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 日曜の早朝ほど緩やかな時間が流れているものはないとわたしは思います。鳥のさえずりはどこかのんびりとしてて、朝日の昇ったばかりの住宅街はしっとりとした空気が流れ、基調をグレーに統一しています。

 鉛を乗せたかのような重い足をわたしは前へ前へと進ませるのですが、上手くいきません。体が重く、気分が晴れません。

 わたしは散歩が好きなのですけれど、どうしてでしょう。今日の散歩はこれっぽっちも楽しくありません。季節外れのウグイスが咳き込んだような鳴き声を上げました。辺りを見回せど、ウグイスの姿は見えません。わたしは探すことを諦め、小さな川原をゆるゆると進み、坂を上り、東さんの家を通り過ぎ、寂れた庭の広がる平屋……神足さんの家で足を止めました。

 黒い瓦屋根とこげ茶色の壁、すりガラスの引き戸。東さんの家から一分もしないだろう距離にあるそれ。

 先日のそれを思い出したわたしは手に汗を吹き出させ、乾いた喉に唾液を流し込みました。

 辛いです、とても。もしここで偶然にも東さんに出会ってしまったらということを考えると辛いです。神足さんに何をされるのだろうと思うと辛いです。家に帰った後、姉様がわたしに何を思うのだろうと考えると辛いです。

 進んでも辛いです。帰っても辛いです。ここにいても辛いです。わたしを中心とした(ひずみ)の正体が掴めなくて辛いです。それはきっと良くないもので、わたしの忘れてしまったもので、忘れた方がよかったものなのでしょう。前のわたしは一体、何をしたのでしょうか。

 いっそ悪党だったら。

「不気味に家の前にずっと立たれても困る」

 その言葉にわたしはどきりとしました。首を左右に動かし、言葉の主の姿を探すのですけれど見当たりません。透明人間になった神足さんがどこかに潜んでいるのでしょうか。

「後ろだ」

「あうっ」

 彼女はわたしの首に手を回して耳元で息を吹き付けるような囁きを零しました。ぞくりと刺すような息に力が抜けかけました。

「こんなところで突っ立ていたら危ないだろ。もし御前に見つかったらどう言い訳するつもりだったんだ?」

「いえ、その」

「でも、来てくれたことは感謝する」

「っ!」

 べろりと、頬を温い舌がひとかき、して……いえ、しまし、た。

 彼女はわたしの手を取り、引き戸をガラガラと開きました。わたしの頭はそこに入るべきではないと何度も苦言を申すのですけれど、わたしの体はそれに耳を傾けず、思考停止を続け、彼女に引っ張られるがままなのでした。

 ピシャリと戸が閉められ、わたしは玄関の一段上がった場所に寝かされました。靴を無理矢理に脱がされ、服の襟首(えりくび)を掴まれ、ズルズルと廊下を引きずられます。わたしはそこでやっと口を開きました。

「あ、え、その、お邪魔します」

「誰もいないから、別に気にしないでいい」

「え?」

 彼女は引きつったような笑みでわたしを見ました。武者震いのような、何かこう、よくない笑みです。

「ここにはずっと私一人だ。ああ、これは前もいったか……ってお前は覚えちゃいないよな。ああ、今思えばあの日が人生で最高の日だった。あかね色の夕日が窓から斜めにさしていてさ、カーテンから漏れる光に部屋の埃がヒラヒラと漂っていて」

 一番奥の部屋で彼女は止まり、扉を開けました。私をそこに投げ入れました。

 仄かに甘い香りがわたしを包みます。

「無理いって家に上がてもらって、私がお前に何も言わずにキスをしたらお前は泣き出して、私はどうしていいか分からなくて、お前を傷つけてしまったような気がして、お前がべそを掻きながら帰るのをただ呆然と見つめてた」

 少女趣味の部屋が目前に広がりました。ベットには動物のぬいぐるみ。少女趣味というよりも子供っぽいと表現すべきかもしれません。

 わたしを重そうに部屋に投げ入れると、神足さんは扉を閉め、カチャンと鍵を掛けました。何度もガチャガチャとノブを回し、開かないことをチェックしてからこちらに振り向きました。

