19ページ
私は空を仰ぎみて、ふっと溜息をひとつ着く。屋上から見える薄く塗られたような水色は、白いちぢれ雲を泳がせながら柔らかくきらめいていた。何見てるの、と声がかかって私は視線を戻す。目の前には嬉しそうに箸を握る御前。そしてゆっくりと丁寧に弁当の包みを解く興梠が、そこにいた。
興梠をくどくのには苦労した。その反対に御前はとても簡単だった。「興梠と仲良くしてくれないのなら、もうお弁当は作りません」というだけで事は足りた。御前はあの一件以来、興梠をあまり快く思っていないらしく、どこか気まずそうにしていたのだが、何とか元の鞘に収まることができた。
興梠は弁当を見られるのが嫌いらしく、いつもお昼になると学校中をうろついて、ひと気のない場所を探していた。それを不憫に思った私は一緒に弁当を食べてやろうと声を掛けたのだが、興梠は露骨に顔をしかめて首を横に振り、拒否を示した。私はそれからというもの、昼になると興梠の背中を追いかけ、如何に青空の下で友人と食べる弁当が旨いのかということを力説し続けた。そして一週間目の今日、奴はついに根負けし、今こうしてこの場所にいる。一週間昼抜きだったが、それは興梠も同じだし、何よりたくさんコイツの言葉が聞けたのが嬉しかった。主に「嫌です」の言葉が中心だったような気もするが。
「いえ、いい天気だと思って……」
「ひょうだね、いいへんひだへ」
「口にものを入れている時は喋っては駄目ですよ、東さん」
「ほーい」
子供のように料理を口にほうばって御前は首を前後に首肯させる。私は溜息を混じらせつつ、自分の弁当の蓋を開けた。サイズは御前の三分の一程度の大きさだ。うん、煮物は味が染みていて旨い。
「…………」
箸を進ませながら興梠をちらりと盗み見る。奴は弁当箱の蓋で中身を隠し、忙しなく箸を動かしている。何があっても私たちに中身を見せたくないようだ。御前の位置からなら何とか見れるのではないかと思い、目配せを試みるも、彼女は「え、それくれるの?」という顔をするだけ。チーズちくわは私の好物なのであげません。
私は思い切って聞いてみることにした。
「なあ、興梠。何でそんなに弁当が見られたくないんだ?」
奴はびくりと体を震わせて、私の顔を見た。見たあとにゆっくりと視線を逸らして、「えっと」だとか「あー」だとか気まずそうな顔を作る。表にこそ出しはしないが内心、代わり映えのしない表情が微妙に揺らぐ様が見れて嬉しい。
興梠がうんうんと回答を考えているその隙をついて御前が、後ろからそっと弁当箱を盗み見て、箸を差し込んだ。
「あっ」と私と興梠は声を上げ、さらわれた唐揚げが御前の口の中に滑り込む様を見つめた。瞬間、興梠の蓋が手から零れ落ちて、弁当の中身があらわになった。うさぎの形に切られたリンゴや、さくらんぼなど、異様なほどそれは子供らしかった。お子様ランチのような雰囲気がある。
私の「あっ」という二度目の言葉に興梠は弁当が見られたことに気が付き、顔を真っ赤に染めた。どうしようと慌てふためくが、御前が唐揚げを咀嚼しているのも気になっているのか、どうにも不恰好で、小動物のようで、そう……可愛らしかった。
「あの、これ、はその姉さんが……! 僕はその」
「別に他人の弁当にけちをつけるほど私は俗じゃない」
「みひゅきはいいほなんだほ」
「……東さん、ちゃんと飲み込んでから喋って下さい」
「ほーい」
興梠はしどろもどろに言い訳をしていたが要約すると、姉がわざと他人に見せられないような恥ずかしい弁当を持たせるので、今まで隠していたのだそうだ。
もう隠す必要はないと私と御前がいうが奴はそれでも頑として弁当箱を隠し、耳まで赤く染めて体を前後に揺すっていた。御前がそれを先日の仕返しとばかりに指摘してからかった。不意に興梠の体のゆすりが止まったかと思うと、奴は小さく嗚咽を漏らしながらグズグズと泣き始め、御前のからかい顔が凍りついた。
「ねーねー、だからごめんって! いやあ、さあ、そんなつもりはなくて、えーっとだから、ね? ああ、ほら、おじさん飴持ってるからこれあげちゃう! ほれほれ、イチゴ味とイチゴ味とイチゴ味があるよ?」
私は興梠の背中をさすりながら、目で御前を責める。御前は私の視線に冷や汗を掻き始めた。明らかにこれは御前が悪い。
「……なっ、泣いてません」
ぼろぼろと涙を膝の上に零しながら、かすれた声で興梠は否定する。ちょっと花粉症で、と鼻声の言葉。
どうやら自分が泣くことで御前に迷惑がかかるのではないだろうか、ということを気にしているらしかった。でも、だからといって、その言い訳の仕方はないだろうと内心思う。本当にそれで丸く収まると思っている節があるのが相変わらずズレていると言わざるを得ない。
「興梠、大丈夫だ。私が今夜お前の敵討ちをしてやる。東さんの今日の夕飯は味のないおかゆに決まったぞ。安心しろ」
「美雪、そりゃあんまりだよう!」
むせるように震えていた興梠の顔に少し表情が戻った。
私は興梠の顎を持って、顔をハンカチで拭いてやった。きめ細かい肌、赤く染まった瞳、やわそうな唇、うなじ、香水でもつけてるのかと言いたくなるような甘い桃のような香り。どくどくと胸が高まり、手に汗が滾る。じっとりと汗ばんだ髪の毛は汗を吸っていながらも柔らかく、ずっと触っていたくなるような心地良さだ。
「あの、もう、いいですか」
「……あ、ああ! すまん、大丈夫だ」
興梠はくすぐったそういい、離れた。どうやら私は興梠の顔を少し長く触り続けてしまっていたようだ。慌てて取り繕うも、興梠は何となく引き気味で、御前はにやにやと私をみて笑っていた。
「美雪、なんか今さ、犯罪一歩手前だったよ」
明日の朝もおかゆです。
そのまま何だかんだで弁当は終わった。私は興梠に明日もここで食べようと約束を取り付けた。
教室に戻る途中、トイレに寄った私は個室に篭ると、興梠の汗と涙を拭いたハンカチを鼻に押し当てて、胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
「あっ、涎が……」




