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靴を上履きに替え、静かな校舎を歩く。シンとしていて、空気の停滞した臭いに私は光悦とした気持ちを抑えられない。私は映画が始まる瞬間のあの真っ暗な画面が一番好きだ。何かが始まりそうな一瞬というのは胸が踊らされる。どうしてかは分からない。御前にそのことを以前話したことがあるが、珍妙なものを見るような顔で「変わってる」と笑われた。
「なんでこんな朝早くから学校来なきゃいけないわけよー。あたし、眠いよう」
欠伸を噛み殺す御前の手を引いて先に先にと私は進む。というかその理由は昨日、ご夕飯の時に言ったと思うのだが、どうやら食事に夢中で全く聞いていなかったようだ。私は少し疲れたものを感じながら彼女を見つめるが、彼女はあっけらかんと笑うばかりで動じない。
「一応、その、私はこういう人間と話しをしているのだ、ということをお伝えしようと思いまして……」
「……お伝えしようと思いまして、じゃないでしょ」
御前は敬語を使うと機嫌が悪くなる。初めて会った時からなるべく敬語は使うなと私に厳命していたのだ。
「あ、いえ、思ったんです。そ、それに朝の方が人が少ないですし、興梠も大体八時頃にいくと席に座ってますから」
「ふーん、友達紹介的な感じか」
「ええ、興梠はいつも暗いですし、東さんの明るさを少し分けてあげられたら、と」
「うーん、鬱陶しいとか思われなきゃいいけどさあ、そこら辺大丈夫なわけ?」
「たっ、多分……」
大丈夫だと思いながらもその足は重い。まだ、まともな会話らしい会話をしたことはない。私の捲くし立てる言葉に興梠がただ相槌を打っていると表現するのが正しい私達の関係性。何だその老人介護のような関係は。
そう思うと途端に胸が重くなって、手が汗ばむ。先へ先へと進んでいた足も止まり、私は自分のつま先を見つめた。足が固く、動かない。
くしゃりと髪の毛を揉まれ、振り向くと優しく笑う御前がそこにいた。
「まあまあ、気にすんねえ。明るく元気出していこーって感じだよ」
「そうですね」
「そうだよ」
引っ張っていたはずの手が前に引っ張られ、重かったはずの足がだんだんと軽くなる。
姉のような妹のような、娘のような母のような、そんな大きな人の手に引かれながら、私は前へ前へと自ら足を動かす。眉を引き締め、姿勢を正し、酸素を入れ替え、教室の引き戸を開いた。そして御前を先に入れ、戸を閉めると端の席でぼうっと黒板を見つめている興梠まで近づき、私は口を開く。
「か、髪型変えたのか?」
私の後ろで御前が盛大に吹き出した。
興梠はどんよりとした目で私を見つめ、可愛らしく首を傾げた。笑いを堪える後ろの声は気にしない。気にしたら羞恥に圧殺されて何もできなくなってしまう。
「いえ、変えてませんよ」
「あっ、そそそうか。あっと、おはっ……おはよう」
「おはようございます」
「あっはっはっはっは! 第一声がそれって! 美雪さ、朝っぱらから何面白いことやってんの? いっつもこんな感じなわけかい?」
「こっ、この人は私の友人の東瑞希さんだ」
気恥かしさを気合いで押しつぶし、私は話しを先に進める。顔が熱い。
興梠は席に座ったまま、首だけで御前におじぎした。
「ふうん、君が興梠命ちゃんかー。話は聞いてるよん。んー、可愛い顔してるけど…………なんて言うか、目が死んでるねえ。空っぽだ。まだマネキンの方が愛嬌あらあね」
「そうですか」
「あ、東さん!」
興梠はどうでもよさそうな生返事。御前は微笑みながらも品定めするかのように興梠の一部始終を見つめている。私は父親に恋人を紹介する娘のような気持ちで、あたふたと二人を見つめる。本来、当事者のはずの私は何故か今ここでは部外者という雰囲気。どういうことなのだ。
「うん、分かった分かった」と御前がうなずき、胸の前で腕を組んだ。そのままこちらに振り向き、満面の笑みを零す。何となく安心した気持ちになりかけるが、御前の声色が冷えきっていたことに若干の不安を覚えた。
「美雪、この子に近づかない方がいいよ。心が死にかけてるし、傷つけられ慣れてる。不幸を呼ぶよ、この子」
「東さん、急に何を……」
「この子、まともじゃないよ。一度、粉々にした人形を無理やり組み立てなおしたみたいな感じする。友達は選ぶべきだとあたしは思うね」
