれだった。

 対して興梠命(コウロギミコトと読むらしい)は馬鹿にされているのにも関わらず、ぼんやりとした表情であたしを見ていた。阿呆だなコイツと思いつつ、あたしは奴に何か言いたいことでもあるのかと視線を送ると、奴はゆっくりと口を開いてこう呟いた。

「あなた、人を傷つけたことがある人ですね。そういう笑い方してます」

 流石普段から傷つけられているだけあるな、とあたしは蔑むように奴を内心嘲笑するが、次の言葉でそれが焦りに変わった。

「それに、あなたから血の匂いがする」

 絶句した。

「誰か人、殺したこと、あるんですか?」

 ブルブルと体が震えた。次々と投げかけられる言葉に心臓を掻きむしられるような苛立ちと怒りを覚え、殺意が湧き出してきた。コイツの口を今直ぐ閉じなければあたしは直ぐにでも砕け散ってしまうように思えた。

 よし、殺そう。その減らず口に拳をねじ込んで、歯を全部へし折り、舌を引きちぎってやろう。そう思い、私が握りこぶしを作った瞬間、美雪があたしを制した。あたしは直ぐに冷静になり、自分はなんて恐ろしいことを考えていたのだと思い立った。

 ここで殺したら足が付く、やるのならもっとひと気のない場所にしなくては。

 女々しい顔立ちの興梠命と美雪をあとにしたあたしは、それから即座に女子トイレに駆け込むと、自分の手を何度も何度も洗い流した。何度洗っても血の臭いがするのだ。あの時の血の臭いが止まらないのだ。冷や汗を掻きながら私は狂人のように歯を食いしばり、手を洗い続けた。

 血の臭いは消えた。だけれど、人を殺した時の感触は、まだ拭えない。

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