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空を仰ぎみれば何かが浮かぶような気がした。
しかし何も浮かばず、ただ時間は過ぎ去り、春の生暖かい風が頬を撫でる。私は何度目になるか分からないため息をフウと吐き出し、重いような軽いような浮き足立った足をフラフラと前に進ませた。
つまり今は登校中の朝で、私は御前と一緒に学校へと向かっていたのだ。
「よく分かんないけどさあ、好きなら告白すればいいんじゃねーのとか思うんだけど」
「べべべべべ、別に好きとかそういうのじゃないです!」
私は振り向いて御前に違うと冷静に答える。御前はやかましいとでも言いたげなお顔で、耳に手を当て、私の言葉をめんどくさそうに流した。
このお方は分かっていないのだ。私はただアイツに恩返しをしたいだけであって、別にそんな恋だの愛だのは全く感じておらず、全然アイツのことなど気にしてなどいない。ただハンカチを拾ってくれた者と拾われた者という拙い間柄ではないか。どうして人はそうやって何でもかんでも色恋沙汰に結びつけようとするのか。理解に苦しむ。アイツにだって好きな人を選ぶ権利はあるし、そういう想い人が……………………いるのだろうか? いたらどうしよう。いや、だけど、しかし。
「あー、一人でうんうん唸ってるとこ悪いけど、そのコオロギ? ……とかいう人とどうして知り合いになったんだっけ?」
「興梠です! “お”じゃなくて“う”ですよ、東さん」
「あー、ハイハイ。ごめんごめーん。んで、その興梠さんとどういう経緯があったわけさ」
朝日を前に御前は少し眩しそうに目をこすりつつ笑う。桜の花びらがひらりと風に乗って舞い、御前の美しさを際立たせる。私はそれを横目で少し羨みながら、何回も話したはずの話しを始めようと唇を濡らした。何だかんだで私もこの話をするのが楽しいのかもしれない。……どうしてだろう? やはり美談だからなのか、私にとっての。
「そう、あれはですね――――」
「あ、一応言っとっけどさ、落ち着いて喋ってね? 美雪さ、喋ってるうちに勝手に盛り上がって興奮して、なんか聞いちゃいられないからさあ。もう、なんていうのかな。青春ラブとかそんな感じで」
私は大きく吸い込んだ肺の息をまずい、と止めて吐き出す。冷静に冷静にと深呼吸を繰り返し、記憶の歯車を緩やかに滑らせた。
御前が「面倒だからいかない」といった始業式のあの日、私はクラスの中で孤独を感じていました。周りは孤独を恐れてか、薄い緊張の膜を張りつつも、それから逃れる為に知りもしない相手に話しかけ、調子を合わせて醜く笑っていました。私はただその光景をぼんやりと眺め、何故そんなにも人は孤独を嫌うのだろうと考えていました。人に囲まれる煩わしい生活よりも、ひっそりとした木陰に生える草木のような人生の方が有意義ではないだろうか、と。私には意味のない会話よりも教室に充満する真新しいワックスの臭いや、窓から漏れる白んだ陽の光の方が意味があるように思えたのです。
クラスを眺めているといろいろな人間がいました。誰かと話したいのに話しかけられない人、とにかくいろいろな相手に声をかけている人、知り合い同士で話しをしている人、話しかけられて喜んでいる人。そして無関心を貫いてる人。それが興梠でした。
顔は整っているにしても、まず目が酷い。何も渇望せず、何も望まず、何も見ていないその瞳はどんよりとヘドロのように濁り、その身からは他人を寄せ付けることを良しとしないような、腐臭にも似た気迫を滲み出していました。
私はその時、なんて辛気臭そうな面だろうと内心、興梠を見下していました。きっとこういう人間が猟奇犯罪を犯すのだと水飲み場に向かいながら横目で奴を一瞥したのです。