私の反論を抑えて、続けた。
「はっきり言うよ。この子、人間として不完全だよ」
沈黙が場を包んだ。
不意にあなた、と誰かが口走る。誰かといってもこの場にいるのは私と御前と興梠だけで、状況から言えばそれは当然、興梠だった。興梠が誰かに向けて何かを話そうとしているということに、今の御前の言葉すら私は忘れかけた。
何だ、何をいうつもりなんだ? 他人に無関心なはずのお前が何をいうつもりだ? お前の何をそうさせたんだ。もしかして……怒ったのか? いや、そんな馬鹿な。
「あなた、人を傷つけたことがある人ですね。そういう笑い方してます。それに」
一瞬、御前の表情が酷く冷淡なものに変わった。
興梠はいいかけた言葉を続けていいものかどうか考えあぐねているようで、口の中で言葉を転がしているようだった。
「それに、なんだい? 命ちゃん」
御前はそんな興梠を高圧的に見下ろした。御前は体で黙れと物語る。しかし、興梠はそれに気づけない。気づけないからこそ、その言葉は当たり前のように出た。
「……それに、あなたから血の臭いがする」
「は?」
「誰か人を、殺したこと、あるんですか?」
「…………」
私は御前の顔を恐る恐る見上げ、ぞっとした。建前は冷静を装うが、内心は酷く怯えた。
御前はもうその怒りを隠してはいかなかった。不愉快そうに唇の端をねじ曲げて体中に怒気を孕ませ、興梠を見下ろしている。奴はそれが分かっているのかいないのか、ぼんやりとしていて全く動じていない。私は何とか助け舟をだそうと思慮を巡らし、口を開きかけるが、何も浮かばず、ただ呆然と立ちすくした。
興梠は何か触れていけない部分に触れてしまったのだ。長年、連れ添った私が知らないような何かに。
ああ、そうか。きっと興梠は無意識に人の本質を覗いてしまえる人間なのだ。私のハンカチを拾ってくれた時のように。だから隠していてもそれを見てしまうし、元々のきらいがそれを語らせてしまう。それがどんなに恐ろしいことでも疑問を抱けないし、抱かない。
私は御前に声を掛けようと寄り添うが、到底触れられるような状態ではなかった。普段のたおやかな雰囲気はなく、ただ表情は悪鬼のごとく辛辣なものだった。
ダンと御前が興梠の机に手を置いて不敵に笑った。私は驚き、体をびくりと震わせる。しかし、いや、やはり興梠は動じない。
「だ、として……何が問題なのかね、コオロギちゃん」
「今、幸せですか?」
「っ!!」
ぐっと御前が身を引かせ、目を見開いた。私には何が起こっているのか分からない。
興梠は続ける。
「毎日が楽しいですか?」
「…………」
「ご飯が美味しいと感じますか?」
「…………」
「……考えたことありますか?」
冷や汗。御前の冷や汗。
興梠の今にも掻き消えそうな声は御前を揺さぶり、何かを苛み続けている。彼女はついた手のひらをゆっくりと拳の形に変えた。
ああ、不味いこれは、興梠が殴られ暴力が拳が飛んで、血が、死。
「御前、やめて下さい」
私は従者らしく感情を殺して冷静に意味を伝える。その行動について回るツケを考えてくださいと。人を殺すつもりなのかと。
彼女の握りこぶしを私の両手で覆い、彼女に微笑みかける。ゆっくりと手の力を抜くように目で語りかける。今度は私が御前の気持ちを和らげる番だった。
固く握られた手をゆっくりとひらの手に戻し、彼女は静かに深呼吸した。そしてにこやかに笑う。
「……興梠命ちゃん、悪かったね。あたし、なんかテンパちゃった」
「いえ、僕の方も変なこといってしまったみたいで、すみませんでした」
「あー、ボクっ子なんだ。かわゆいねえ。美雪の部屋にある甘っ甘な洋服とか着せてあげたい感じだ! あはは」
「あああっ、東さん!」
私は少し顔を赤らめながらも、ほっと気を和らげた。先程のことは数分、あるいは数十分もの経過のように感じたが実際には数秒のできごとで、興梠本人は御前が自分を殺すつもりだったなどこれっぽちも分からなかっただろう。そして、知らないまま終わってよかった。
御前は後ろ姿のままヒラヒラと桜の花のように手を振って、廊下に向かった。
「この場は若い二人に任せて、あったしは購買に退散するよ。ほんじゃあねー」
小さく欠伸をしながら眠そうに御前は消えた。空気は軽く、何だか興梠と話しやすい空気。だけど実際には最悪の出会いだと私は思った。