 わたしが慌てて立ち上がると、彼女はわたしの内股に足を差し込み、そのまま片足をコツンと転ばして、うまい具合に横のベットにわたしを転ばせます。……などと関心している場合ではないです。これは、本当に危ないです。危険です。

 柔らかな白い布団の上にわたしの体が落ちました。少し、お日様の香りがします。

「数日後、学校でお前は謝ってくれた。緊張していてパニックになったんだって。よかった、私は嫌われてなかったんだと安心した。凄く、深く。また来てくれると答えてくれたお前に胸を踊らせた。距離が少し近づいた気がした。…………だけど、その日、お前は犯された。ボロ雑巾、そう、ボロ雑巾みたいにされた。あの日、聞いた。聞いてしまった! お前の泣き声をっ! 息を殺して泣くお前の声が……今でも耳にこびりついていて離れない。お前を見る度に辛かった。不登校になったお前の空席を見る度に胃がキリキリと痛んで、何度もトイレで戻した。滅多なことじゃ行動スケジュールを変えないお前が学校に来なくなった。悲しくて苦しくて、苦痛で孤独だった。

 お前が記憶をなくしたって聞いて、私は喜んだ。嬉しかった。だってな、それはお前が何も覚えていないということだから。辛い時の記憶を忘れたということだから。全てがゼロになってお前は開放された。でも記憶をなくしたお前は前の自分を知ろうとした。思い出したところで、知ったところで全く意味がないのに。不幸になるだけなのに」

 彼女はわたしとは違う種類の震えを喚起させながらセーラのスカーフをスルリと解きました。わたしの上に身を合わせます。合わせながら懺悔めいた言葉を続けました。


 ……だから私はお前が思い出そうとすることを妨害した。御前と一緒にいることもそれに繋がると思って。だがしかし、あはははっ、やっぱり御前のことは嫉妬だな。ただの嫉妬。お前と御前が仲良くしているのが耐えられなかった私の言い訳だ。いや、それだけではないか。私は心の中で許せなかったんだ。私からお前を奪っていったことが、お前にあんなことをした御前が平気な顔をしてお前と話しをしていることが、(はらわた)が煮えくり返るほど許せなかった。

 ああ、こうやってお前とベットで身を重ねるのが夢だったんだ。お前の心臓の高鳴りを聞きながら、こんな風に目を閉じたかった。

 ん、随分とリラックスしているように見えるか? これでも今すぐ発狂しそうなほど緊張している。お前に拒絶されて、逃げられてしまうのじゃないかって。あの時のように。

 でも、お前はどこにも逃げない。逃げたとしてもお前は自分の知っている道にしか逃げられないし、今日は四時まで家に帰らない。そうなんだろ?

 ……随分と不思議そうな顔だな。何故、知っているか分からないか? それは前のお前がそうだったからだ。よくは知らんがお前はそういう“きらい”の人間なのだそうだ。それを随分とお前は悪用されていて、傷ついていて…………よく犯されてた。

 お前は必ず土日は外に散歩に行く。どんなに傷ついていて、嫌な事があっても、お前は殆ど表情を変えない。殆ど声を上げない。辛いことには極限まで耐える。

 だからお前が顔を歪めて泣いていたあの日、私は耳と目を閉じ、口を噤んだ。呪文のように何も聞こえないし、何も見えないと一人呟いた。これは光栄なことで、これは正しいことで、私は何も悪くなくて、アイツは寧ろラッキーだったんだと。呪われた家から出るチャンスじゃないかと、アイツが幸福を掴むチャンスだと自分に言い聞かせた。笑わなくなったお前の顔、私に何も言ってくれなくなったお前の口、私を見なくなったお前の目を見ながら、ただ信じた。汚されたお前を風呂場に連れて行き、シャワーで流しながら。いつも寂しそうで、生きているのがツラそうな目に怯えの色が混ざっても私は自分に言い聞かせ続けてたっ!

 お前が御前に犯されるのは凄く光栄なことなんだって……!

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