水を飲み、席に戻り、また私はクラスの観察を始めました。御前に近づきそうな人間、御前に危害を加えそうな人間、それ以外の人畜無害な人間。そう頭の中で振り分けていました。その延長線上です。ふと「あの興梠という人間はどこに振り分けるべきだろうか」と私は少し離れた奴の席に目を向けました。すると奴は事も有ろうに、自分の席で私のハンカチを握っていたのです。持て余し気味で、どうすればいいのだろうと言いたげに。
即座に私の顔はさっと赤くなり、次に青白く染まりました。
私のだ、と言って取りに行こうにも“そういうハンカチ”を持っていると思われること自体が私には耐え難く、その選択はできません。え? いえ、ずっと昔にからかわれたことがあるんです。似合わないと。
えっと、ああ、それでですね……奴はこのまま、やってきた教師にそれを拾い物だと手渡し、教師の手によって衆目の目に晒されるのは自明の理のように思われました。私にとってそれは拷問です。後々職員室へ行って、恥を押し殺しつつ、あれを回収するしかないと私が俯いていると、興梠は本当にそこにいるのか、と疑いたくなるような希薄さで私の前に立ち、無言でピンク色のファンシーなハンカチを差し出しました。騒がしいせいか、あるいは希薄過ぎる興梠の存在感がそうさせるのか、私達に注目する人間は誰もいませんでした。
私は咄嗟にそれを受け取り、机の中に隠すと、興梠にどうして私のものだと分かったのだと、やや強い口調でいいました。恥から、でしょうか。よく分かりません。
興梠はその問いかけに少し黙り、濁った瞳で静か口を開きました。瞬間、私の世界の音が消えたのを感じました。
「……君って感じがしましたから」
そう言い切ると奴は音も立てず、わた毛のようにふわりと自分の席に戻り、ぼうっと虚空を見続けました。一方、私は戦慄のような体の震えに、ただ呆然と興梠を眺めていました。いろいろな感情がせめぎ合い、湧き立ち、呼吸が止るような思いだったのです。
私の本質を容易に見抜いた眼力、事を荒立てない優しさ、自分の幼稚な想像力だとか、外見で人を判断することの無意味さだとか、いろんなものが混ざり合い、気がつけば放課後で、気がつけば席替えで隣り。
それはそれはもう、生きた心地がしない一日でした。
「なんかさあ、美雪、熱入りすぎ」
「そ、そんなこと……そうですか?」
事実、私は少し汗ばんでいて、しゃべり疲れています。御前は花のように笑うと白い歯を見せて、おどけるような表情を私に見せました。
「うん、火傷しそうなくらいあっついあっつい。まだ春だよ? カンベンしてよねー」
「ご、御前は興梠のことは何かご存知ありませんか?」
「その興梠……命だっけ? 全然知らないっかな。っていうかわたしさ、ほら、クラスメイトすらまともに覚えてないし、不登校だし?」
あっけらかんと笑う御前に私は不覚にも泣きたくなりました。当然、それは悪い意味で。
「……ああ! 次期当主がこの体たらく。これでは故郷の父と母に顔向けできません。歴史ある神足の名を汚してばかり。一体どうすればいいのでしょうか。神様、教えて下さい」
私は頭を抱えて深い深い、それこそ谷底のように深い溜息をつきます。私はこのお方のお目付け役の筈なのですが、昔からこのお方は自由気ままで、私の小言などのらりくらりとかわし、惰眠を貪ることと食べ物にしか興味がないのです。朝は眠いから起きない、昼は眠いから起きない、夜はお腹いっぱいだから寝るなどと今時、幼子ですら言わないようなことを笑いながら平然と言ってのけるのですから、もうどうしようもありません。何事にも動じないということは良いことでもある反面、悪いことでもあるのだと私は最近になって悟るようになりました。
「まあ、気にすんねえ。それよりもさ、今日のお弁当何なの?」
「ああ! 父上、母上……私はどうすれば!」
まずは涎を拭いて差し上げるべきなのはよく分かりますが。




