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リビングに入り、まず感じたのがコーヒーの匂い。父様はわたしをチラリと見て、ミルクに濁ったそれをゆっくりと口に運ばれました。わたしの口の中にもほろ苦い砂糖の甘さが広がるような錯覚。
姉様は気だるそうな表情のまま、パンの上にブルーベリーのジャムを雑に塗りたくり、口元に運ばれていました。母様はいつも通り冷たそうな表情でベーコンエッグを焼いておられます。
父様が「おはよう」というのに合わせて、母様が前を向いたまま「おはよう」といい、姉様は一瞥もくれることなく、口をモソモソと動かしながら「ほひゃひょう」と言いました。
心理学の権威である父様は、染み付いたような笑みでわたしに首輪と猫じゃらしを見せました。わたしはどういうことだろう、もしかしてわたしの覚えていない何か意味するものがそれにはあるのだろうかと、その場で固まり悩んでいると父様は仰られました。
「うちのペロの首輪と猫じゃらしだよ。覚えていないかな」
憶えていないかな。その言葉に空っぽの胃がぎゅうっと締め付けられるのを感じました。思い出せと急かされているような焦燥に、どうしたらいいのか分かりません。ただ足が震えて、ぼろぼろとした音になりきらない言葉が口から漏れます。視線がどこかに逃げようと勝手気ままにに暴れまわり、車酔いのような波にわたしの意識は攫われました。
体の内側が剥がれるような、ふらりと浮遊感が身を包みます。音が遠くなり、景色が床にこぼした砂のように散らばり消えてゆく。
「あ……れ」
「大丈夫?」
気がつけば姉様にだき抱えられておりました。どうやらわたしは一瞬ばかり気を失ってしまったようです。とりあえず涙をぬぐい、わたしは姉様と父様と母様にごめんなさいと謝りました。覚えていませんと。
ベーコンエッグを皿に移した母様と、カップを置いた父様は「エピソード記憶に問題が……」だとか「精神的な……」などと複雑な単語の応酬を交わしておりました。母様は脳生理学の権威なのだそうです。
つまりお二人はわたしの言葉なんて聞いていなかったのです。ただ姉様だけが気だるそうに「いいよ、ゆっくりで。思い出せなくても別にいいよ」と微笑んでおられました。
わたしはただただ申し訳なくなって「猫の名前……思い出せなくてごめんなさい」ともう一度謝りました。わたしを起こしながら姉様はいいました。
「犬の名前だから」
「え、でも猫じゃらしが……」
「猫みたいな犬だったのよ」
「そう……ですか」
「もう、死んじゃったんだけどね」
少し辛そうに笑う姉様の表情、わたしの記憶復活の道を一生懸命模索するご両親にわたしは発狂しそうでした。それはまるで、わたしのことを言っているようで。
そして朝食を流し込み、逃げるようにして家を出たのです。
「いい家族じゃん」
そう東さんは笑いました。
「問題があるのは君の気持ちで、まわりは別に問題無くないかい?」
「でも、今の僕がいらないと……お前じゃないと言われているようで辛いのです。ぼくが今頼れるものは何もなくて、ただ無防備で……でもみんなはそんな僕を追い立てまわす。そんな気がしてしまうのです」
「考えすぎだと思うけどねー。わたしから言えば今の君もこれまでの君もあまり変わってないように思うよ。前はぜーんぜん喋ってくれなかったし無口だったし、今の方があたしは好きだね」
今のわたしを肯定してくれる優しさに、わたしは少し気恥ずかしい気持ちを覚えました。でもそんな気持はおくびにも出さず、いつものように平常を貫くのです。
記憶をなくしてあまり時間は経ってはいないのですけれど、東さんは常に優しくポジティブで、わたしを励ましてくれます。どうしてでしょう? それだけが謎です。以前、聞いたこともあるのですけど「記憶を取り戻したら分かるかもね」などと含みを見せるだけで語ってはくれませんでした。
「そういえば、君んち犬飼ってたんだねえ。あたし知らなかった」
「猫じゃらしで遊ぶ犬です」
「どう考えても猫だよねそれ」
「猫のような犬です」
「どんな犬だよ!」
「遠くで見ると猫にしか見えないですし、鳴き声はにゃーんと聞こえるのですけど、近くで見るとどう見ても犬で、鳴き声はワンなのです」
「それ、ユーマとかそういう類だよねー、どう考えてもさあ。あれかね、塀の上で寝てたりとかするのかな?」
「猫のような犬なのでありえるかもしれないです」
姉様は結構嘘をつく方なので、それが真実かどうかは分かりかねます。わたしが初めて目覚めた時も「私は君の彼女だよ」と仰っていたくらいです。愛し合っていただとか、結婚を前提に付き合っていたなどと言い、わたしが狼狽している様を内心ほくそ笑んでいるようなイジワルな方です。
そういうことを東さんも分かっているのでしょうか、にっと笑い、口を開きました。
「いひひひひひ、そいつは面白そうだね。一度写真とか持ってきてみせてよ。できれば遠くと近くで撮った写真の二枚があると嬉しいよ」
「今度見つけたら持ってきますよ」
なければ猫と犬の写真を撮って彼女に渡します。
明るく笑う彼女に釣られてわたしも小さく頬を歪め、早朝の静かな校門を潜ったのでした。
静かな廊下を進み、自分たちの教室の戸を開けると、そこにはクラスメイトの八瀬くんと神足さんがいました。八瀬くんはジャージ姿なので、今から朝練なのだと思われます。隅の席に座っている神足さんは……よく分かりません。わたしのことをあまり好いていないようなので。
「よお、相変わらず朝早いな」
それはお二人にこそ言いたいのですけどと思いましたが、わたしは口をつぐみ、窓辺の席からわたしを見つめる神足さんを見ました。あっ、目をそらされてしまいました。
「あのさ、あたしもいるんだけど忘れてない?」
ぎゅるりと獣のような瞳で東さんは八瀬くんに微笑みました。八瀬くんは短い髪の毛を少し手で撫でつけ、ひっそりとわたしに耳打ちしました。ふわっ、くすぐったいのです。くすぐったいのですけど!
「記憶を忘れても、あの女の恐ろしさは身に染みてるはずだろ? 悪いことはいわねえから、防犯ベルとスタンガンを今すぐ買いに行け、な? アイツを痴漢した奴がどうなったのか、覚えてるか? 覚えてない? それは幸せだな、おい。俺は今でも夢に見るぜ」
「ひひひ、八瀬君」
「お前、相変わらず気持ち悪い笑い方するのな」
「うるせー! 早く、朝練いけコラ!」
東さんは短い髪を振り乱し、八瀬くんの首根っこを掴むと、廊下に向かって蹴り飛ばしました。ピシャリと戸を閉め「疲れたー」と呟きました。扉の向こうで八瀬くんがゆっくりと起き上がり、“な、見ての通り”といった顔でわたしに手を振り、どこかへと消えてゆきました。
振り返れば東さんは神足さんの席に座り、神足さんに髪を梳かしてもらっています。神足さんはおかっぱ頭で奥二重という日本的な女性で、非常に真面目な方です。東さんと神足さんは非常に中が良いらしく、その様子はまるで、かしづくお付きのものとお姫様といった感じでしょうか。…………仲がいいとは違うのかもしれないと、今更ながら思いました。ですけれど、神足さんは二人は本当に仲睦まじ気なのです! 東さんは忌憚ない言葉で彼女に話しかけ、神足さんは彼女に敬語で遠慮がちに…………?
ええっと、仲はいいはずです。恐らく。きっとわたしの見ていない場所では、多分。




